第一章
海賊乙女と英雄騎士①
初めて短剣を握った日のことを、クレアはいまでもはっきりと思い出せる。
浜辺に照り付ける日差しと、すぐ傍に蹲る傷付いた〝その〟存在。
次いで、幼いクレアの腕を容赦なく捻り上げた海賊のこと。
『聞き分けのない嬢ちゃんだな』
男の低い声は、クレアの耳に重く響いた。
うつ伏せの背中を海賊の膝で押さえ付けられ、呼吸が苦しくて仕方ない。懸命にもがいてみるものの、目の前に転がる短剣にすら手は届かなかった。
『お前が護ろうとしているものが何か分かってんのか? 分かってるよな、俺から短剣まで奪おうとしたんだからよ』
海賊は言い、クレアが庇おうとしている〝ある存在〟を見下ろす。焼けた砂から身を起こすことも出来ず、苦しそうに項垂れている存在はいままさに、この海賊に命を奪われようとしているのだ。
『〝そいつ〟はお前を殺す存在だ。そこまでして護る意味があると思ってんのか? お嬢ちゃん』
『……意味なら、あるもん……!』
クレアは必死で首を振り、背をねじるようにして海賊を睨み付けた。
〝これ〟が何かは知っている。大人たちが恐れ、震え上がる存在だ。――だけど、それでも。
『この子、わたしのことを、助けてくれた』
海賊が低い声で笑う。
『こいつがお前を拾ったのは、安全な場所で食うためだ』
『ちがう! わたしが助けてって呼んだのを、ちゃんと分かってくれたもの……!』
『……呼んだだと?』
海賊はそこで眉根を寄せた。クレアはぎゅっとくちびるを結び、怖くなんかないと自分に言い聞かせる。
本当に怖いのは、クレアの腕を掴んで海に投げた大人たちの手だ。
どこまでも落下する感覚や、溺れる苦しみの方なのだ。そんな中、〝この子〟は冷たい海からクレアを救ってくれた。護ってくれたのだ。
その結果、自分がこんな風に傷付いてまで。
そんなものこれまで存在しなかった。だというのに、クレアに生まれて初めて温かなものをくれた〝この子〟はいま、目の前の海賊に殺されそうになっている。
『だから、こんどは絶対に、わたしが助けるの!』
言い切った直後に冷たい目で見下ろされ、ひくりと喉が
海賊の肌は日に焼けて浅黒く、瞳にはどこか鋭い光が宿っている。本当は、こうしているだけで身が竦むほど恐ろしい。
けれど。
『――おねがい』
大粒の涙がぼたりと落ちた。
『……この子に、ひどいことしないで……』
泣きたくないのに声が震え、雫がいくつも砂に吸い込まれる。海賊は静かに目を細め、殊更ゆっくり言葉を紡いだ。
『お願い、じゃねえよ』
地を這うような低音と共に、クレアの腕が解放される。
代わりに海賊から向けられたのは、底が見えないほどに深い怒りだった。生意気な子供に対する苛立ちといった軽微なものではなく、本物の憤りと言ってよいほどの。
『お前がお願いしてることは、普通の正しいこととは違う。海賊から短剣まで盗んで護ろうとしたんだ、餓鬼とはいえ理解してんだろうが。本当に覚悟があるんなら、生半可な言葉を使うんじゃねえ』
その低音は怒鳴り声よりも恐ろしく響き、身を起こしたクレアの心臓を縛り上げた。砂浜に膝をついた海賊が、なおも真剣なまなざしを注いで言う。
『望んでいることの結論を託すな。相手の選択を待つな。必要なら奪い取れ、命じろ』
その言葉は、クレアの脳を揺らすようにして届いた。
『海賊だったら、迷わずそうするぜ』
『!』
息を呑む。
本当に望むのなら、相手に託すのではなく自分自身で奪い取る。それが、海賊という生き物なのだ。男は笑い、砂まみれのクレアに向き合った。
『さあどうする? お嬢ちゃん』
面白そうに尋ねてくる表情の中、暗いまなざしに
『こいつを俺から救うため、お前はどうやって奪ってみせる』
怖いのにどうしてか逸らすことが出来ず、クレアはゆっくりと口を開いた。
『わたしは』
護りたい。助けたい。
――そこまで考えたところで、いいや違うと目を瞑る。
望む言葉を使うなと、たったいま言われたばかりではないか。
『……この子を、助けるの』
砂上には海賊から盗もうとした短剣が転がっていた。
小さな手でそれを掴み取り、ぎゅうっと柄を握り締める。そうしてクレアは真っ直ぐに男を見上げて言った。
『そのために、わたしは』
――その日以来、心に誓っていることがある。
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