第16話 月の裏
月読命は休息のために設けられた幔幕へ兎を伴って下がった。幕の内へ姿をかくしてしまうと、流石に彼も疲れを覚えたのであろうか。ほうと溜息をつく。
思いもよらず連れてこられた二羽の兎は、敷物の上に下ろされ、お互いにどうしたものかと顔を見合わせている。衣がないので人型に戻るわけにもいかず、二本足で立ったまま、少し神経質に髭をぴくぴく動かして辺りを伺った。
その様子が可愛らしかったのか。
月の神は満足そうに笑った。
「本当に可愛い子たちね」
ぐりぐりと撫でまわされながら、語調の変化に少し違和感を覚えた。しかし、大いに感動していた兎らは、気のせいだと受け流す。
「あんなに美味しいお菓子を作れるなんて、お利口さん達ね。でも、あれだけじゃ足りないわ。美味しいお菓子だったもの。もっと食べたくなっちゃう」
先ほどの威厳ある様子はどこへやら。無邪気な娘のような喋り方に白嶺は思わず顔を上げ、黒嶺が聞き間違えかと大きな耳をピクリと動かした。姉妹顔をあわせて眉を潜める。
「そうだ、うちに来て作ってくれればいいのよ。ダメかしら?」
月読命は椅子に落ち着くと、背を預け、優雅に足を組む。宴の席ででは見られなかった寛いだようすである。戸惑う白と黒の兎に視線を据えたまま、暫し独り語散ていた。一緒に幔幕内へと入って来ていたお社様を振り返り
「ねぇ、山の方。捧げ物は要らないからこの子達連れて帰っちゃダメかしら?」
なよと小首をかしげて見せる。
「て、言うか。連れて帰っちゃう」
(えぇぇぇぇ!!)
大勢の前では言葉使いに気をつけているのだが、気ごころ許せる相手の前ではつい素に戻るようだ。
古くからいる者の間ではとっくに知れたことであり、今更驚く者もいない。しかしながら、初めて月見の宴を経験するような新参者は知る由もないから。宴が催される山では、毎回このように衝撃を受ける者が少なからず現れるのである。
的確に表現する為、現代の言葉を使用することをお許し願いたい。ようするに『お姉ぇ』である。
白嶺も黒嶺も、唖然として空いた口が塞がらない。
ただ、心の深い所で薄氷の砕けるような、淡い何かが砕けていくのが感じられた。
「その者は月に想いを寄せております。お気に召したならばどうぞお連れ下さい」
心優しいお社様は良かれと思い、白嶺の想いを後押ししてやる。お月さまの好物を兎らがしつこく尋ねたおり、重蘰から何となく伝えられた話を、幸か不幸か覚えていたようである。
「まぁ、可愛らしい事。美しいって罪よね。でも残念、私は誰のものにもならないの。ごめんなさいね」
みんな一度は月に恋をする。
されど、恋歌の半分は、失恋の歌だと言うことを忘れてはならない。
お社さまは微笑み返し、静かに頷いている。
哀れ白嶺の初恋は、複雑な様相を呈しながらも儚く散ったのである。
それでも、白嶺と黒嶺を大層お気に召した月読命は、二羽の兎を連れ帰る事に決めてしまったらしい。着物を焼失した二人へ衣を送ってくれた。
妖化しの少女は、
白嶺は雪のように白い衣、黒嶺は紅葉のような朱の衣を賜って臼絹の天蓋の下、宴のあいだずっと月読命の左右に
「白嶺や。その様に畏まって正座していては足が痺れてしまいますよ。裳を着ているのですから足を崩しても大丈夫ですよ。」
見かねてお社様がそっと声をかける。
反対側の黒嶺の傍には先ほどの蛟が菓子をのせた高台を手に声をかけている。
「わっぱ、それでは楽しめまい。せっかくの宴だ。酒は無理でもなにか食べよ。置物みたいに固まっていては詰まらぬであろう?」
お社様や蛟が、時おり寄って来ては、菓子や飲み物を手渡してくれるのだが、このような上座に座った事の無い姉妹は完全に緊張してしまい、菓子を楽しむどころでは無かった。
お社様と蛟の会話の中で知ったのだが、この蛟、実は名のある河の主らしい。
不安な視線を互いに交わしながら、姉妹はひたすら置物に徹している。余りの緊張ぶりに不憫と思ったお社様が、月読命へ断わりを入れ、二人を休ませるべく座を下げさせた。
そこでようやく鵺雷と重蘰に合流する事が出来た。
ほっとして緊張が溶けたのかくずおれるようにへなへなと座り込む。
「おう、お疲れさん」
「体は大丈夫なのかい? 火傷したんじゃないのかい?」
鵺雷を押し退けるように傍へ来た重蘰は、直ぐさま二人を撫でまわして無事を確認する。
鵺雷の渡す茶に口をつけながら、白嶺と黒嶺はやっと空腹を覚えた。先ほどの蛟に大量のお菓子を詰め込まれた袂を探る。
「愛しの君はどうだった?」
月読命の普段のようすを知っている鵺雷が少し意地悪な質問をする。返事に困ったように眉を下げ、小首を傾げたり、顔を見合わせたりしている二人を見て彼は朗らかな笑い声をたてた。そんな鵺雷へ重蘰が咎めるような視線を寄こす。
「だから期待を持たすような事言いなさんなと注意したのに、あんたって人は」
「お月さんの神様。想像と少し違ったけど、それでも綺麗で優しかったよ」
「うちら宴を台無しにするところだったのに、ちっとも怒らないで助けてくれた」
口々に月読命を庇うような事を言う。
恋とは少し違ってしまったようだけど、それでも二羽の兎はお月さまを前より好きになったようだ。お団子を食べてくれたとをやや興奮気味に話している。そこで重蘰に貰った臼衣を焼いてしまったことを思い出し、白嶺と黒嶺が申し訳なさそうに視線を落とす。
「いいよ。あんたらが悪い訳じゃなし。賜った衣、良く似合ってるじゃないか。ちゃんと見しとくれ」
姉妹は賜った衣をよく見せようと、袖を広げくるりと回ってみせる。小さな天女のような姿に重蘰は目を細めた。
その瞳が寂しそうに陰るのを鵺雷は見逃さなかった。
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