第15話 兎とお月さま


 当然叱られるものと思って視線を落とし、二兔は小さな身を更に縮めた。


 目の前に月の神の膝に結ばれた足結ユアイの紐が揺れている。腰に巻かれた倭文布シヅリの帯と同様に、銀糸の見事な刺繍が施され、ところどころ細かな花模様が刻まれたギョクが嵌はめこまれている。本当に美しい品である。しかし、今の白嶺にそれを堪能する余裕は無かった。


 些か長すぎる沈黙が流れる。

 されど彼女たちを非難する言葉は何一つ落ちてこなかった。


 服の汚れるのも構わず地に膝をつき、安心させるように二匹の兎と目線を合わせる。その痛々しい姿に手を伸ばし、労るように背や頭を繰り返し撫で擦った。


 熱を持ち脈動に合わせウズいていた火傷に、温度の低い手が心地よかった。母の懐へ抱かれた幼子のように、満ち足りた眠りに癒されるが如く、恐怖を味わった心さえもが穏やかさを取り戻して行くようだ。


 気が付けば二羽の火傷は癒されて、その毛並みさえ艶やかに再現されていた。まるで何事もなかったかのように、月読命が優しく微笑みかけてくる。


 姉妹は手を握りあい、互いの無事な姿を確かめ合った。

 再び月の神に深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。お礼をしたいけど……みんな燃えてしまって何も無いのです。ごめんなさい。」


 すると黒嶺に団子を差し出す者がいる。蛟である。

 感情を読み取りにくい変化に乏しい表情ではあるが、うろこに覆われ鋭い爪を生やした手の上に、可愛らしい団子を乗せてどうぞと言わんばかりに差し出している。


「我は一つで十分」


 受け取れとばかりに手を押しつけて来た。

 黒嶺は礼を述べ、遠慮がちに受け取ると、それを白嶺の手に持たせる。白嶺は暫し手の上の団子を見詰めた後、そっと月読命へ差し出した。


 月の神はその手の上から捧げものを摘まみあげると一口に頬張る。美味しそうに目を細め、ゆっくり味わってくれた。


「美味しいね。ありがとう。」


 愛しの君の口より紡ぎだされた感謝の言葉が、驚きに目を見開いている二羽の兎の耳を甘く撫でた。


 一個しかあげられなかった。

 それでも美味しいって言ってくれた。

 本当はもっといっぱい食べて欲しかったはずなのに。


 あの綺麗な花輪あげたら喜んでくれたろうか?

 皆に貰った優しい花まで灰になってしまったけど。


 途端に色々な緊張の糸が切れてしまったのだろう。

 しゃくりあげて泣き出す白嶺の横で黒嶺まで泣き出した。月の神はそんな姉妹を膝へかかえて撫でてやる。


「お前達、人里に下りていた兎だろう? 大変な思いをして手に入れた菓子は、私に振る舞う為だったのだね。少ししか食べてあげられなくてすまなんだな」


「見ていらしたの!」


「空の上に居るからね。何でも見えてしまうのだよ」


 一方通行の想いを、ちゃんと受け止めて貰えたような気がした。再び眼に涙が浮かぶ。知らぬ間に、ちゃんと想いは伝わっていたようだ。


 月読命は兎たちへ愛おしげに頬を寄せる。

 労をねぎらわれたような気がして、恥ずかしさよりも嬉しさが勝った。白嶺は涙に濡れる頬を彼の胸に押し当てる。初めて知った高貴な香りが、辺りに漂うきな臭ささえ払っていく。


 あぁ、幸せ。

 とても大変だったけど、こんなに幸せな気持ちになれるなら頑張ってよかったかなぁ。


 しみじみと幸福感を噛みしめる。


 お社様が手を叩くと再び篝火が光を燈し、麗しい御使い達がお膳や供え物を整えて行く。あれよあれよと言う間に広場はもとの姿を取り戻し、雅な楽が奏でられる。


「さぁさぁ、月見の宴は未だ続いておりますよ。どうぞ皆さま愉しんで」


 お社様がたおやかに笑って言うのを合図に、気を取り直した天女たちが舞いを始め、その袖に打ち払われるように場の空気が和んでいった。


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