第9話 故郷


「またおいで! またおいでよぉ!」


 実り豊かな田の畦道アゼミチを、稲穂を掻き分け逃げて行く姉妹の背にオウナは声を投げる。


 その時一陣の風が、辺りを揺らすようにドッと吹き荒れた。その大風が稲穂を撫でるように大きく波打たせる。落ち葉を巻き上げて媼の視界を塞いだ。次に目を開けたときにはふたりの影は無かった。


「驚かせてしまったかねぇ」


 共にいるあいだ、家のなかにも関わらず手拭いをとろうとしない娘らに、何か事情があるのだろうとは思っていた。されど、まさか兎の耳が生えていようとは思ってもみなかったのである。


 兎は山のお使いと言うから、山の社のお使いだったのかもしれない。何となく、それで納得できる気がした。


 土間に戻ると、そこは前よりがらんと広く寂しい部屋に見えた。


「まるで嵐が去ったあとのようだね」


 独り呟いて肩を落とす。

 朝食をとろうと粥を暖め直していると、ふと、媼の胸に疑問が沸き上がる。


 山神の使いがこんな所になんの用があったのだろう?

 そう言えば収穫祭の事ばかり聞いてきたけど。


 その時、戸を叩いて訪おとないを入れるものがある。

 こんな早朝に誰だろうかと戸を開けた。

 朝日のなか戸口に立つ人へ眩まぶしげに目を凝らす。軒下の影に足を踏み入れた人をみて。

 媼の手が震えた。


「おっ母ぁ。ただいま」


 幽霊ではないかと思った。

 それで無ければ自分の寂しさが作り出した幻ではないかと。


 恐る恐る肩に触る。頭を撫でて顔を確かめる。

 その媼の頬を溢れ出た涙が後から後から伝っては落ちた。母の両手を握りしめ、額に擦り付けるようにして息子は謝罪をのべる。


「お前.....今までいったい何処に」

「すまねぇな。心配させちまって本当にすまねぇ」

「幽霊じゃないんだね。いいよいいよ。無事に帰ってきたんだから」


 戦で足を負傷し、歩くこともままならなかった息子は、戦場に近い、ここから遠く離れた里で傷を癒すため厄介になっていた。傷が癒えた後も世話なった恩を少しでも返そうと、暫く手伝いなどでその地に留まっていたのだそうな。


 そうしているうちに厄介になっていた家の娘と恋仲になり、連れ添う許しを得るため更に時間が過ぎてしまったのだという。


 戸口に目をやれば、赤い着物をきた小柄な娘が遠慮がちなようすで立っていた。媼と視線が会うと笑顔で頭を軽く下げる。


 嬉し涙にくれる媼は笑顔を浮かべ、娘を家に招き入れた。


「おっ母。おらはおっ母がつくる団子が食べたいよ。今日は豊年祭の日だろう? あるかね?」


 そこで媼ははっと顔をあげた。

 昨夜の山神のお使いは、この事を知らせに来てくれたのではなかったのか?


 媼は山に向かって手を合わさずにはいられなかった。


「おっ母、なにしとるんじゃ?」

「いや、なんでもないよ。団子はみんな山神様に供えちまったよ。どれ、嫁さま。わしが教えるで一緒に作ってくれるかね?」


 寂しかった囲炉裏ばたは賑やかになり、媼は息子夫婦とお月見のお供えをつくる準備をはじめた。

 窓の格子から覗く遠い山へ再び呟く。


「ありがとう。またおいでね」


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