第5話 人里へ
夜の山道を鬼火のともる提灯を片手に、手を繋いだ二人の少女が山を下って行く。
頭には手拭が巻かれ、膝丈の短い小袖のみ着た姿をしていた。それでも彼女らが、白嶺と黒嶺である事は声色で容易に判断できた。
「姉さま、姉さま、本当に行くの? うち、ちょっと怖い」
「だってお月さまの為だもの。黒嶺は残っていてもいいんだよ」
「姉さまが行くなら、うちも行くよ」
彼女らが戦々恐々向かう先、それは山のふもとに広がっている人の里である。白嶺も黒嶺も人間は怖い生き物だから決して近づいてはならないと、重蘰から口を酸っぱく何度も聞かされていた。
『本当に怖いのは鬼でも妖化しでもなく人間だよ』
そう語る時の重蘰の顔は怖いくらい真剣だった。
彼女があんな表情を浮かべて言うのだからきっと本当に違いない。それでも白嶺は愛しの君に喜んでもらいたくて、その鬼より怖い人の住む、里へ向かうことを決心したのだった。
先に眠ったはずの黒嶺に、気付かれてしまったのは計算外だったが、言い出したら聞かない彼女である。山に残れと言う姉の言葉に、脅しても賺スカしても首を縦に振ろうとせず、とうとう付いて来てしまったのだ。
白嶺はいざとなったら妹を全力で守ろうと、非力ながらも心密かに誓うのであった。
夜の帳の下りた里はしんと静まり返り、豊かに実った稲穂が風に靡ナビくさやさやとした音が心地よく響いている。虫の音がその静けさを際立たせていた。人々はとうに眠りについたらしく、どの家も明かりを落とし、月の光のみ青く大地を照らしている。
そんな中、村の外れにたった一軒、窓にまだ灯りを燈す家を見つけた。
提灯チョウチンを畳み、姉妹はそっと窓辺に近寄って中の様子を窺う。中には誰もいない。
居心地よさそうな囲炉裏イロリには、赤々とした火がともっている。何を煮ているのか、掛けられた鍋から得も言われぬ甘い香りが漂っていた。土間の奥にある釜戸に、蒸篭セイロが積まれていたが、兎たちにはそれが何に使われるものなのか見当もつかない。
つい夢中になり、更に中を見ようと背を伸ばした時、後ろから声が掛かった。
「おや、こんな夜にわらしが二人何の用だ?」
飛び上がって振り返れば、そこに笑みを浮かべた媼オウナが独り立っている。彼女達より頭一つ分背の高い老婆は、長い白髪を後ろでまとめ、すっかり藍色の褪せた野良着姿をしていた。
恐ろしい風貌では無いのだが、突然かかった人の声にすっかり驚かされてしまい。情けない事に白嶺は腰が抜けてしまったらしい。
あれほど妹を守ると意気込んでいたのに何と言う体たらく。
これでは己の身さえ守れる気がしない。横にいる黒嶺も同じような状態だろう。大きく目を見開いて微動だにしない。
これは逃げろと言っても指ひとつ動かせまい。
万事休す。身の丈に合わぬ事など冒さずに、大人しく山で栗でも拾っておけば良かった。悔んでも今の状況は変わり得ない、後悔先に立たずとはこの事である。胸の内で妹や重蘰に謝りながら、目を瞑って食われるのを待つ。
頭を撫でられた。
怖々目を開ければ優しく微笑んだ媼が二人の顔を覗きこんでいる。
「腹減ってんのか? こんなに力なくなるほど食べてねぇのか?」
手を貸して立たせながら、幼子を扱うように心配そうなようすで尋ねて来る。衣服に付いた埃を払ってやると、手を引いて母屋へ連れて戻った。
食われると思っていたのに優しくされて、二羽の兎は戸惑う。そんな彼女たちの気持ちを知ってか知らずか、媼は囲炉裏の前に姉妹を通すと温かなお粥を振る舞ってくれた。きのこや山菜の入った雑穀のお粥は、彼女らが震撼するような獣の肉など入っていなかった。
それでも未だ不安を捨て切れずに媼を窺っている。
黒嶺とちらちらと視線を交わす。うちらを太らせてから食べるつもりかな?
「何処のわらしだ? 後で送ってやるからゆっくり食え」
どうもそのようには見られない。
媼は顔を皺くちゃにして機嫌よさそうに笑っている。
(あぁ、そうか! うちら頬っ被りをしてるから妖化しだと分からないんだ!)
納得のいく答えに辿り着き、白嶺はホッと胸をなでおろす。此処にいる間は人間のふりをしていれば安心だと考えて、大胆にもお婆さんへ話しかけてみる。
「あの、聞きたい事があって来たんです」
「なんだね?」
「ここではお月見するよね。するでしょう?」
「あぁ? あぁ、豊作のお祭りかい? お月見と言えばお月見だねぇ」
唐突の質問に媼は面喰ったような顔をしたが、それでもきちんと答えてくれた。あんまり怖い人じゃないみたい。黒嶺もそう思ったのか会話に加わって来た。
「お月さまに、どんなお供えするの?」
一番肝心な事を聞いてみる。
「そうだねぇ。里芋、甘藷(カンショ)、栗だろうかねぇ。それから尾花(ススキ)。萩、撫子(ナデシコ)、女郎花(オミナエシ)、藤袴(フジバカマ)、桔梗、竜胆、何て花も飾るが、尾花だけでもいいんだよ」
「他には?」
「お酒だね。これは村の若い衆が一番喜ぶけどねぇ。あとあれば魚かね。新鮮なのを焼いて供えるよ。」
「それから? それから?」
目を輝かせてお話の先をせがむ、可愛らしい少女二人に老婆は目を細める。心うち遠い日に置いて来た幸せな思い出が蘇ったようだ。せがまれるまま収穫祭にまつわる色々な事を話しだす。
広場の飾りつけ、いつもよりちょっと良い着物のこと、持ち寄られた料理で村娘の腕前が分かってしまうこと。それを目安に若い衆が、誰を嫁に貰いたいか相談を始めること。
その晩だけ、初めて夜更かししてもよいと親の許しが下りたのに、時刻通りにまぶたが重くなり、円座の傍らで眠りこける子らの微笑ましいすがた。
囲炉裏の橙色の灯りに包まれて、和やかな時は流れる。初夏の緑のさざめきのような、明るい少女らの声が静かだった部屋に満ちていった。
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