第2話 恋煩い


 白嶺の目が僅かに泳ぐ。


 この御神木は心を覗く不思議な目をもっていた。

 自分よりも力の強い者には通用しない事もままあるが、白嶺などの小物の妖化しは赤子の手を捻るよりもたやすく心の内を見透かされてしまう。

 訳知り顔に重蘰が微笑んだ。


「黒嶺、悪いけどあたしにこの病は治せないね。お社様にも無理だわな」


「え……死んじゃうの?」


 白嶺が不治の病と聞いて、黒嶺の目がみるみる潤う。

 今にも声をあげて泣き出しそうな子兎を落ち着かせようと、重蘰はしゃがんでその両肩へ手を置いた。


「馬鹿お言いでないよ。お医者様でも草津の湯でもってやつ。恋だよ。恋の病さね」


「こい?」


「そう、神でもかかる病さ。厄介だけど死にゃあしないよ」


「なんだ、治るんだ!」


 黒嶺が猫みたいに顔を擦りながら涙を追い払う。

 安心したように笑った。しかし、問題は白嶺の惚れた相手である。厄介なことに、この病は惚れた相手にしか治せないのだ。


 失恋ともなれば心が癒えるまで長いことかかってしまう。運が悪ければ死ぬことも。

 重蘰は自嘲気味に少し笑った。


 神木の張り出した根に白嶺を座らせる。重蘰と黒嶺は挟むようにその両側へ座った。


「さてと、白嶺、白状おし。あんたの心を奪ったのは何処のどいつだい?」


「言うけど、笑わないでね」


 白嶺は両手を胸の前で握り会わせて俯いている。誰にも打ち明けられず、彼女も悩んでいたのだろう。

 頬を染めてぽつりぽつりと話始める。


 それは数日前の望月の夜。

 その方の名前は知らない。初めて見る人だった。


 古い壁絵から抜け出てきたような古風な衣を着て、首から下がる様々な色形をした玉飾りが、動く度に耳に心地好い音をたてて小さな虹を散らしている。丈長き艶やかな黒髪を結い、背に垂らしている。額には冠を戴いていた。


 咲き誇る白雲木ハクウンボクの下、舞散る花びらを掌へ受け、月光に照らされた姿は息が止まるほど美しい。眼差しも柔らかく、花を仰いでいたその人は、不意にこちらに気付き白嶺に視線が留まる。


 花が綻ぶように微笑んだ。


 そのとたん、白嶺の心に甘い衝撃をもって喜びが湧きあがり、落ち着かない気持ちさせられる。全力疾走した後のように胸が高鳴り、みるみるうちに頬が朱あけに染まっていく。

 同時に恥ずかしくなり、居たたまれずにその場を走り去ってしまった。


 それ以来その方の顔が頭から離れない。胸はふさぎ、何も手につかなくて困っていると言う。


 白雲木を訪ねるもそれ以来その人を見かけることはなく。今思えば、名前のひとつでも尋ねておけば良かったと後悔している。


「一目惚れか。ここにいる妖化しで無いのは間違いなさそうだねぇ」


 容姿を聞いて重蘰は首をかしげた。

 丁度その時、社の渡り廊下を通りかかった者がいる。


「ねぇ、鵺雷ヤライ。この前の満月の晩、誰か来てやしなかったかい?」


 呼び掛けられた男は足を止め、めんどくさそうにこちらを向いた。修験者のような黒い衣に袖の無い熊の毛皮を羽織り、無造作に束ねられた硬い虎毛には白金の髪が混じる。鋭い双眸の荒々しい雰囲気を纏った男は、お社様の御使いの一人である。


 重蘰にとっては昔馴染みだが、白嶺も黒嶺もこの男のことが少し怖かった。本性が狼だから彼女らが怖がるのも無理はない。


「あぁ?なんで?」

「いいから教えな」

「随分一方的だな、訳くらい言えよ」

「いいから!」


「まったく、お社様の呑み友が来てたぞ」

「『山並ヤマナミさま』の?」

「いや、上の方。で、なんの話だ?」


 鵺雷の答えに重蘰が顔をしかめる。

 お社様の呑み友達なら、まず間違いなく大妖か神だ。


『山並さま』とは、この山を含む辺り一体の山神の総称である。

 その山神たちが交流のため、たまに設ける集まりだ。境界線など巡り、昔は物騒な話も交わされたそうだが、平和な今となった今では飲み会の口実に成り下がっている。


 ちなみにこの会の名前は正式では無い。

 やたら長ったらしい名前を覚えるのに嫌気がさした重蘰が勝手にそう呼んでいるだけだ。


 もし、この中に白嶺の想い人がいたなら、お社様に口を利いてもらえれば、御遣いになる事で傍に居させてやれる。しかし、鵺雷は『上の方』と言った。


 ここへ遊びに来る『上の方』は一人だけである。

 これは絶望的だ。小さな兎の妖化しが、おいそれと仕えられるような方ではない。


「よう、それで何なんだよ?」

「もういいよ。野暮やぼ用さ。詮索は無粋だよ。」


 鵺雷は不服そうに鼻を鳴らしたが、重蘰の気紛れはいつもの事である。慣れているのか肩を竦めると去っていった。

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