白嶺に懸かる月

縹 イチロ

第1話 兎の姉妹



「姉さま、姉さま。どうしたの? どこか痛いの?」

「痛い……と言うか。苦しい……と言うか」


 蕗の生い茂る葉の下から、ひそひそと声が聞こえて来る。袴姿の少女が二人寄り添い合ってしゃがみこみ話をしていた。


 姉と呼ばれた白い小袖に浅葱色の袴をはいた少女は、豊かに波打つ銀髪のひと房を弄もてあそびながらウツムいている。 透き通るような肌に、澄んだ川の深みのような碧い目をしていた。


 その隣、薄墨の小袖に茜色の袴の少女が座っている。

 真っ直ぐな黒髪がさらさらと顔に落ちかかるのを押さえ、夕焼けに染まる雲のように明るい緋色の目で、姉の顔を覗きこんではその表情を曇らせている。


 姉の名を白嶺シラネ、妹を黒嶺クロミネと言う。


 二人とも小柄ではあるが、一つを覗いては人の子と姿は変わらない。頭の上によく動く長い耳が揺れている。一目で人ではないと分かってしまう異形の姿だ。されど獣とは違う。こう見えて齢百を超えた立派な妖化しである。


 立派とは言ったものの、妖化しとしてはまだ本当に若く、新参者の粋を出ない存在であった。人も寄り付かぬ霊峰の中腹に居を許され、主である山神に放っておかれるでも、特に構われるでもなく平和に過ごしている。


 そんなある日、白嶺が鬱ふさぎ込むようになってしまった。あまり食べなくなり、笑うことも少なく、空を見つめて溜め息ばかり吐いている。


 妖化しだから、食べなくとも体を損ねることはない。

 それでも、食べることの好きな姉が、好物にすら見向きもしなくなると、妹としては心配で居たたまれなかった。


 黒嶺は姉の背を撫でてやりながら、おろおろと体の調子を尋る。 しかし、白嶺は望洋とした様子で、その胸に小さな両手を当て曖昧な事しか教えてくれない。


「姉さま苦しいの? 病なの?」

「妖化しは病にはならないよ」

「でも苦しいんでしょう?」

「……うん」


 妖化しは病にならない。それは黒嶺も知っている。

 それなのに姉は、得体の知れない痛みに苦しんでいるという。

 漠然とされど確実に、積もり積もった不安が限界に達したのだろう。黒嶺は白嶺の手をつかむと引っ張って走り出す。


「え? なになに? お黒ちゃんどこ行くの?」

「やっぱり痛いなんておかしいと思う! お社様に聞いてもらうの!」


 お社様というのは、この山の社に祀られている山神である。


 この山に集う妖化し達は大変自由に暮らしている。

 そのため身分などの明確な位付けなどはない--山神の御使い、御神木などは別として--そうはあってもやはり力の差は存在し、強者は敬意を以て遇されていた。力なき者が遠慮する形で距離を取ることにより、暗黙の内に順位と言うものはあった。


 多分この姉妹は、その一番末席に居るのではないかと思われる。


 本来ならこのちっぽけな妖化しに過ぎない二人が、山の主である神に直接会おうなど到底出来ない相談である。

 それにも関らず黒嶺がお社を目指す理由。

 それはお社の中庭にあった。


 人が十人手を広げて囲んでも、足りぬほど大きな岩が聳え立つ。その大岩にとぐろを巻くように藤の大木が絡みついていた。


 大蛇のようなその樹木は、千年藤と呼ばれ祀られている。狂い咲きの花房がまだ散りきらずに所々に下がっているのが見受けられた。その樹木へ兎の姉妹が訪いをいれる。


「で?あたしに何を聞いてこいって?」


 眠っているところを突然起こされたらしい。

 乱れた結い髪を気だるげに直しながら女人が大木の枝の上へ姿を現す。この妖艶な美女の名は重蘰サネカズラ。社の境内に生えるご神木である。


 派手な友禅に身を包み、幾つものかんざしを髪に止めた姿は豪奢の一言につきる。涼しげな一重の眼がこちらを見下ろしていた。一見とりつく島もない冷たさを漂わせる彼女だが、これで中々面倒見のよい姉さんである。


 かつて人間であったと噂され、山の妖化し達からは距離をとられているのだが、真相は定かではない。


 白嶺と黒嶺がこの山へ居を求めたとき、なんの気まぐれか手を貸してくれたのである。それ以来懇意の間柄であった。


「姉さまが病なの」


「はい?妖化しは病になんぞならないよ。百年生きていてまだ知らなかったのかい?」


 その柳眉を片方つり上げて呆れたように溜め息をつく。

 全く人騒がせなと、奥へ引っ込んで行きそうなるのを黒嶺が引き留める。


「それは知ってるの!だけど姉さま胸が苦しくて、ずっと何も食べてない。あんまり眠ってないみたいだし。」


 そこでようやく重蘰は振り向いて、するすると木を降りてきた。気遣わしげに白嶺の顔を覗き込み、変わったところは無いかと細かに観察している。


「いつからだい?」


「お月さんが丸かった頃から。空ばかり見て元気無いの。ぼんやりしたり、急に熱を出して赤くなったり……心配で」


 重蘰は、しばらく白嶺の瞳を覗き込んでから目を伏せて思案する。呪を受けた気配はないし、妖気を吸い取られた様子もない。増してや魂魄どうこうと言った心配など、するだけばかばかしい程元気に見える。


 暫く白嶺の目を覗きこんでいた重蘰だが、思いもよらない原因が一つ見えてしまい、少し困った顔をして彼女へ問い掛けた。


「お前さん、本当は何が原因か解ってやしないかい?」

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