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「おかえりなさーい」

 駕籠が邸宅の庭に着き、2人が出てくると、10数人の子供たちがわっと一目散に走ってきた。

「みんな、ただいま」

 路子は、ひとりひとり抱いていきながら、声をかけていく。

「みちこおばちゃん、けまりしよー」

「こらこら、路子様はお疲れなんだぞ」

 薄氷が子供たちの1人に注意すると、途端に可愛いブーイングの嵐が響いた。

「いえ、薄氷さん。私は構いませんから、一足先にお休みになってください」

「でも……」

「うすらいー、ちゃんばらー」

「いてっ、こら!」

 歯の欠けたいかにもやんちゃそうな1人が、木の棒を薄氷の足に当ててくる。

「この、いい加減にせんか!」

「うわー、怒った! みんな逃げろー!」

 子供たちが蜘蛛の子を散らすように、ばらばらに逃げる。庭の四方に散らばり、薄氷に見えないところまで彼らは駆けて行った。

「みんな世話が焼ける」

「元気そうでなによりです」

 路子はふふっと笑みをこぼした。

「おかえりなさい!」

 すると今度は、邸宅の入り口の方から聞こえてきた。

「和葉か」

 そこには、いざり車に腰を置いた女性がいた。茶が少し入った透き通る長い髪を、自分の手で大事に持つよう束ねながら、笑顔をはじけさせていた。足の不自由な彼女のために、さきの子供たちに交じっていた女の子2人が、薄氷の前まで車を押してきた。

「ねぇ、おねぇちゃん! これみてみて!」

 いざい車の底にあった折り紙を、薄氷の顔を前に突き出す、きれいに折れられた鶴だった。

「おぬいちゃんと、こづねちゃんと、つくったんだよ!」

 お縫と小恒とは、彼女の車を押している子供だ。2人も、恥ずかしそうな、可愛らしい笑みを浮かべていた。

「すごいでしょ!」

「はは。和葉は器用だな」

「うん! あとでおねぇちゃんにもおしえてあげる!」

「ああ。お前たちもすごいなぁ。あとで私にも教えてくれ」

 薄氷が、2人の少女らの頭をなでると、彼女たちはそそくさと屋敷のほうへ帰って行った。

「……嫌われてるのか?」

「はずかしがりやさんなんだよ! おぬいちゃん、こづねちゃん!」

「はは……」

 薄氷は、改めて自分の妹を見た。

 和葉は、薄氷と1つしか違わない。彼女は、今年の4月で20歳になる。身体は既に成熟しており、大人のそれだ。程よい肉付きで、毬が刺繍された赤の袖から、白い二の腕が栄えて見える。

「和葉」

「ん? なぁに?」

 和葉は、可愛らしく小首をかしげた。

「いい子にしてたか?」

「うん!」

 丸い目をぱちくりさせて、勢いよくうなずく和葉に、薄氷は手を伸ばした。

「そうか。偉いな」

 頭をなでると、彼女は「えへへ」と照れ臭そうに笑った。

 和葉は、薄氷の唯一血のつながる家族だった。大政奉還前に、清からやってきた幼いこの姉妹を、上鷺宮が引き取ったのだ。

「おねぇちゃん! ぼうけんごっこ!」

 和葉が勢いよく手を挙げた。

 ぼうけんごっこは、彼女のお気に入りの遊びだ。ただ薄氷が、この庭の隅々まで和葉の乗ったいざり車を押し歩くだけのものだが、薄氷も同じく、この遊びが好きだった。愛している妹の様々な表情を見れるのだから。

「ああ、いいとも。あ。さっそくあそこに怪しい木があるぞ。あそこに突撃してみようか」

「わーい! とつげきー!」

 車の後ろに回り、取っ手をつかむ。それと同時に、まだ残っていた路子が、気付いたように、

「薄氷さん。銀を見なかった?」

「銀ですか? そういえば……」

 ここに着いてから、まだ見ていない。路子が帰ってくる時、いつも出迎えてくれるはずなのだが。

「ぎんちゃんならねー、んーと、あっちにいたよー!」

 和葉は、池のある方の、邸宅の影になっている部分を指さした。

「ありがとう、和葉ちゃん。私は、銀に会ってきますから……朝はもう食べましたか?」

「まだだよー! おなかへったー!」

 路子は、あらあら、と口元を手で覆い、笑いながら、

「それでは、一通り済んだら、すぐにごはんをみんなで食べましょうね」

 そう言うと、路子は、薄氷たちのもとから、池の方へ歩いて行った。

「それじゃ、あのあやしいきのとこに、ぼうけんに、いざー!」

「はいはい」

 薄氷は車をゆっくり庭の隅にある枯れ木の方へ押した。

 枯れ木のすぐ近くまで来ると、

「ほら、和葉。なにか怪しいところはあるかな?」

「んー…………まだおはな、さいてなーい」

「あははっ。春にならないと咲かないよ」

 まだ蕾も付けていない冬の桜の枝を見上げながら、

「春が待ち遠しいね」

 ピンクに色づいた桜木と、舞い散る花びらを想像する。

「はる、って、あとどれくらい?」

「ん?」

 もう何回も聞いてきたこの言葉に、和葉は微笑みを浮かべながら考える。

「ねぇ、どのくらい?」

「……そうだね。もう、きっともうすぐだよ」

 口にする言葉は、いつもと同じものだった。

 しかし、薄氷はそれで満足だった。


 路子は、お縫を呼んで、銀を探しに裏庭へ来ていた。

「銀はどこへ行ったのかしらねぇ」

 そうつぶやいたとき、路子の袖を引いていたお縫が、小声でいたよと、彼女に教えた。

 その少年は、裏庭にある蔵の石段に座っていた。

「銀」

 声のした方を頼りに、銀と呼ばれた少年は振り向いた。銀は、黒い頭巾を頭から深くかぶっていた。

「あれ、路子さま? っ、おかえりなさい」

「ええ。ただいま」

 小柄な少年は、手探りで必死に路子の方へ近づこうとする。それもそのはず、よく見てみると、彼の両目には黒い帯が巻き付けられていた。路子と同じ、目が見えない状態だった。

「大丈夫ですよ。私が行きますから」

 そう言って、お縫の案内を頼りに、銀へ近づくと、さきの子供たちにしてあげたよう抱きしめた。

「なにもなかった?」

「え? あっ、はい。大丈夫、です」

「そう、良かった。こんなところでなにしてたの?」

 そう聞くと、銀は少し肩を震わせたあと、上を仰いで、

「ううん、なにもしてません。ただ外に出たかっただけです。路子さま」

 また、肩を震わせた。

「あの……お迎え、しなくてごめんなさい」

「ああ、いいんですよ。気にしないで」

 路子は、深呼吸して、

「お外の空気は気持ちいいですか?」

「っ、はい。お外の空気は、気持ちいいです。ありがとうございます」

 路子は、銀に悟られないくらいの短いため息をついた。

 銀は、ここにいる子供たちの中でも異質な存在だった。一向に路子へ心を開いてくれない。路子にとって、それは心を悩ます問題だった。

「銀」

「はい、っ」

 固唾を飲む音が聞こえた。それに、この場では、お縫しかこの状況を視覚的に確認できないが、銀の身体はあからさまに硬直していた。緊張というよりも、おびえている様子だ。どう見たって、銀は、路子に対して恐怖心を抱いていた。

「銀。あなたは、とても良い子です」

 しかし、路子にとっては大切な存在だった。他の子供たちと同様、かけがえのない、彼女にとっての宝物だった。

「困ったことがあったら、すぐに言うのですよ。おばさんがいつでも助けになりますからね」

 路子は、どうにかして銀の心の支えになりたかった。同じ人間として、ともに過ごす存在として――家族として、彼に尽くしたい気持ちで満ち溢れていた。

「……ごめんなさい、っ」

 しかし、この慈愛に満ちた心を、彼女がどう口で表しても、この言葉で返されるのだ。

 ごめんなさい。

 彼の口癖だった。肩と息を震わせながら、彼が同じセリフを言うたび、路子は、2人の間の溝が深まっていくように感じた。

 彼がそうなってしまったのも無理はないことを、路子は承知している。それほどになるまでの過去を経験しているのだ。むしろ、人と言葉を交わせていることが奇跡に近い。

 それでも、路子は、銀と話す度、自分の不甲斐なさと、彼への同情の念が尽きなかった。無視することができなかった。それほど、彼女が優しすぎたのだ。

「……もうすぐ、朝ごはんですよ。銀、一緒に行きましょう」

 路子の手が、銀の体に触れた時、小さな嗚咽が彼の口から漏れ出した。

 その小さな悲痛の叫びが、路子の胸に響いた。

 ――心から愛している子供が、私のせいで泣いている。

 もう何回も経験しているが、やはり路子には耐えられなかった。彼のすすり泣きを聞く度、彼女は自分の存在に苛ませられた。

「お縫、銀をよろしく頼みます」

 そう言って、路子は、銀に背中を向けておぼろげに足を進めた。

 


 霜の溶けたつゆ草を踏む音が、次第に遠ざかっていく。

 銀は、残されたお縫と、蔵の前に立っていた。

 路子が離れた後ですら、自分でもわかるくらい、膝ががくがくと震えていた。路子と言葉を交わすときは、いつもこうだった。

 彼は、人間が怖かった――それも、ある程度年の離れた大人が、たまらなく怖かった。お縫らと一緒にいるときは、なんとも思わないのだが、彼らの口調を耳にすると、どこか自分を貶し、咎め、責めているように聞こえた。それだけではない。すぐそこに大人がいると、心が鷲掴みにされたような気がして、体中に激痛が走る。想像豊かで、純粋すぎるゆえに、心の痛みが形となって具現化するのだ。この痛みは、ほかの身体的苦痛とは形容し難いものだった。体中の細胞が、沸騰したような熱さに代わり、全身の血管に入り、ものすごいスピードで流動的に絶え間なく蠢き続ける、そんな感覚だった。

 昔の記憶は曖昧で、ほとんどなにも思い出せなかったが、ずっと前からこの慣れない激痛を体験している気がする。この訳の分からない苦痛を感じる度、彼は精神を追い込まれていた。

 漁船の帰りを知らせる鐘の音が、どこか遠くから聞こえた。その時、ようやく彼は、高まった鼓動が次第に弱まっていくのを感じた。

「銀」

 隣にいたお縫が、銀に話しかける。

「朝ごはん、食べよ」

 さっきまでの痛みは、もう感じなかった。

 しかし、彼は、ここから動くのを躊躇った。また、あの激痛が自分に襲い掛かってくるかもしれない。そしてなによりも、また路子に迷惑をかけるかもしれない。

「ねぇ、いこ」

 お縫が袖を引っ張るが、依然として銀は動けない。すると、

「銀。ここにいたか」

 薄氷が和葉を連れて、向こうから近づいてきた。

「その声は、薄氷だね」

 銀の声がわずかに明るみを増した。

「おかえりなさい」

「ああ。ただいま」

 薄氷は、彼の頭にぽんと手を置く。彼の顔を覆う布の間から、口元が緩むのが見えた。

「薄氷。京はどうだったの?」

 少し間を置いて、

「そうだな。治安が整っていて、人々が平和に暮らしている良い所だ」

「そうじゃなくて」

 銀は、少し期待した素振りをすると、薄氷は納得して、

「忘れてないさ。これだろ」

 薄氷は懐に手を忍ばせ、小さな巾着袋を取り出すと、彼の手に握らせた。

「わぁ……」

 おぼつかない手つきで紐を解く。中から、2つの小さな狐の伏見人形が出てきた。

「すごい。なめらかだ」

「気に入ったか?」

「うん」

 時折、嬉しそうな声をあげながら、彼は白塗りされた肌触りをじっくりと確かめる。

「ぎんちゃん、それ、かわいいね」

 興味深々な和葉も、彼の持つ人形を見てうっとりしている。

「薄氷、ありがとう。これ、とてもいい」

「まったく。こんなもののどこがいいんだ」

「だって、かわいいもん。これって狐でしょ。すごいなぁ、どうやって作るんだろう……」

 銀は狐を指でいじくり回しながら、掌の中で堪能した。

「銀は、女の子みたいだな」

「それを言うなら、薄氷は、男の人みたいだね」

「こいつめ……」

「ふふっ」

 久々に笑った銀を見て、薄氷もほっと溜息が出た。

 銀にとって、彼女と和葉だけは恐怖を感じない唯一の対象だった。血のつながりはないが、姉弟も同然だった。

「薄氷。1つあげるね」

「私に?」

 銀はうなずくと、掌の中の1つを彼女に差し出した。

「ふーん。こんな趣味はないんだが」

「いいじゃん、僕は1つで十分だから」

「お前が2つ買ってきてと頼んできただろうに」

 銀から受け取った狐の人形を、懐に戻した。

「おねぇちゃんいいなー」

「和葉にもあげるよ」

「え! いいの!?」

「おいおい。それじゃあ銀の分が」

「いいよ。和葉のところに行けばいつだって触れるし」

「わーい!」

 銀は、残りも車に座っている和葉にあげた。手渡された和葉は夢中になって、指で弄び始めた。

「せっかく買ってきたのにな……」

 わざわざ彼女が京の土産処で購入したのにも関わらず、彼の手に残らない結果となった。しかし、それでも彼は満足していた。一度だけでも伏見人形の感覚を楽しめたし、なによりも元からこうするつもりだった。

 薄氷も、呆れた顔を浮かべながら、心地よい徒労を感じていた。

 ――本当に、お前は優しい奴だな。

 そんな柔らかい表情で、薄氷は、銀を見つめていた。

「そろそろ朝食の支度ができるころだ。みんなで食べよう」

 薄氷が言うと、銀はうなずき、ようやくみんなで邸宅の中へと向かった。

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