新時代

泰平の世

1


 まだ年が開けて間もない頃、伊豆下田港へ続く街道を下っていく1つの駕籠があった。大部分は派手な朱色の装飾が施してあり、その屋根についた家紋は、林のあいだから覗く朝日に当たって、幾度もきらびやかな光を放っていた。

 その中に、上鷺宮路子(かみさぎのみや みちこ)はいた。藍に染めた小袖が、年相応に栄え、若かりし頃の美を想像せずにはいられない風格を纏っていた。

 その隣には、長い髪を後ろに結った女が座っていた。路子とは違い、簡素な麻色の袴を着た彼女は、しんと静まっているあたりに耳を済ませながら、言葉を交わすことなく、思慮に耽っていた。

 舁き人が霜の被った土をひしひしと踏みしる音だけが響き渡っている。街道に、このような派手な駕籠が通れば、人々はたちまち目を見はらせるに違いない。しかし、あたりには誰一人いない。黒船来航以前、漁港として栄えてきた下田港の街道は、早朝ですら活気のある行商人達が行き交いしていた。あの頃とはうって変わり、街道には濃い霧が垂れ込め、不気味なほどに静まり返っていた。

 しばらく進むと、1つの村が見えた。海岸から林を隔てたところにポツンとある小さな漁村だ。

「路子様。村に入ったようです」

 その時、初めて女が口を開いた。

「そうですか。ありがとう薄氷(うすらい)さん」

 薄氷と呼ばれた女は、目を瞑っている彼女にゆっくりとうなずいた。

 路子は盲いていた。既に身体は衰え、視界を完全に奪われたのは3年前のことだ。しかし、彼女はそれを心から受け入れ、そんな障害を思わせない気品と風格に満ち溢れていた。

 2人を乗せる駕籠が村に近づくにつれ、あたりの霧は一層濃さを増した。

 薄氷は、駕籠の小さな木戸を開けた。その瞬間、強烈な臭いが彼女の鼻腔を刺激した。

「これは……」

 なにかが腐っている……だけならともかく、えもいえぬ激臭が駕籠の中に入ってくる。カビと、発酵しきった水と内臓、吐瀉物、獣の血、それらを一緒くたにしたような、ぬめりのある臭いが、中に充満していく。

「す、すみません。今、閉じます」

「いえ、大丈夫です。そのままにしてください」

 戸を閉めようとした薄氷に、路子が言った。

「そのままにしてください。お願いします」

「は、はい」

 そして彼女は、反対側の戸を、手探りで見つけてから、そちらも開けた。

 慣れたからか、両方開けたからか、重苦しい悪臭の中に、少しだけ新鮮な空気が入ってくるのを感じた。

「路子様。これはいったい……」

「あなたは、伊豆に伺うのは初めてでしたね」

「はい。ですが、このようなことになってるとは知る由もありませんでした。なにがあったのですか?」

 路子は、1間おいて、

「薄氷さんには、いずれ言わなければいけないことが山ほどあります。ですが、今は先を急ぎましょう」

 薄氷は、

「はい」

 と、うなずいてから、視線を再び戸の外に向けた。

 霧の中にぶんぶんと音を立てて動き回る小さな点がある。その先になにがあるか、彼女は考えることをやめた。

 

 死村と化した漁村を抜けるのに、そこまで時間はかからなかった。しかし、あの沈鬱な雰囲気の中に入っていったとき、路子は時間の流れが止まったかのように思えた。目は見えなくなったが、若かりし自分が同じ光景を見たら、同じように心を痛めるだろう――いや、それ以上かもしれない。光を失った分、苦しむ民の姿が生々しく想像できる。

 街道を進むこと、1刻。路子は顔が暖かくなるのを感じた。戸から覗く陽が、彼女の頬を照らしていた。大分、陽も昇ってきたようだ。

 そう思うと、ふと、駕籠の周りから人の気配が感じ取れるようになった。

「路子様、伊豆港に到着いたしました」

 薄氷の言葉に、うなずいて返した。

 人気のない街道と違い、そこは生活感に溢れていた。漁師、商人、百姓を問わず老若男女様々な人が行き交い、朝の喧騒を楽しんでいた。堤防の方には、次々と船が漁から帰ってきている。夜漁に使われていた漁火を、そのままにして、収穫をせっせと運び出している。

 伊豆港の宿場通りに入ると、「上鷺宮様が帰ってきた」、「おかえりなさい」などと、陽気に声をかけてきた。

「この光景を見ると、なんだか安心します」

 薄氷は、安堵した面持ちで言う。路子はゆっくりうなずき、

「ええ。みなさん、優しい人ばかりです」

「それだけではないです。路子様がこの町を支えてくれたからこそ、みんなこうして幸せに生きているのです」

 その時、路子の脳裏に一瞬、さきの漁村のことが浮かんだ。

「路子様?」

 思わず表情に出ていたのか、薄氷の伺いに、

「え……? ううん、なんでもないわ。ありがとう」

 路子は微笑みを繕った。

「路子様……」

 どうやら、彼女は路子の気持ちに察したようだった。余計な気遣いをさせてしまったことに、路子は罪悪感を感じた。

「今考えても、致し方のないことです」

「そう、ですよね」

 あちこちから笑い声が聞こえてくる。それだけではない。耳をすませば、魚競りの甲高い声、主婦たちのたわいもない話、子供たちの走る音、この町のすべてが路子にとってかけがえのないものだった。しかし、その裏であのような事態にあっている人々がいる。さきの村だけでなく、以前から、そのような状況で暮らす人々の実態を知っていた。彼女は、それを見るたび、現実の不条理さと悲しみに心を打ちひしがれた。

「さぁ、急いで帰りましょう。子供たちも待っています」

「……そうですね。ふふ。あの子たち、お行儀よくしてるかしら」

 路子が微笑みを浮かべるの見て、薄氷もつられて口元が緩んだ。

 薄氷は、駕籠を邸宅へと向かわせた。

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