神州鬼哭伝

円藤凛子

胎動

序説

幕末動乱


 そこは死の匂いに満ちていた。

 炎はまだ野に燃え残り、あたりを焼き尽くしていた。海から吹く風がごうと唸りを上げるごとに、火の粉の煌きが闇の中で明滅している。

 勸修寺路子(かんしゅうじ みちこ)は、佇みながらぼうっと燃える野を眺めていた。

 それは凄惨ながらも、美しい光景だった。地に倒れた夥しい骸が灯色を纏い、その残り火がまるで魂の欠片のように、ゆっくりと闇夜へ吸い込まれていく。

 乱世を駆け抜けた前時代の武士たちも、この光景を見て美しいと思ったのだろうか。闇に包まれる炎を肴に、勝鬨をわかちあう姿が、彼女には容易に想像できた。

 ただ違うのは、この場には、彼女以外生きている者はいないということだけだった。

 死体は、到る所に転がっていた。先ほどまで、ここは戦場だった。徳川政権を死守する幕府軍と勤皇革命を掲げた攘夷軍が、この稲葉山の麓で死闘を繰り広げていた。各々が、日本の行く先を思い、異なる理想を抱きながら、散っていったのだ。

 しかし、この戦いの勝者はどちらでもなかった。

 幕府存続の願いは引き裂かれ、錦の御旗は血に染まり、ただそこには囂々と燃え盛る炎だけが残っていた。

 

 彼女がここにいる理由は、昨夜に遡る。彼女は、白坂にある観音寺に呼ばれた。ただでさえ、近年の勤皇革命のせいで東北の治安が悪化しているのに、断らなかったのは、彼女を呼んだのが、近衛飛鳥(このえ あすか)だったからだ。

 近衛家は、代々中宮を輩出している摂家のひとつだ。徳川幕府が世を収めたこの時代においても、皇族に最も近い立場として、今だその力に衰えを見せていない。しかも、勸修寺家の発展には、常に皇室と近衛家からの援助があった。路子一族のパトロンというわけだ。それに加え、なにより、彼女とは長い付き合いだった。一時期、路子が近衛邸に仕えていたころ、幼い飛鳥の遊び相手になっていた。周りの乳母たちよりも、なぜか路子だけにとりわけ懐き、よく我が儘を聞いては困らされていたものだ。

「夜分、大義じゃ」

 闇からゆっくり、少女が現れた。深紅に金糸が散りばめられた袴を纏った、華やかすぎる出で立ちに、路子は即座に、飛鳥だと把握できた。

「飛鳥様」

 一瞬、間を含んだ後、路子がその場にひれ伏し、

「お久方ぶりでございます」

「そう改めるな」

 少女は、路子を諫めた。

「わしらの仲ではないか」

 いくら、月日が経ったとはいえ、飛鳥は、まだ年端のいかない少女だ。それなのに、言葉の端々から感じられる厳かな雰囲気に、路子は息を飲んだ。もう彼女の知っていた我が儘な少女ではなくなっていた。

「積もる話も聞きたいのだが、急ぎの用でな」

 口元が柔らかくなるのを見て、路子は昔の面影を思い出し、少し安堵した。

「お主を呼んだのは他でもない。路子よ」

 やや間が空いて、

「――お主は、この国の生末をどう思う」

「どう……とは?」

 咄嗟の質問に、路子は狼狽した。

「言葉本来の意味じゃ。黒船が浦賀に来てから、我が国は滅びかかっている。他国の脅威に民がおびえているにも関わらず、日本はこの様じゃ」

 嘉永6年七月。ペリー率いる2隻の艦隊が、江戸に姿を現してから、日本に騒乱の時期が訪れた。幕府は、外敵の圧力に成すすべもなく、鎖国を解き、日米和親条約を締結したのがその翌年だ。それからというもの、徳川政権の失墜は甚だしい。幕府の力は衰え、それに啖呵を切った薩摩長州藩たちは、天皇政治への回帰を掲げ、攘夷軍として、クーデターを起こし続けている。

「内にいる蟻を踏み潰すのにも、この体たらくでは、呆れてしまうというもの」

「この国の行く先を憂うお考えは、お察し致します。わたくしめも、民のため尽力致す所存でございます。して、何用でござりましょうか?」

 わざわざこれを聞くために、路子を京から呼び出したわけでもない。ここに招かれたのは、近衛家をはじめとした摂家――あわよくば皇室に関わる大事ではないのか。確証はないが、路子はそんな不安を抱いていた。

「……勤皇か」

 飛鳥は思案にふけながら答えた。

「土佐の乾が、攘夷軍と合流した」

「存じています」

 土佐藩の上仕乾退助――後の板垣退助――が、長州、薩摩藩と合流し、白川に攻め入っている。土佐軍が今市を掌握し、いよいよこの内戦も、攘夷軍が優勢だと言えよう。そして、奥州街道の要である白川を奪還すれば、勤皇革命がより勢いづくことになる。言うなれば、錦の御旗が再びこの国の象徴になる時がそこまで来ている。

「路子よ。我ら一族は主のため、皇族に仕え、その生涯を捧げてきた。そしてこれからもじゃ」

「おっしゃる通りです」

「そして、我が主様は幾千もの時を経て、この国を支え、導いてきた。民草を重んじ、この国に泰平の光をもたらさんと、その大儀に自らの命を削っていた。だが、かくなる決意は踏みにじられ、大名たちは互いに争い、民は他国と、かくの動乱に震えながらこの国の生末を憂いておる」

 飛鳥は路子に背を向けた。

「なぜ主の努めが無下にされる。なぜこのような世になってしまう。我々は、何のために仕えてきたのか…………お主もわかるじゃろう? この気持ちが」

「飛鳥様の心情、深くお察します。ですが、今はまだ耐える時期です。この惨劇が早く終わるよう祈ることしかできません」

「そう、お前は、思うか?」

 飛鳥の目がぎらりと光った。鬼気とした迫力に、路子は思わず目をそらした。

「祈るだけしか、できないというのか?」

 路子は答えられなかった。飛鳥は、彼女を見下ろして、

「わしは、今まで間違っていたのかもしれん」

 さきの口調と変わって、優しい声だった。――いや、なにかを悟りきったような、あきらめに似た口調に、路子は聞こえた。

「路子。わしはずっと考えてきた。我が天皇にこの身を尽くして仕えるため、なにをすればいいか。貴様をここに呼んだのは、その答えを見てもらいたいからじゃ」

「飛鳥様。いったい……」

「お主には、随分と世話になった。わしとともに来てほしいのじゃ」

 言っている意味がわからない。路子は、少女の突然の願いに、漠然とした不安を感じた。が、飛鳥の表情は、それを感じさせないほどの柔らかいものだった。子猫のような、昔甘えてくる時によく見せてくれた笑みが、路子の緊張を一瞬で解いた。

「私は、いつまでも飛鳥様と一緒ですよ」

「そうか!」

 そう言うと、飛鳥は路子の胸に飛び込んだ。その勢いを抑えきれず、路子は彼女と一緒に崩れる形で尻餅を付いた。

「飛鳥様――」

「路子。やっぱりわしをわかってくれるのは、お主だけじゃ」

 飛鳥は、路子の胸に顔をうずめ、

「さみしかった」

 不安げにつぶやく少女の頭を、路子は優しくなでた。絹のように透き通った黒髪を指で梳きながら、彼女は言った。

「飛鳥様。わたくしめがいるから、もう大丈夫ですよ」

 勤皇革命による日本の内乱。それを受け止めるには、いささか飛鳥は純粋すぎた。彼女は、1人で悩み続けていたのだろう。この国の生末について。

「いい国をつくりたいのじゃ。みんなが平和で、笑顔な国を作りたいのじゃ」

 路子はうんうんとうなずき、飛鳥を優しく抱いた。

 近衛家の息女とはいえ、その姿は1人の少女だった。家柄に縛られただけの、普通の少女なのだ。

 こんなに苦しみ、心の頼りを無くしていた飛鳥を支えるのは、自分しかいない。

 路子は、飛鳥を強く抱きしめながら、そう決意した。

 

 しかし、昨夜の堅い決意を忘れ、路子は白川口の野に立っていた。

 彼女の視線はずっと炎の海に向いていた。

 あまりの熱気に、路子は、闇がひそかに揺れるような感覚を覚えた。

「路子よ、どうじゃ」

 隣に立っていた飛鳥が言った。

「わしらを見くびっていた者どもに、思い知らせてやったわ」

 飛鳥は、やや疲弊した顔色でつぶやいた。遠くの炎の群れが、唐人形の塗りたてられたような白い彼女の頬を照らす。路子には、それが、嘲笑に似た陰りが張り付いているように見えた。

「奴らめ。われらを差し置いて、この国を手に収めんとは。しかも、下劣な癖に、自らを”朱雀隊”と呼称しておる輩もおるとは、この国も落ちたものじゃ。自らが炎に喰われるとは、滑稽なことよ」

「飛鳥様、これはいったい……」

 路子の視線は、炎の群れに漂っていた。

「致し方ない。この国の泰平の為じゃ。いつの時代も、新たな世を切り開くためには、数多の犠牲がつきものとなる」

 ちがう。

 路子は、心の奥底で、飛鳥の言葉に拒絶した。

 彼女らが戦場に着いたとき、すでに炎は燃え広がっていた。見せたいものがある、と飛鳥に言われた時、路子は彼女になんの疑いも抱かなかった。しかし、こんな夜更けに、閨ではなく、駕籠に乗り込んだ時、あからさまな不自然さを感じたのは確かだ。

 そしてその結果がこのあり様だった。

「路子。これで本当の良い国ができるぞ」

 ちがう。

 民のため、この国の永久なる泰平のため、私たちは尽力を尽くさなければならない。だからこそ、殺生を慎み、最善策を考案するのが、私たちの役目であるはずなのだ。それなのに――

「勤皇軍とは、よく考えたものじゃな。所詮己の欲に駆られただけの愚勢が。安易に天皇の名を使うとは片腹痛い。だから、粛清してやったのじゃ。本当の”勤皇”とは如何なるものかを教えるためにな」

 飛鳥様は、ご乱心だ。

 この御方は、憎悪と妬みのあまり盲いておられる。いかなる無慈悲で、惨い行いも、すべて泰平実現の糧として結び付け、正当化しようとしている。

 なにが、彼女をそのようにさせたのだろうか。かつて、稀にみる神学的才能に恵まれ、路子にとって本当の姉妹のように思えた彼女が、なぜ人の死に笑みを浮かべるようになったのか。

「これから、この国の古き良き秩序が蘇るのじゃ。今夜は、その宴にふさわしい」

 変わりきった飛鳥から目を背け、路子は再び視線を戻した。

 炎の海は、いまだ衰えない。それどころか、炎の勢いが更に増していく。夜更けの強風に煽られ、炎が狂人のようにぬらぬらと踊る。

 路子は、飛鳥の横顔を一瞥した。言葉を紡ぐことなく、黙ってあたりを見渡す飛鳥の表情は、不気味な影を落としている。

 飛鳥の瞳が青色に輝いたのは、その時だった。

 あまりの突然さに、肩を震わせた後、路子は、すぐさま彼女の瞳だけが青色に輝いたのではないと気付いた。

 いつの間にか、赤に燃え盛っていたはずの炎が、青白く変化していた。狐火を思わせる、体の奥底を冷やすような鮮やかさに、路子はすぐ心を持っていかれた。死へと誘う冥界の灯を思わせる青は、あたりを別世界に染め上げた。

「帰ってきたか」

 飛鳥が夜空を仰ぐ。路子もつられて、視線を上げると、そこには球のような光が見えた。月にしてはあまりにも蒼白で、そこから発せられた閃光が彼女の目を突いた。

 光が、ゆっくりと降りてくる。地に近づくほど世界は照らされ、この世の醜悪が晒される。そう思わずにはいられないほど、それは神々しく、残酷に見えた。畏怖を超えた絶対的な力とでもいおうか。そんな言葉でも形容し難い圧倒的な覇気が、その光玉から感じられ、路子の本能を鷲掴みにし、恐怖と感嘆を植え付けた。

 光玉が降り立つ。風が凪いた。

 静けさに満ちた世界の中で、そこに一糸まとわぬ1つの裸体があった。紛れもない成熟した女のそれだ。青白い炎に照らされた柔肌は、さきまでとは違う、月光のような優しい光を放っている。

「あ……」

 路子の口から、思わず吐息がこぼれた。その時、腰まで伸びた絹のような黒髪がふわりと浮きだった。

 青白い炎たちに囲まれながら、女は踊り始めた。炎と戯れるように凹凸の身体を卑猥にくねらせていく。

 路子は、天から降りてきたこの女に、子供のような純真さと、触れてはならない妖艶さを同時に感じた。不思議な感情だった。

「……純みたる翼、百朱の如し」

 飛鳥が静かに呟いた。

 路子は、その言葉に聞き覚えがあった。皇族でも一握りの人間しか知りえないはずの合紋――朱雀を謳った、古くからまつわる皇族だけに許された御神の言い伝え。

「覚えているか?」

 飛鳥の声が、路子の遠い意識を引き戻した。

「まぁ、覚えていなくても無理はない。そなたは、あやつが赤子の時にしか見ておらぬのだからな」

 飛鳥の意図が汲み取れなかった。しかし、路子は遠い記憶の奥底に、なにかがひしめくのを感じた。

 かつて、その奇異な力を恐れられ、死ぬはずだった存在。代々皇族のタブーとして、その人生を世に刻むことを認められなかった存在。

 神代の力――皇族の悪しき呪いを受け継いだ存在。

「まさか……」

「よく気付いたのう」

 うなずきながら、飛鳥はつぶやく。

「慈悲心院宮様じゃ。これからは朱雀宮を名乗る」

 


 慶応4年4月1日。

 朱雀宮天皇率いる鳳四宮廷貴族らが、旧幕府軍、及び、攘夷志士軍を壊滅させたその日から、真の意味での大政奉還が成された。

 異国の脅威は、彼らの持つ神代の力で消え去り、それに伴い、この国の動乱は沈静化した。

 また、彼らは、自らを神の遣いと称し、主導者であるとして、”神州日本”と、この国の名を改めた。

 かくして維新は産声を上げずして、没落した。

 天下泰平の世の始まりである。

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