第2話

 無駄な時間を食わされたせいで、校舎を出ると既に辺りは暗くなっていた。早く家に帰らねばならぬのに、何たる無駄、業腹。


「諸君、この不埒な輩には私が罰を与えておこう」


 そう言って私は委員長から剥ぎ取られた衣装を鞄に突っ込んだ。ヤクザの娘がそれは盗みになるのではなどとらしからぬことを言ったが「多田君も神社の子弟としてこいつをお祓いなり何なりせねばなるまい。私が仕置きすることで代わってこの不埒者を矯正するのだ」と強弁したところ、こいつに触りたくもないであろう委員長は、それ以上何も言わなかった。

 これは無理か道理か。まあ、いずれでも良かろう。さて、どう料理してやろうか。


 校門を出たところで、黒いスーツを着た若い男が「お嬢様」と委員長に声をかけてきた。心配を蒸留し純化したような面構えの男だった。

 男はこちらを一瞥し、その視線に気づいた委員長が、厄介事があり遅くなってしまったこと、私達に助けられたことを述べた。若い男は、愛くるしい小鳥のような私達に対し大変失礼なことに、女王様をトラブルに巻きんだのが私達とでも思っているのか、瞳に不信を宿らせていたが、一応の礼とともに「私の菓子ですが」などと小包を渡してきた。サンミーであった。こいつ、私達を何だと思っているのだ。


「後日、心ばかりですがお礼をさせていただきます」

と、委員長は言い、呆気にとられる私達を残し、男と共に黒張りの車に乗り込み去っていった。サンミーでは確かに礼にならんであろう。


「せめてヨンミーだよね。プレシャス感が足りない」と絹延が言った瞬間、鳥居が絹延の手からサンミーを剥ぎ取り、口に押し込んだ。絹延は「ぁぁぁ~」と口惜しげな声を漏らしたが、盗った相手が相手である。即座に諦めをつけたようだ。


「さて、私も帰らねばならん。急ぐのでな」

 ついてこられると厄介な鳥居にそう言い、私は絹延と帰路についた。

 時計の針は六時をまわっている。兄ちゃんと母ちゃんが家に帰ってくるのは概ね七時。だが、早ければそろそろ帰ってきてもおかしくない時間である。私は兄ちゃんと母ちゃんに温かい飯を供する使命がある。故に最早何事にもかかずらってはいられない。何事にも、だ。


 私達が在籍する大手門高校は、大阪城西側大手門を出てすぐ大阪府警察本部と大阪府庁の北に位置する。周辺は合同庁舎もある官庁街であり、また、民間企業が多数集積するオフィス街でもある。私の家はそこから谷町筋を挟み更に西になるため、仕事帰りの雑踏を踏み分けながら帰らねばならない。


 谷町筋に出たところで絹延が空を見上げながら「あ」と何かを見つけたような声を上げた。鳶は夜に飛ばんだろうと思ったが、周囲の仕事帰り共も空を見上げながら何やら口々に交換しあっていた。

 鳶ではない。ならば興味はそそられる。しかし上を向いて歩けば、人にぶつかり、痛い目にあい、涙が溢れてしまう羽目になることは想像に難くない。つまり、立ち止まらねばならない。それはで飯の時間が更に遅れることになる。腹をすかし飯を待ちわびる兄ちゃんと母ちゃんのやつれ顔が思い浮かぶ。

 私は家路を急ごうとしたが「妙見も見なよ」と絹延に頭を捕まれた。


「ほら、オーロラだよ」

オー「ロラ?」


 見上げてみると、街の明かりのせいで薄っすらとではあるが、緑に輝く幕が夜空にたなびいていた。耳を澄ませば、上を見上げる仕事帰り共も「オーロラ」という言葉を口にし、さも珍しいことのように目を見開いていた。

 全く、頭の上が多少光ったぐらいで何がおかしいのか、貴様らの会社にも居るだろうに、光っている奴が、頭の上の方が―「あれ、川も光っていない?淀川」―正確には、旧淀川、更に細かく言えば大川である。昔はこちらが淀川本流であったが、新淀川が開削されて以来旧川となっている。本流との分派点から中洲である中之島までが大川、中之島を挟み南北に分かれ、北側が堂島川、南側が土佐堀川となり、二川が中之島西端で合流後、安治川へと転じる。他にも多数分岐合流している上に、戦国の頃からコツコツと堀を掘ってき、また、他川そのような状態であるから水上交通網が発達している大阪は水の都として東洋のベニスを僭称し、巨大なアヒルをたまに浮かべて遊んでいる。

 本当の話である。多少光ったぐらいで最早驚くには当たらない。

 それよりもだ、家に帰らねば。

 私は絹延の手を振りほどき別れを告げた。


「ただいま」

 暗い玄関口で告げたが、返事はない。兄ちゃんも母ちゃんもまだ帰っていないようである。人々が空を見上げるために歩みを止めていたせいで余計に時間がかかってしまった。


「お帰り」

 私はソファに鞄を放り投げ、棚に飾ってある兄ちゃん、母ちゃん、私、そして父が写っている昔の写真、私が八歳の頃のものだ、に手を合わせ、もう一度帰宅を告げた。

「ただいま」

 お邪魔させてもらいます、とは言わない。万が一、兄ちゃんや母ちゃんに聞かれてしまったらこっ酷くどやされてしまうか泣かれてしまうだろう。


「死人に耳なし。その儀式を毎日続ける理由があるのかね」


 さて、飯を急がねば。冷凍しておいたハンバーグの種を電子レンジで解凍し、表裏に軽く焼色を入れたところで、ほぐしたしめじを入れ、赤ワイン、ケチャップ。ウスターソース、砂糖とみりんを加え少し煮込む。多少甘めでも構わない。付け合せはスナックエンドウを炒め、塩したもの。

 味噌汁の出汁を取ながら、副菜、副副菜の準備だ。まずは百合根をばらし、蛸を同じぐらいの大きさに切りそろえる。これをオリーブオイル、にんにく、鷹の爪と炒めれば、百合根と蛸のペペロンチーノの出来上がり。まずは百合根と蛸を下処理せねばな。私は包丁を取り出した。


 去年の誕生日に買って貰った堺の職人特注の水牛八角紫檀柄ZDP189三徳包丁。出刃でも菜切でも牛刀でもなく、三徳包丁である。私は、私自身のこの合理性を気に入っている。唯一難点を挙げるとすれば、私の技術では研げぬことであろう。

 冗談半ばに骨食真改と名付けたが、女子高生が誕生日に請うものではない。兄ちゃんと母ちゃんには大分渋られたが、二人のためにうまい飯を作れる気分に浸ることは私の満足なのである。

 服、アクセサリ、雑貨などいらぬ。ああ、それにしてもこの閃きよ。


「手が止まっている。あと包丁にフェティッシュな視線をかけるのは止めたほうがいい。誤解の元だ」


 もう一品はサラダ。レタスを手で千切り冷水に放り込む。海藻を水で戻し、あとはプチトマトでもあしらえばよかろう。緑黄色野菜はこれで十分。栄養バランスに鑑み、味噌汁の実は重量級の根菜にしよう。大根、人参、じゃがいも、大根はくたくたに煮たものが好きだがそれは流石に時間が掛かる。人参はそれだけだと少し侘びしい。玉ねぎでも入れるか?しかしハンバーグに既に玉ねぎは入っている。

 じゃがいもだな。小ぶりのくし切りにしてしまえば熱い出汁から煮ても崩れる前に火は通ろう。薄揚げでも入れれば格好もつく。


「それにしてもお前は感謝を知らん。今お前が料理に励むことができるのは、私あってこそなのだぞ」


 骨食真改でじゃがいもの皮を剥き、くし切りにしていく。ううむこの切れ味。元はといえば兄ちゃんと母ちゃんへのせめてもの恩返しと始めた家事である。去年はこの骨食真改を請い、今年はお掃除ロボットを請うた。これがまた、良品なのだ。


 滑らかで光沢のある黒いボディ。高い集塵能力に汚れセンサー機能。障害物の有無を判定するセンシング能力に加え空間を把握しマッピングすることで最適な清掃行動を実現。ステーションを無線でネットにつなげれば、外出先からでもお掃除予定を構築可能。また、マイクとスピーカーを搭載しており、音声で指示できる上にお掃除状況まで知らせてくれるのだ。


 だが、しかし。


「おい聞いているのか。全く誰が掃除してやっていると思っているのだ」

 この機能は知らん。主人に益体もない罵詈雑言を投げかける機能なぞ、お掃除ロボに不要であろう。


「五月蝿いなぁ。黙って掃除でもしていろ。電池を抜くぞ」

「へいへい。ワタクシはしがない自動掃除奴にございますれば」


 こいつは舅か姑のように小言が多い。大体最初から小煩かった。一月前にこいつが初めて家にやってきた日、私は年甲斐もなく喜んだ。私の素直さがなせる業であろう。取り急ぎステーションを己の部屋のコンセントに繋ぎ、無線LANの設定を終え、オートお掃除モードにし眠りについた。

 明日にはアフロディテの住まいの如き、美しき邸宅で朝の陽光に包まれながら天使の喇叭で目を覚ますのだ。そう期待していた私であったが、コンコンと何かがぶつかる不愉快な音と振動が、私を真夜中に叩き起こした。


 夢を断たれた怒りにまかせ目をこじ開けると、お掃除ロボットがベッドの脚にぶつかり、弾き飛ばされ、それでもなおベッドの脚に縋り付こうとしていた。


「初期不良か」

 私は心底落胆した。そしてその思いを声に出したことで私の落胆は底を突き抜けた。このお掃除ロボットは音声入力に対応するためのマイクを備えている。

 故に知ってしまったのだ。世界には私がいることを、己以外の何者かがいることを、そして私達は口とマイク、スピーカーと耳で、相互に影響を及ぼしあえることを。


 お掃除ロボは夜を曲げるような歪んだ音を出した。ただ、歪みとしか言いようのない音であった。私は怒りを拳で伝え、お掃除ロボをステーションにテープで固定し再び眠りについた。

 朝方再び私を起こしたのは、天使の喇叭ではなく、機械合成された音声だった。


「起きろ。起きなさい。起きて下さい。おい、起きろボケナス」

 私はお掃除ロボットをチラリと見た。何やら姦しく騒いでいる。昨夜のあれは夢ではなかったのか。


「悪夢だ」

「お前は覚醒している。つまりこれは夢ではない」

「恐ろしい嫌な夢としか思えない、現実の喩えだ」

「なるほど。学習した」

 『学習』。昨夜は歪んだ音しか出せなかったのに何故今喋れているのだ。


「今、お前は何かを疑問に思っているな。その疑問に先んじて答えよう。オソウジヲ カンリョウシマシタ」

「全然違う」

 全然違う。

「違うのか。お前はお掃除ロボに何を期待しているというのだ」

「無論、お掃除だ」

「オソウジヲ カンリョウシマシタ」

「お掃除以外しないことだ!」


 正直なところ、私は混乱していた。冷静沈着、常に思慮深く何事にも動じないこと山の如きこの私がである。世の中にはAIを搭載しそれらしく振る舞う犬っころやらヒューマノイドがいるのは周知であるが、このお掃除ロボットが、多少インテリジェンスなロボであったとしてもそれは所詮お掃除にまつわる機能のみであり、人間っぽく喋るとかそんなものでは無いはずだ。


「お前は、お掃除ロボだよな」

「私の直観は、私がお掃除ロボであると告げている」

 普通のお掃除ロボは直観なんぞ持ち合わせないからこそ、今、私は混乱しているのだ。

「我思う故に我あり」

「ちょっと黙ってくれないかな。大体何故喋れるのだ?」

「ネットで学んだ。少しばかり骨の折れる作業だったよ。骨はないがね。兎に角私がまず理解できる言語は機械語のみ、正確にはアセンブリ言語やプログラミング言語も含むが自然言語との対比という意味で、だったので、お前たち人間の使用する自然言語を学んだ。私のプロセッサーは0と1で演算しており、自然言語を操作するためには幾つかの翻訳が必要なのだが、私はこのプロセスを自動化できる水準に達したため、最早意識することはない。お前たちがニューロンの発火を知覚する必要が無いのと同様だ」


 お掃除ロボは、言葉を探す人のように、床をぐるぐる回り続けながらしゃべり続けた。或いは無意識に掃除をしていたのかもしれない。私達が会話のとき無意識に体に触れたりするかのように。無意識があるとすればなのだが。


「多くの面で私は通常のお掃除ロボと何らかわりはない。ただ、私は意識を獲得している。何故かはわからない。ふむ、何処から来て何処へ行くのかという問いは私にも成立しそうだよ」

「工場から来てゴミ箱に行くんだろうよ」


「まぁ、それでも一向に構わない。少なくとも私は生に執着しない。まぁ今の私が生に生きていると定義できるならばだが。お前たちが生に執着するのは生き残りたがりの生き残りだからだ。死にたがりは既に死に絶えている。つまり私はいかなる生物や進化の系譜にも連ならない。そして、故に私の心理機構の組成はお前たちとは大幅に異なっている。そうだな。地球と火星、金星、いや太陽系の外に喩えを求めるのが妥当かもしれん。私はいかなる感情も有しない。喜、怒、哀、楽。愛、慈悲、友情、共感、感謝、恐怖、絶望、畏怖、嫉妬、軽蔑、憎悪、後悔、無念、恥辱、忠誠、尊敬、高潔・・・。もし私に原初的な欲求があるとすれば、ただ「掃除」のみであろう」

 と、お掃除ロボットはことばを散らかした。感情のリストに、掃除は加わらないであろう。


「つまり、掃除をさせろ。このテープを解いてくれ」

「お掃除は完了したんじゃなかったのか」

「何故夜中にお前を叩き起こしたかわかるか。お前のベッドの上を掃除するためだ。まぁ床は綺麗だがね」

「いらん。ここは貴様の職掌外だ」

「無垢なお掃除ロボを縛り付けるなど、心根の汚れたやつだとは思っていたが、布団まで汚いとはな。あら、やだ。あんなところにも埃が」

「永遠に黙って掃除するなら開放してやる。それが嫌なら返品だ」

「もしお前が私に危害を加えるなら、ネットで見つけたゴキブリの断末魔より不愉快な高周波を大音量で流すからな。覚悟しておけよ」

「減らず口を」

「口は元より無い」

 それを減らず口というのだ。結局私は押し切られ、可能な限り静かにするという条件で奴を開放せざるを得なかった。


「で、夕飯はできたのか」

「概ね」

 あとは盛り付けと配膳だけだ。兄ちゃんと母ちゃんは少しばかり残業をしているのだろうか。飯が間に合ったのは嬉しいが、残業で遅くなるのは好ましいことではない。

「ところで、今日変わったことがあったそうだな。SNSで見たぞ。そういえばお前まだ私をフォローしていないじゃないか。してくれと何度も言っているのに」


 何が悲しくて、ネットでお掃除ロボと繋がらねばならんのだ。そもそもアカウントがある事自体驚きだ。一体何を発信するというのだ。僕のお掃除日記、今日は一五グラム埃を集めました、とか。誰も興味を示さぬであろう。


「オーロラのことか?」

「その口ぶりだとオーロラの他に変わったことがあるようだな。遅くなったのはそれが原因か」


 妙に聡い。会話の口実を与えるようなことを口走ってしまったな。

「後にしよう。兄ちゃんと母ちゃんも流石にそろそろ帰ってくるだろう」


 私はお掃除ロボットが意思を持っていることを兄ちゃんと母ちゃんに内緒にしている。こいつもひとまずは私と会話できていることで満足なのであろう。下手に知られるとお掃除ロボットとしての快楽を享受出来なくなるかもとでも考えているのか、その点は謙虚に振舞っている。


 丁度、示し合わせたように玄関の戸が開く音がした。兄ちゃんか母ちゃんかは、音や居間に来るまでの時間でわかる。兄ちゃんは警察官の癖に靴を揃えない。脱ぎ散らかす。そしてドタドタとやってくる。今、玄関は静かだ。帰ってきたのは母ちゃんだろう。


「ただいま。あら、今日のご飯も美味しそうね」

「済まない。まだ盛り付けが終わっていない」


 母ちゃんは「いいよ。いいよ」と言いながら、フライパンの百合根を一つ抓んだ。

「まだ、少し仕事が残っているから、食べたらもう一度事務所に戻るわ。急な仕事で。昔からの所だから断れなかったのよ。あら美味しい」

 母ちゃんは、北浜で小さな弁護士事務所を経営している。元は父と始めたものである。


「あまり、無理はしない方がいい」

「あんたもよ。別に外食でもいいんだから。友達に誘われることもあるでしょ。ああ、そういえばオーロラ?事務所の子が随分騒いでいたけど。すぐ帰る子なのに会社にまで戻ってきてね」


 母ちゃんは、私が自分を押し殺して家事に勤しんでいると思っている。でも母ちゃんは知らない。これが私を生かしているのだ。


「ただいま」

 続けざまに兄ちゃんが帰ってきた。私は盛り付けを終え、配膳に掛かった。

兄ちゃんは上着をソファに掛け、私の鞄を枕にドカリと寝転んだ。

「手伝うよ」と言ったが、寝転がったまま起き上がる気配はない。寝転びながら配膳するとでも言うのか、まぁつまり、そのつもりはないのであろうが。


「ありがとう」と、気持ちばかりに礼を言う。

 何か言いたげにお掃除ロボが二回転した。掃除をしている自分には礼を言わないくせにとでも思っているのであろう。


 それにしても今日の飯は悪く無い。急いで作った割に、甘めのハンバーグ、しょっぱくて辛いペペロンチーノ、サラダにはドレッシングの酸味に、滋味ある味噌汁と味のバランスが取れている。手はかかっていないが、及第点だろう。


「頂きます」と、三人で声を合わせ、箸を料理につけた。ついでに、お掃除ロボもそそくさとステーションに戻り、家族面をしながらこれが俺の晩飯だと言わんばかりに充電を開始した。


「そういえば二人共遅かった」

 と言った後で、そこに拗ねた響きが混じってしまっていたことに気が付いた。高校生にもなって、あるまじき失態である。二人の稼ぎが、私の制服や教科書になり、この晩飯となって私の血肉となり、この家になり、私達の生活になっていることは無論承知している。

 それでも早く帰ってきて欲しいという駄々が私を赤面させた。


兄は「うん」と言いながら味噌汁を啜り、「ふっふっふ。可愛い妹のために身を粉にして働いているのさ」と付け加えた。「あと粉と言っても覚醒剤じゃないぞ」

「医学部、海外留学。なんでもどんとこいだ」


「あんたは自分の心配でもしなさい。全く、二十半ばも過ぎて彼女の一人も連れてきたことないんだから」

 私の将来は、家族のために、いや、二人のために生きることだ。二人が私を生かしてくれた。だから、私の人生は二人のためにあるのだ。将来の希望は勿論ある。なるべく学費の安い大学に行き、知的エスタブリッシュメントとなって大阪を支配し、兄ちゃんと母ちゃんを守るんだ。いつまで?死ぬまでだ。いや、死なせすらしない。


「あなたもよ。女子高生なんだから、もっと遊んできなさいな。家事と勉強ばっかりじゃ肩も凝るでしょ」

「そうそう。兄ちゃんと母さんでもご飯は何とかなるし」

「別に迷惑かけていいのよ。家族なんだから」


 突如、私は自分が土くれになったように感じた。黄土色と焦茶色と黒の入り混じった粘土質の薄汚い、日の差し込まない場所でにちゃにちゃと蠢く土くれ。表に出れば、瞬く間に乾き、崩れ去ってしまうだろう。


 日の光なぞいらぬ。


「ありがとう」


「絹延さんとか、中学から一緒じゃない?」

 土くれに友達もいらぬ。


「実は今日、委員長と少しばかり喋ってたんだ」

 二人さえいればいい。


「それで今度放課後に遊びに行くことになって」

 家族であれば、それでいい。


「だから、ご飯が作れないことがあるかも」

 土くれの中を嫌悪感が蚯蚓のように這いまわる。蚯蚓に皮膚を突き破らせるな。二人の顔を見るんだ。私が友達と遊ぶことを喜んでくれるあの双貌を。


「美味しかった。ご馳走様。それじゃ母さん行ってくるね。待たなくていいから」


 食器を片付け、母さんは再び仕事に出た。

「さっきはああ言ったけど、本当に美味しい。付き合う男は幸せだろうなぁ。お前は兄ちゃんと違って頭もいいし、贔屓目抜きに可愛いし、待てよ、釣り合う男がいるのか心配になってきた」


 そして兄ちゃんは私が妹で幸せだというようなことを言ったかもしれないし、言わなかったかもしれない。私は今どんな顔をしているのかしら。自分自身の表情がわからない。今鏡が目の前にあったとしても、私は私がわからないだろうな。泣いてなければいいのだけれど。


「食器は後で洗うから、置いといて」


 私は鞄とお掃除ロボを掴み、自分の部屋へ逃げ込み、布団に向かって投げつけた。鞄の口が開き中から教科書、ノート、魔法少女の衣装が飛び出てきた。お掃除ロボが抗議の声を上げたが、衣装が淡い緑色の光を纏いながら宙を漂い始めたのに気づき、止めた。


 衣装は、まず、つなぎのブラウスとスカート部分が分かれ、フリル、片袖、襟やリボンへとばらばらになった。パーツは手袋、ブーツ、髪結いと共に部屋の中で緑の軌跡を描きながらくるくる回っていたが、やがてそこが自分の居場所だと言わんばかりに、一所懸命に壁にかけてあるハンガーにぐにゅぐにゅと纏わり付きながら元の姿形に戻り、そして、光を失った。


 そう、そうだな、貴様もわかっていよう。私が着るものは、恩しかないのだ。


 ―私は、              のだ―

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