第4話 父とわたし

 私が小学2年生となった1970年、この年の一大イベントはなんと言っても、人類の進歩と調和をメインテーマに掲げた、EXPO70大阪万博だ。私にとって万博と言えばこれである。大阪北部、千里丘陵の一角、一角と言っても広大な土地を会場とし、半年間に渡って世界各国から延べ6千万人以上のの人々が押し寄せたそうだが、当時の私にはそんな理解はなかった。

 しかし、友達にも自慢できるくらい何度も行ったような記憶がある。小学生だったので、入場には必ず迷子バッヂを渡される。子供の掌より一回り小さいくらいの大きさのシールになっていて、裏の剥離紙をめくって着ている服のどこかに貼り付けるのだ。おそらく、親がセットになっている何かを持つことになり、子供とはぐれたときそれを頼りに探し出すものだったのだと思う。表面の絵柄が何種類かあって行く度に違う柄をもらえたり、はたまた同じものがたまったり、そこは運だった。

 運と言えば、どのパビリオンに入場できたかというのもまた運と忍耐力の賜物だと思う。残念ながら、私は長蛇の列を携えた花形パビリオンへの入場経験はない。花形とは即ち、月の石をご神体としたアメリカ館、赤くそびえるソ連館などだ。当時は東西冷戦の最中だったが、ここはホットな戦いを繰り広げていたのではないか。そして、岡本太郎の世紀の傑作である太陽の塔の中にも入ったことはない。ではどこへ行ったのか。さすがに日本館には入った。他には、だいたい空いてて入りやすかった象牙海岸(当時の呼称)館、夜には宝石の輝きだったスイス館、後は日本の企業館でミドリ館とかガスパビリオンなど。地味だ。

 2歳年上の夫などは、試験販売されていたカップヌードルを食べたことが鮮烈な思い出としてあるらしいが、私は何かを食べた記憶がない。もしかしたら、ほとんど飲まず食わずだったのかもしれない。なぜなら、うちはとにかく貧乏だったから。入場料金だけで精一杯で食べ物まで手が回らなかったのではないかと思う。

 しかし、貧乏なら貧乏で何度も行く必要もなかっただろうに。私や弟が行くとなれば、そこはやはり一族郎党、両親のみならず祖母や叔父叔母も呼ばねばなるまい。財布を開けるのは紛れもなく父だ。相当な散財をしたことだろう。今思えば恐ろしい。


 父という人はそういう人だった。

 一言で言えば見栄張りだ。それはおぼっちゃん育ちの成せる業だった。

 しかし、そのおかげで、私は田舎の貧乏家で育ちながら、近所の子供が持っていない物も色々持っていた。サプライズで荷物が届くこともあったし、サンタクロースよろしく、父が持ち帰ることもあった。いつも渡し方が素っ気なかったのを覚えている。私と父はある程度、モノでつながっていたと言ってもよいのかもしれない。


 知育玩具として現在も保有率上位に入るであろうブロックがまず思い浮かぶ。うちはレゴだった。ブロックには二大ブランドがあった。私の持っていた外国製のレゴと国産のダイヤブロックだ。それぞれ特徴がある。レゴは基本形が小ぶりだ。そしてかみ合わせるポッチの山が低い。なんとなく洗練された雰囲気だった。それに対してダイヤブロックは大きめで、ポッチも存在感のある高さだった。いかにもプラスチックという質感で少々安っぽく見えたが、小さな子供にとっては扱いやすく、また、誤飲などの危険性も低かったのではないかと思う。なぜ、父はレゴを選んだのか、私なりに考えてみる。高級感とデザイン性だろう。高級感は「感」だけでなく、実際ダイヤブロックより高価だったはずだ。何しろ外国製だ。それも、外国と言えば?のアメリカ製品ではなくデンマークだかどこかで、箱におかしな記号付きの文字が並んでいた。デザイン性という意味では、多くの種類のキットが存在した。一箱に入っている様々な大きさ、色、形のブロックを組み立てると、かなり精巧な消防車だとか、クラシックカーだとかができあがった。車関係のキットが多かったのだか、それは弟の好みに合わせたものだ。

 小学校に上がる前後、私が字を読めるようになった頃から、本が届くようになった。昔はよくあった配本というシステムで、本の頒布会のようなものだ。少年少女世界文学全集全22巻が毎月2冊ずつ送られてきた。お話はとにかく誰もが知る名作ぞろいで、全ページカラーの絵本仕様だった。その絵も、油絵調あり、鉛筆画あり、様々な手法で描かれており、絵画への興味をも引き出すものだった。小学校入学のお祝いだったと思うが、一人の叔父からスケッチブックとカラーサインペンセットをもらった。絵の好きな叔父だった。そのスケッチブックの紙に祖母が罫線を引いた。何をするのかと思えば、読書記録をつけろと言うのだ。私は本好きだったから、文学全集以外にも毎月何冊も本を読み、祖母の指示通りに記入していった。そのスケッチブックはしっかりした紙だったので、片側にサインペンで書いた文字が裏移りすることはなかったので、私は裏側に、文学全集の挿絵の中で好きなものを選んで似せた絵を描いて楽しんだ。残念なことに私の絵はそれほど上手ではなかったが。

 ブロックにしても、本にしても、お絵かきにしても、遊びとしてやっていることなのに、言い換えれば情操教育である。大人達は少ない持ち駒で私をうまく教育していたものだと思う。王様のアイデアなどで売っていた子供にはかなり高度なパズルもいくつか持っていた。トランプやかるた取りなど頭を使うゲームも大人達は一緒にやってくれた。


 父から届いた物の中で最も驚きだったのはオルガンだった。このオルガンという代物はどうにも扱いに困った記憶がある。

 父から、「近々荷物が届く」と聞いていた。しかし、それが何であるのかはおしえてくれなかった。

 そしてある日、荷物が届いた。とんでもなく大きくて重い荷物だった。運送会社の人は、バス通りに運搬車を止めて細い路地をたどって来たのだと思う。変に曲がりくねった路地で、途中にちょろちょろ水の流れる溝がある。子供でもまたいで通れるが、知らない人なら足を突っ込んでつまづきそうだ。大きな荷物を運んでいるならなおさらだ。その奥にまともな家があるのか不安だったかもしれない。

 家に運び込むときも注意が必要だった。扉を開けたところにじゃまな洗濯機がある。洗濯層が一層で手回しの脱水用ローラーが付いたタイプだ。そして玄関通路が段差だらけだ。最後の最後、靴を脱ぐ板張りの床面から5、60センチほど上にいきなり畳の部屋が始まる。要するに、設置型の楽器など置くには不向きな家なのだ。あるわけないが、ピアノでなかったのがせめてもの救いだった。

 父はいよいよ、私に対して音楽教育まで始めようとしたのか。

 いや、音楽教育の初めの段階はこれより前に一度失敗している。誰が言い出したのかわからないのはいつものことだが、私は幼稚園の頃、声楽を習わされていた。楽器や道具を用意する必要のないお手軽お稽古と踏んだのだろうか。

 先生は子供が一人で歩いていける距離の長屋のような住宅に住んでいる人だった。奥さんがピアノを旦那さんが声楽を教えていらっしゃった。当時、私は流行り歌を歌うのは好きだった。祖母も歌が好きで色々な歌を教えてくれた。子供らしくないが「荒城の月」もその一つだ。そんな流れで、お歌なら楽しく習えるとでも思ったのだろうか。どうせなら、定番のお習字とかそろばんとかにしてくれたらよかったものを。

 私はこの習い事をほんの数ヶ月で止めることになる。そう、だから失敗なのだ。止めた理由は単純、先生が怖かったからだ。小さな子供に楽譜を見ながら歌いなさいというのはやはり難しい。自信なく出す声は当然小さくなる。間違いよりもしっかり声が出ていないことで、逆に先生の方が声を荒げた。叱られるとなおさら声は出ない。悪循環だった。私がどうしても止めると言ったものだから、大人達はしぶしぶ受け入れてくれた。祖母はお歳暮の下駄を持って先生のところへ挨拶に行った。

 こうして私は挫折を経験したわけだが、数ヶ月が丸々無駄になったわけではない。小学校に上がる時には、基本のハ長調の音階だけは読めるようになっていた。

 さて、オルガンだ。

 触ったこともない楽器なのだから当然のことながら、教室なり通って習わなければきちんと弾けるようにはならない。しかし、当時は、もしかしたらあの地域だけのことだったかもしれないが、鍵盤物の先生と楽器メーカーとは密接につながっていたようだ。教室へ行って「習いたい」と言うと教室に置いてあるメーカーの楽器を斡旋してくれる。ヤマハ・エレクトーン教室などという看板をよく見かけたものだ。先生としてもその方が教えやすいに決まっている。逆に楽器屋に先に行けば先生を紹介してくれたのだろう。このシステムが問題だった。

 父は地元の楽器店でオルガンを購入したわけではなかった。大阪だ。そもそもコネクションがない。教則本だけ買えばよいだろうという考え方だ。しかし、それも買うことはなかった。

 隣の家の友達もしばらくしてオルガンを買ってもらったようだ。しかし、彼女はコネクションを活かして早々に先生に付いた。

 私はと言うと、長く、指一本の耳コピ弾きを得意としていた。


 父からのプレゼントの中で、もう一つ忘れられないものがある。パンタロンスーツだ。その頃人気だったピンキーとキラーズが膝から裾に向かって広がったズボンを履いていた。パンタロンとはそれなのだ。

 これは正月に着るために、年末、父が持ち帰ったのだと思う。阪神百貨店の衣装箱に入っていた。大阪梅田の阪神百貨店とは、現在では、子供服の売り上げは国内トップクラスだが、当時はどうだったのだろうか。父は服装のセンスは悪くない。これはやはりおぼっちゃまならではなのかもしれない。そんな父が見立てたのは、化繊のジャージー生地のセットアップで、白地にクロのランダムドットのプリントが乗っていた。下は当然のことながらパンタロン。上はハイネックでアシメトリーの打ち合い、腰丈でややウエストシェイプしたシルエットだった。正月の晴れ着と言えども、いつものように、こんなハイカラな服を着ている子供はいない田舎町だった。

 後日談だが、祖母のタバコの火がこの服のどこかに当たって小さな穴が開いた。化繊だったから、丸い穴の周りは黒く固まった。白黒ドット柄が幸いして目立たなかったが、おばあちゃん!なんてことしてくれたのよ!



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