第3話 叔母とわたし
自分が子供として大人達にかわいがられているという自覚はあったが、大人と子供の違いがよくわかってなかったようにも思う。自分も同列だと思い込んでいたわけだ。早い話が生意気だった。叔父達がお互いを呼び合う名で私も叔父達を呼んだ。これは気をつけた方がよいと思う。大人になってもその呼び名のままにしていると、大人同士のきちんとした話ができなくなってしまうからだ。早めに軌道修正をしておく方がよい。例えば「~おじさん」にするとか。叔母については、年齢が近かったので名前に「姉さん」を付けて呼んでいた。こちらは逆に、本人が本当にオバサンになった時には喜ばれたりもするので、現在もこのまま使っている。叔母は今や8人の孫を持つおばあさんなのだが。
父と叔母、つまり兄妹の一番上と下とでは年齢が16離れている。父が若気の至りで作った子供と言えなくもない年齢差だ。対して私と叔母とは13で、こちらの方が近い。だから、私と叔母が姉妹でもおかしくないわけだ。実際、一緒に暮らしている間の関係としてはほぼ姉妹だったような気がする。よく、自転車に乗せて親戚の家などに連れて行ってくれた。喧嘩もした。何が原因だったのかわからなくなるところまで姉妹のようだった。
叔母が中学生の時だと思うが、祖母が授業参観に行くのに私を連れて行ったことがあった。私は二、三才だったろう。この年齢の子供は何をしゃべるにも全力だ。腹式呼吸でおなかの底から声を出す。その声で、教室で叔母を見つけたことを報告したのだ。続いて、叔母の仲の良い友達も見つけて、また腹式呼吸で名前を呼ぶ。悪気があるわけはない。しかし、名前を呼ばれた方はどうかと言うと、やめてよ!恥ずかしい!という心境だろう。大人になってから、祖母や母たちから何度もこの時の話を聞かされたものだが、それには私の方が恥ずかしい思いをした。
私は妹が姉に影響を受ける如く、良くも悪くも叔母のすることをたどって行くことになる。
叔母は中学校では部活動をしてはいなかったが、高校生になってバスケットボール部に入った。その時私はバスケットボールというスポーツがどんなものかも知らなかった。当然、叔母の高校が強かったのか大したことなかったのか、また、叔母自身がどんなプレイヤーだったか、つまりポジションだとか、スタメンか控えかというようなことだが、そういったこと全てわかっていなかった。ただ、叔母がバスケットボールをやっているということだけが頭に刻印された。
やがて私も小学校高学年となり、部活動に参加する時期がやってきた。小学校にはバスケットボール部はなかった。少し離れた地域には、小学生対象のルールを設定したミニ・バスケットボール部を擁した小学校もあったが、私の住む地域はそうではなかった。代わりに、ポートボール部なるものが存在した。全体的な動きはバスケとよく似ているが、ゴールが玉入れカゴだった。台の上に人が立って投げられたボールをキャッチするバージョンもあるが、それよりはいくらか本家バスケット寄りだった。
私は中学で本物のバスケットボール部に入ることを見据えて、ポートボール部に入った。そして、中学入学。迷いもなくバスケットボール部へ。その後、高校入学。叔母は高校がバスケデビューだったが、私は正直もういいかな?という気になっていた。あれこれ部活を吟味していたのだが、結局、中学時代から交流試合などで知っていた他中学出身の女の子に誘われて入部してしまった。
流れで六年間続けることになったバスケットだが、果たして私はこのスポーツが好きだったのだろうかと思う。もし、叔母がやっていなかったら、選択肢にも入らなかったスポーツかもしれない。
叔母がやっていたことで、バスケットボールなどより遥かに私に興味を持たせたことがある。それは生け花だった。花嫁修業というよりもかなり早い時期から習っていたと聞いた。私も同じくらいの年齢である小学校高学年になったら習ってみたいと思っていた。なぜかというと、単純に花が好きだったからだ。
私が生まれたのは町の機能を持った田舎といってよい土地だった。山奥というほどではないが、子供の足で家から五分も歩けば川があり、山の緑も間近に見え、神社は深い森を背負っていた。バスのロータリーをあわせ持つ二路線乗り入れ駅があるかと思えば、その向こうには田畑が広がっていた。土の道も健在で、空き地も多く、それらには力強く雑草がはびこっていた。雑草と言えどもかわいらしい花を咲かせるものもある。外来種がまだ少なかった時代だから、昔からよく生える草の名は、特に女性ならよく知っていた。祖母に名前を聞きながら春の七草を摘んで歩いたこともある。名前を知ればさらに好きになる。それは植物でも人でも同じだ。家の前の小さな花壇にも季節ごとに鮮やかな花が咲いた。春の訪れを知らせてくれる沈丁花の香り、日増しに強くなる日差しに負けじと咲き誇る牡丹、雨に潤う紫陽花、太陽になろうとする向日葵。秋が深まるにつれて膨らむ期待をよそに実りのない柿の木もあった。私は毎年、牡丹の絵を描くことに決めていた。
さて、生け花を習いたいと言っても問題は手段だ。小中学校に華道部はなかった。そうなると、教室があるかどうかだ。これが田舎なら昔ながらの茶華道の先生は見つけやすかったと思うが、その頃私が住んでいた新興住宅地ではそうもいかない。今なら、文化教室で好きな習い事が選べるのだが、昭和40年代、そういったシステムもまだなかったように思う。もしかしたらあったのかもしれないが子供にそんな情報は伝わってこなかった。
ところが!ところがだ!私が小学五年生のある日、学校だかどこかからかの帰り、自宅の階に上がろうとエレベーターを待っていた時それを見つけた。自治会掲示板に「生け花教室」と書いた張り紙があったのだ。同じ棟に住む人が翌月から自宅で教室を開くというのだ。なんと言うタイミングだ。私はさっそく母に願い出た。校区内の集会所では子供を対象にお習字やそろばんの教室が開かれていて、友達も何がしかの習い事をしていたようだが、私は特になんとも思わなかった。しかし、こればかりは逃すことはできない。ませていると言われるかもしれないが、ずっと小さい頃から思い描いていたことなのだ。
習いたいのなら自分でコンタクトを取って来いという意味のことを言われ、私は先生のお宅を訪ね、まずは「小学生でも習えますか?」と尋ねた。ずいぶん後になって聞いたことだが、その時先生は受け入れてくれたものの、どうやって教えたものか思案したそうだ。お稽古日と時間、お月謝など基本情報をメモして帰り、母に報告した。当時、我が家に子供の習い事をさせる余裕があったのかどうかわからないが、私が初めて習いたいと言ったことだったし、母自身も流派は違うが経験があり道具を持っていたことから許してくれたのだと思う。高校生の間に師範免許を取るまでになったが、仕事などの事情で十年ほどでお稽古に通うのは止めた。習い始めの頃、先輩である叔母から一通の手紙が届いた。そこには、お稽古に行った時の先生への挨拶の仕方が幾通りも書いてあった。私は最後までその通りの挨拶をし続けた。
私はこれで叔母の通った道の二本をたどったことになった。
私と叔母は顔つきもよく似ていると言われていた。髪の色が茶色がかっているところも同じだった。当時は大人でも髪を染めるような人はほとんどなく、私達の髪色はとても珍しかったから、その点でも姉妹のように見られたのだ。
しかし、ここは違うなと思う部分もやはりあった。
私は祖父から初孫としてかわいがってもらったと思うが、罰当たりなことに、その祖父のことはどうにも好きになれなかった。それは弟に対する冷たい接し方が一因だったと思う。それに、祖父は孫の私から見ても、自分勝手に生きて、家族から慕われているとは思えない人だった。父や叔父達の中でも年嵩の人達は、父親としての尊厳を認める態度を見せていたが、下の方の叔父は現実的な不満を祖父にぶつけることもあった。寺内貫太郎一家もびっくりの親子喧嘩を目の当たりにした記憶がある。
そんな祖父が亡くなった。葬儀は自宅で執り行なった。それは当時としてはごく普通のことだった。最後のお別れ、棺の蓋をかぶせようとした時、叔母は、「お父さん!」と一声叫んで棺に取りすがった。私はそれを見て、えっ?と思った。叔母にとっては父親との別れはやはり悲しいことだったのだ。私には理解できなかったけれど。
それから何十年かたって、私の父も亡くなった。死に目には会えなかった。取り乱すことなく見送った。私は身内の死に感情を動かされることがないのかもしれない。そういうところが、たぶん叔母とは違うのだろう。
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