第2話 祖母と叔父達とわたし

 私の育児をメインで担当することになった祖母は、今の私の年齢に近かったはずだ。自分が今、孫の育児を全面的にお願いしますと頼まれたら、色々な意味で考えただけでもぞっとする。おばあちゃんとして困ったときにちょっとお助けなら、かわいいかわいいですむというものだが、自分の子供と考えて厳しく接することも必要になる。よく祖母は引き受けてくれたものだ。自分が産んだのではないから産後の体力不足やストレスはなかっただろうが、五十年前の五十代女性は紛れもなくおばあちゃんだ。今で言うなら、六十代か七十代にも相当するのではないか。祖母は六人の子供を産んで二十年近くの間子育てをしてきたベテランだ。末娘が小学校に上がってから十年たっていなかったから育児感覚は鈍っていなかったかもしれない。にしてもだ!女性の出産年齢が現在よりずっと早かった時代に、そんな若いお母さんに伍して、祖母は孤軍奮闘したことだろう。

 こういう場合、おばあちゃんががんばればがんばるほど、母親との子育て方針に溝ができるものだ。母と祖母の間ではどうだったのだろうか。

 よくあるのは、おばあちゃんが自分の経験から古い子育てに固執して、嫁または娘と意見が対立するパターンだ。現代は育児情報が常に更新されて、それに振り回されているお母さんも少なくないことだろうが、それほどではないにしても、十年空けば事情は大きく変わっていても不思議ではない。折りしも、前出の未熟児網膜症や森永ヒ素ミルク事件、サリドマイド禍など、幼い子供を守るためのもので逆に危険にさらされる事件事故報道が絶えない時代だったわけであるし。


 そんな中にあって祖母の育児方針は、実は新し過ぎる面もあったようだ。

 昔から、保険所では育児に関する様々な相談会、講習会などが行われている。情報のソース元は隣保の回覧板か何かだろうが、祖母は、保険所で離乳食の講習会が行われることを知って参加した。古い経験だけではなく、私は新しいことも取り入れる柔らかい頭を持っているのよ、と言わんばかりに。今なら、こういう名目の講習は「作ってみよう!はじめての離乳食」的なネーミングで基礎の基礎から教えてくれそうなものだが、昔のそれは、基本のところはわかっているものとした、少し高度なものへのチャレンジ内容だったようだ。

 主材料はひき肉だったらしい。おそらくは牛肉だ。どんな調理方法だったか詳しくは聞いていないが、私の持てる知識で想像するに、これは離乳食期の中でも色々な食材に慣れてきた頃に食べさせる上級メニューだったろう。それを生後六ヶ月にいきなり食べさせてしまったらどうなるか。上だろうが下だろうが、食べた物以上に出すものを出し切ろうと体が反応する。きっと、高熱も出たことだろう。元未熟児としては、もうヘロヘロだ。仮にも母は看護婦、顛末を聞いて激怒したに違いない。しかし、だからと言ってどうするわけにもいかない。これはずっと後になって、私が出産を経験してから、母に恨みをこめて聞かされたエピソードだ。


 さて、スタートダッシュでやや出遅れた私だが、比較的元気で標準的な体躯に育っていった。それは大人ばかりの大所帯で食が進んだからかもしれない。

 食事時はとにかく賑やかだった。叔父達は夕食時にいつもビールを飲んだ。麒麟ビールのビンが何本か立っていたのを覚えている。おぜんが小さかったからかもしれないが、溢れんばかりの皿が並んだ。それも仕方がない。何しろ人数が人数だ。何を食べていたのだろうか。貧乏だったことには違いないのだが、どうも肉料理が頻繁に出ていたように思う。おそらくそれは、魚だと銘々の皿に一切れずつ盛り付ける必要がある。そうすると人数分必要になるわけだ。しかし、肉料理なら大皿に出して小皿に取ればよかった。そして、漬物があればご飯が食べられるのだ。私は肉類があまり好きではなかった。それはもしかしたら、生後間もない時期の離乳食事件が尾を引いていたのかもしれなかったが、あの頃は肉嫌いへの秘密兵器があった。鯨だ。私も鯨の肉なら好きで、祖母はよく、少し厚めに切った鯨の赤身に薄い衣をつけてフライパンで焼いてくれた。

 私は祖父母にとっては初孫だったし、叔父叔母みんなにかわいがられたと思う。一人ずつ順に私を連れて出かけてくれた。

 小さい頃のアルバムに、冬の海岸で石遊びをする私の写真がある。誰かが連れて行ってくれたのだ。関西屈指の海水浴場で、夏の賑わいはまさに芋の子を洗うという比喩がぴったりな海岸なのだが、シーズンオフは静かだ。訪れる人も少ないし、波も穏やかだ。となると考える。連れて行ってくれた叔父にはデートする相手がいなかったのだろうか。私でよかったのだろうかと。

 スクーターにもよく乗せてもらった。本当は違反なのだが、運転する叔父の足の間に私が立たされていたのだ。図太い私はその姿勢で居眠りをしていたこともあるらしい。

 近所のレストランに頼まれて、一人の叔父が店の前のビニールシートに絵を描きに行くというので付いて行ったことがある。少しはげかけた元の絵をヘラのようなものでこそげ落とし、その後、ペンキを含ませた刷毛で私の体と同じくらいの大きさの動物の絵を描いていくのだ。何の下書きもなく、デフォルメされたリスなどができ上がったのは驚きだった。その時言葉を知っていたら、これがプロだ!と思っただろう。

 少し大きくなって、山登りに行ったこともある。その時には弟もいて、叔父と三人だった。川で魚を釣り、川原で焚き火をして焼いて食べた。ワイルドな経験だった。

 みんな揃って、ダム湖に泳ぎに行ったこともある。ここも、近隣では有名なレジャースポットなのだ。浮き輪ではなく、その辺に浮いていた発泡スチロールの塊につかまって泳ぐ私の写真がある。浮き輪は小さい従弟妹達用で数が足らなくなったのだろう。しかし、仮にもダム湖だ。誰も危険だとは思わなかったのだろうか。今なら、少なくとも子供にはライフジャケットが義務付けられるのではないだろうか。小さい従弟妹達がいるということで、この時には叔父の何人かが結婚しているのがわかる。同行する大人の女性が叔母一人ではないのだ。みな露出度が少なく、スタイルがイマイチに見える水着着用だ。お花畑のようなスイムキャップをかぶっている人もいる。生きた昭和の服装史だ。

 冬には叔父たちはよくスキーに行った。しかし、それには私は連れて行ってもらえなかった。代わりにというわけではないが、アイススケートには連れて行ってもらった。山の中にある屋外のリンクだ。私はそこで滑り方を覚えた。札幌オリンピックはまだまだ先という年代だから、華やかなフィギュアスケートなど知らない。ただただ、グルグル滑るばかりだが楽しかったなあ。夜に行ったことも何度かある。雪が降ってきて照明にキラキラする中を滑るのは夢見心地だった。乙女な思い出だ。

 隣の家に一つ年下の女の子がいて、仲良くしていた。その子が三輪車を買ってもらった時、私は、あれれ?と思った。三輪車とはこういう物だったのだと。その子の三輪車はハンドルのグリップが白いビニールでできていて、先から何色かのビニールの細いテープが垂れていた。サドルは白だかピンクだかで女の子らしい絵が描いてあり、全体にかわいい!が感じられた。私も三輪車は持っていたが、その子のと比べると少し大きくて何となく無骨な感じがする物だった。全体に鉄むき出しな感じでサビサビだったのをきれいにして、新聞紙を敷いた上で赤のスプレー塗料を塗っていた現場を見ている。つまり、お下がりなのだ。誰の物だったかは知らないけれど、かなり年季が入っていた。私は祖父母には初孫なのだけど、三輪車を始め、意外と新しい物は用意してもらってはいない。だからって文句を言うわけではない、聞き分けのよい子だった。

 小学校に上がる時、さすがにランドセルは新品を買ってもらった。しかし、絵の具箱はこれまた誰の物だったかわからない木製の骨董品が登場した。そして、またまた伝家の宝刀?新聞紙とスプレー塗料だ。今回はピンクにお化粧された。中身の筆と絵の具は買ってもらった。絵の具は値段が安いのにパレット付きだったからギターペイントになった。学校へ持って行く物ではないが、勉強机も高校を卒業したばかりの叔母のお下がりだった。今なら、持ち物でいじめられたりするのだろうか。私は恰好のターゲットになっただろう。あの時代でよかった。みんな程よく貧乏だったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る