小学二年生まで親子別居という育ち方

カミノアタリ

第1話 生後一ヶ月で親子別居

 東京オリンピックを二年後に控えた1962年、私は生まれた。当時、両親はそろって大阪に住んでいたが、私は兵庫県の父の実家から見える産婦人科で、古い言い回しだが、産声を上げた。2500グラムというギリ未熟児枠だったが、無呼吸で生まれたとは聞いていないので、おぎゃあと泣いたはずだ。ちょうどその辺りの年代に生まれた未熟児で保育器に入れられた赤ん坊の中には、未熟児網膜症という視力障害を負うことになった人もあるということだが、私の場合は、寒い季節ではないからまあいいか?という、田舎のおおらかな病院の方針で、その危険に陥ることは免れた。私のアルバムには、母と共に入院していた病室の外に泊まる燕の写真がある。そんな季節だった。

 よくあるパターンでは、産後しばらくは母方の実家で母子は過ごす。私も一人娘を産んだ時はそうした。実家なのになぜか居心地が悪く、早く自分の家に帰りたいと思ったものだ。

母がそういう風にしたという話は聞いたことがない。そして今更聞けない。わかっていることは、母は一か月足らずで職場復帰したということだ。母は看護婦(ほぼ女性しかいなかったから当時はそう呼んだ)だった。母が勤めていたのは公立の大きな病院だったから、入院設備もあり、そうなると当然のことながら看護婦には夜勤シフトもあった。そのため、病院内に託児所もあり、当時まだ数少なかった職業婦人(結婚して仕事を持つ女性はこう呼ばれた)にとっては恵まれた環境だったかも知れない。

 育休という制度が存在しない時代で、母が数週間の産休を取っただけで仕事を再開したとなると、私がどういう扱いを受けたかは誰でもこう考えるはずだ。母と共に出勤し、母が仕事の時間は病院内に併設の託児所に連れて行かれたのだろうと。

ところが、私は全く違う経験をする。

私は、生まれた病院からほど近い父の実家で数年間居候することになる。ならば両親も同居し、母はそこから仕事に通ったのかということだが、それも違う。両親は早々に、自分達の元々の住まいである大阪に戻って行った。私を祖母に託して。おいおい、ネグレクトかよ?そう突っ込みたくもなる。誰がそうしようと言い出したのかは聞いたこともない。しかし、そうするしかなかった理由を、私はかなり小さい内に理解していた。


 一つには、母が仕事を辞められる状況になかったこと。つまり経済的理由だ。

 父の実家は、その昔は、あ、この時点でかなり昔だがそのまた昔は、かなり裕福な家庭だったらしい。遡れば江戸時代、刃傷松の廊下でお馴染みの播州浅野家の御殿医をご先祖様に持つという。こういった話はよくあるもので、代々語り継がれてはいるものの確かなことはわからない。日本各地にこういった家系は何万とあるだろう。しかしここは、一応、由緒ある家系の末裔としておこう。時代の転機は数々あり、それを乗り越えてもなお、そこそこの財力のある家庭だったようだ。長子である父が十代半ばを過ぎる頃までは。

 父が高校を卒業し、大学進学という時だった。祖父が家出した。女だな、という声が聞こえて来そうな気がする。これもまた、実際はどうだかわからないが、父から聞いた話では、「勉強したい」というのがその理由だったそうだ。おそらくその時点で祖父の収入は途絶えたのだろう。子供が大学で勉強しようとする時に、親が取って代わって子供の将来をぶち壊した格好だ。おじいちゃん、ごめん!口の悪い孫をしばし見逃してちょうだい。

父も自分一人のことなら奨学金とか何かの手段で大学進学を考えなくもなかっただろうが、自分の下には五人の弟妹がいる。当然のことながら全員学生だ。しかも一人二人は私立の中高生だったのだ。父は合格していた大学への進学をあきらめ、就職することにした。母親を含む家族が生活できるように。

 祖父は元々、薬剤師の資格を持った人だったようだ。家には薬の材料や調合道具が揃っていたのは私も知っていた。小学校入学前から、私は分銅や上皿天秤の扱い方を見よう見まねで覚えていたくらいだ。そんな祖父が、どうしようもないタイミングで勉強したいと言い出したのは易学だったのではないか。実は、私の名前も祖父がジャラジャラいわせて付けたものだ。易者としての祖父の力量はよくわからないが、少なくとも私は、自分の名前について、有り触れてはいるけれど嫌いではないと思っているし、これまでの人生でどん底を経験したこともない。もしかしたらそれは名前のパワーなのかも知れない。しかし、思う。易学の勉強くらい、家に居たってできただろう。薬剤師なのだから、仕事をしながら合間にというわけにはいかなかったのか。実践が必要ということなら、夜は辻に立てば、いや、座ればよいのだ。ああ、やっぱり、女だな、と言いたい人はもう好きに言ってくれても構わない。

 やがて祖父は帰郷する。

 戻ってきた当時の祖父がどんな様子だったのかは私は知らない。それが何年後だったのかも知らない。私が物心ついたときには、祖父は時々帰ってくる人になっていた。家にいない時はどこかの街で易者として客を待っていたのだろう。最近は易者という職業の人を見かけることはまずない。占い館のような場所には、もしかしたら枠があるのかもしれないし、売れっ子占い師という人もいるだろうが。かつて、まだ易者を夕暮れの街で見かけることがあった時代も、深刻そうな顔の客がそばに列を作って待つ光景もあれば、誰一人寄り付かないばかりか存在さえも認識されていないこともあったはずだ。私が最近は見かけないというのも、実はいないわけではないけれど、私の意識に入ってきていないだけなのかも知れない。さて、祖父はどうだったのか。実際、仕事をしている姿を見たことはないが、不定期に帰ってくるようになって生活が好転したわけではなかったから、どちらの部類かはわかる。

 つまりは、祖父が帰って来ようが、父が家族の面倒を見なければならない状況は何も変わらなかったということだ。弟たちは順に学校を卒業し、社会に出て行ったとしてもだ。

 そんな中で父は母と結婚した。

 一年後、私が生まれる。家族三人の生活なら父の収入だけでもやっていけなくはなかったかもしれないが、父は長男としての立場を優位に置いたということだ。年老いていくばかりの両親を、社会に出て間もない弟達と共に支えていかなければならず、末の妹をいずれ嫁がせなければならない責任もあった。母は母で、結婚の時点で、祖父からは看護婦という仕事を理由に反対された経緯があったから、自分が仕事をしていることであなた達の生活が成り立っているのだということを思い知らせたかったのではないかと思う。

 私と、四年後に生まれる弟が祖母に託されることになったことには、もう一つ大きな理由がある。それは住環境だ。

両親が結婚当初から住んでいたのは、大阪の中心部に近い私鉄沿線の駅から目と鼻の先のアパートだった。いや、下宿に毛が生えたという方が近い。私も何度か泊まりに行ったことがある。そもそも、この表現が親子の間ではおかしいのだが、仕方がない。

 大家さん家族が一階に住み、二階に居室と共用のトイレと洗面台があって四、五世帯に貸していた。一室がどれも同じ広さだったのかどうかはわからないが、両親の居室は六畳ほどの一間に簡単な調理ができる狭い炊事場がついていた。タイル張りの流しの横に一口コンロが置いてあったのを覚えている。どうやって運び込んだのだろうと思うベッドが畳の間の半分ほどを占めていて、体の良い万年床となっていた。ちょうど私が生まれた頃に父は転職して家具屋に勤めるようになった。そんなこともあって不釣り合いなベッドが置かれていたのだと思う。残りのスペースにこたつが置かれ、それが食事用のテーブルとなる。細い幅の洋箪笥と水屋もあった。壁に造り付けの棚があって本やらなんだかんだ細々とした物の置き場になっていた。そして一間の押入れがついていたと思う。季節物はそこにしまってあったはずだ。思い出すごとにどんどん窮屈になる部屋だ。私や弟が泊まりに行くと、わずかに残った畳の見えるスペースに布団を敷き詰めて、足はこたつに突っ込んで寝た。

 ここまでくればもうおわかりだろうが、そこは家族四人が生活できる場ではなかった。普通はそういう場合、引っ越しを考える。しかし、引っ越しにもお金が必要だ。広い間取りとなれば家賃も上がる。不可能だった。


 では別の方向から考えてみよう。

 父の実家に移り住めないかということだ。そこは広いバス通りから路地を入った奥に数件並ぶ平屋の借家の内の一件だった。隣近所と比べると一番広い家だったが、何しろ住んでいる人数が半端ではない。何度か出ているが、父の下には弟妹合わせて五人いる。

 父のすぐ下の弟である叔父の結婚式の写真に、二、三才の頃の私が写っている。つまり、私が生まれたときにはその叔父を初め父の弟妹は全員一つ屋根の下に暮らしていたのだ。祖母と、時々帰ってくる祖父も加わる。

 間取りはこうだ。

 畳の部屋が二間あった。一つは八畳くらいだったろうか。もう一つが四畳半。窓際に板の間があってミシンや、まだ高校生だった叔母の学習机が置いてあった。他には、叔父の一人が印刷業を営んでいたので印刷機も二台ほどあり、いつもインクの臭いがした。台所の手前にも狭い板の間があって整理箪笥と洋箪笥が収まっていた。箪笥の上に置かれた戸棚の一部に調剤薬や道具が入っていた。お世辞にも衛生的だったとは言えない。台所からあぶれ出た冷蔵庫もそこに並んでいた。その板の間からかなりの段差を降りた所に台所があった。壁際に石の流し台があって、排水は家の裏にある溝に直接流しだされていた。下水の設備はなかった。流しの隣の台にガス炊飯器と調理用のコンロが置かれ、プロパンのタンクにつながっていた。いかにも田舎の昭和仕様だ。椅子を使う高さのテーブルが一つあって、その上には醤油などの調味料や漬物、食べ残した煮物の鍋などが常に置きっぱなしになっていた。それなのに、家の裏に水場があることも原因となって、台所でハエを見ない日はなかった。ネズミもいた。祖母は時折ネズミ捕りのかごを仕掛け、捕まったネズミをかごごと水に沈めて殺すために少し深いドブのある裏道に出かけて行った。私もついて行ったことがある。今ならゲッ!と思うことだが当時はごく普通のことだった。

 普通ではないことがこの家にはあった。その不衛生極まりない台所の奥に木製の扉が一つあった。開けると暗幕が張られたその小部屋には変な色の電燈がつけられていて、子供は入ってはいけないと言われていた。写真現像用の暗室だった。叔父たちが趣味とわずかな実益を兼ねて写真加工の技術を身に着けていた。祖母も自分で写真現像ができた人だったという。こういうところで、元はそこそこ裕福な家庭だったことが伺える。とにかく不思議な家だった。とことん貧乏しているのに、普通の家にはあるわけないものが存在する。そしてそれが居住スペースを圧迫することにもなっていた。

 長々と説明をしてきたが、これでおわかりいただけただろう。

 祖父は常時いるわけではないから0.5人としても、この家には、すでに6.5人の大人が暮していたのだ。あと二人大人が寝起きできるスペースがあるだろうか。しかも単に大人が二人というわけではない。二人は結婚してやっと一年を過ぎたばかりの夫婦なのだ。さらに言えば、計算上0.5人とした祖父は、帰って来れば四畳半一間を一人で占領した。明治生まれの家長の威厳だ。仏壇もその部屋にあったから、何人いるかわからないご先祖様と同室と言われそうだか、どう考えてもそれは屁理屈だった。

 かくして、6.5+2人の大人達が考え出したのが、赤ん坊一人くらいのスペースは作れるだろうということだったに違いない。


 子供がなんらかの理由で親と離れなければならない時、子供は泣いて親にすがるものと決まっている。しかし、私にとっての初めての別離経験は、言葉がしゃべれないのはもちろんのこと、その場で何が起きているかさえわからない、生後一ヶ月かそこらの時だ。両親にしてみれば、気持ち的には楽だったのはないか?

 いやいや、親の心、子知らず…

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