第5話 母とわたし
母親と子供、特に娘との関係というのは、一般的にかなり深いつながりがあるものだと思う。私にしても、父親との関係と比べるとそりゃあいくらかは母寄りなのだろう。しかし、一卵性親子などという言葉に置き換えられるようなべったり加減は、私達の間には存在しない。他人行儀と言ってもよい、言うなれば、ギブ・アンド・テイクだと思う。
どうしてそうなったのかと言うと、それはもう、幼少期に一緒に暮らしていないから、その一言に尽きる。母の後を追いかけまわした記憶もなければ、そばにいないことを寂しいと泣いたことなどない。少なくとも私の頭はそういう風に成長してきたのだ。しかし、どうしたものか、私の体は少し違った反応をした。頭が私そのものだとすると、ご主人様に逆らって、となる。そうではなく、頭は体の中のほんの一部と考えるなら、反抗していたのは頭の方だ。
私は、未熟児で生まれたわけだが、比較的元気に育った方だと思う。偏食は少しあったが、食が細いわけではなく、近所の友達と走り回って遊んだ。本を読むのは好きだったが、行動的でもあった。実際、幼稚園の一年目(現在多い三年保育なら年中に当たる)は皆勤賞だった。しかし翌年、それは崩れた。夏のある日、私は熱を出した。子供心にも、これで休めば皆勤が途切れるというのはわかっていて、とにかく幼稚園に行かなくてはという気持ちが働いた。
私の通っていた幼稚園は公立で、小学校と地続きだったから、登園は小学校の集団登校と同じグループで行動した。親が徒歩や車で送り迎えするでもなく、通園バスなどもちろんない。小学校の生徒と一緒だったから、幼稚園としては時間的に早すぎる登園だったが、親にしてみれば楽だったのではないかと思う。帰りは、先生方が、住まいの地域ごとにグループを作って自宅近くまで送り届けてくれた。
さて、熱を出した日の私は、さすがに集団登校には参加できなかったが、どうしても行くと言い張った私を納得させようと、祖母が付いて来てくれたのだった。小学校と一緒になった門から入り、運動場を教室に向かってふらふらした足取りで進んでくる私を見つけた先生が外に出てきた。祖母が事情を説明すると、先生は、お帳面に貼るシールあげるから今日はこのまま帰りなさいと言った。お帳面とは園児各自が持つ出席ノートで、中身はカレンダーになっていて、出席した日にシールを貼ってもらえる。先生にその日の分のシールをもらった私は、回れ右をして、来た道をまたふらふらと戻って行ったのだ。
その日の発熱は水疱瘡によるものだった。子供が順にかかる病気の代表選手だ。体の強い弱いには関係ない。通り過ぎればまた元気な子供に戻る、はずだった。
水疱瘡にかかった翌月、私はまた体調を崩した。どんなふうにだったかははっきり覚えていない。おそらく風邪のような症状だったとは思う。なぜそう思うのかと言うと、与えられた病名が「ぜんそく」だったからだ。発作が出ると、喉をヒューヒューいわせて、このまま止らないのではないかというくらい咳が続く。特に、寝ようとすると咳が出るのだ。安静にして体力を蓄えることが必要なのに寝かせてもらえない。なんて理不尽な病気だ。ぜんそく経験者は皆、私と同じ気持ちだろう。
病名、病状にかかわらず、子供が病気になったときは大人が面倒を見てくれるものだ。私の場合はどうか。その役目は誰が負ってくれるのか。常に一緒の祖母だ。祖母が病院に連れて行き、学校へ連絡し、家で見守るのだ。これは、働く母親にとってはありがたいことだ。しかし、重くもあったはずだ。仕事柄、月ごとのシフトが組まれてしまうと、おいそれと休みを取ることができない母は、境遇を恨んだことだろう。母の恨み節とは裏腹に、私は月に一度くらいの頻度でぜんそくの発作が出て毎月数日幼稚園を休む子供になった。
小学校に上がってからの私には、それまでと違った症状が追加された。背中の痛みだった。大人達はその原因が何であるのか考えた。始まった時期を考えると、小学生になって変わったことを思い浮かべればよいわけだ。たどり着いたのは「ランドセル」だった。今や、収納力、軽量化、ファッション性と、日進月歩のランドセルだが、当時は丈夫が大前提、今より教科書が小さいから入れ物も大きくないはずなのに、とにかく重く硬かった。この荷物を背負うことで首肩背中に負担がかかって、発作の時に痛みとなって現れるのではないか。
当時の小学生は現在ほどランドセル依存率が高くないが、低学年の間はランドセルが当り前、高学年になって徐々に手提げかばんに移行していったものだ。一年生でランドセルを持たないなんて、生意気だといじめられても仕方がなかったが、正に背に腹は代えられない。先生に事情を話して、私は三ヶ月でランドセルを卒業した。勿体無い話だ。昔だってランドセルは高額だったはずだから。私のランドセルは数年放置され、その後、弟と同い年の従妹が使うことになった。
ランドセルを使わなくなった私はどうなったのだろう。幸い、背中の痛みはなくなった。大人達の考えは間違っていなかったのだ。しかし、根本的な問題であるぜんそくがなくなったわけではない。それは数年間私を苦しめることになった。
数年間、区切りが付いているということは今は治っているのだ。ぜんそくは成長のチェックポイントで治ることがある。一般的には幼児の間に発症すれば、第二次成長期がそれに当たるそうだ。要するに毛が生える時期だ。また、生活環境が変化した時もオプションとして作用する場合がある。
私の場合は、そのオプションが終息時期になった。引越しだ。それもただの移動だけではない。家族四人が一緒に暮らせる家に引越しすることになったのだ。最大級の環境変化だ。普通なら大喜びしてよいはずだ。しかし、やはり私の頭は冷めていた。私がうれしかったのは引っ越し先が大阪だったこと、新築の団地に住めることだった。家に風呂がある。家の中にトイレがある。新しい家具を見て、お金持ちになったかの錯覚も覚えた。学校も木造校舎など一棟もない、トイレは水洗だ。
やたらトイレにこだわるのには理由がある。祖母達と暮らした田舎の家は、長屋の数軒で共同使用するトイレが家の外にあったからだ。当然汲み取り式、電灯などついていない。それどころか便器もない。幸い、個室の扉はついていたが、地面より四、五〇センチ上の床板に四角く穴を開けただけのものだった。つまり、夜暗くなってから入ろうものなら、手探り、いや、足探りで床に空いた穴を避けて足を下ろさなければならない。目が慣れてくると見たくないものがよく見えてくるという具合だ。前も後ろもない。大工だった隣のおじさんが建てたのだと聞いていた。
こんな風に、あまりにもハード面の変化が大きく、両親と一緒に暮らせるということは私にとって二の次だったのだ。
ところが、私の体は違った反応をした。ぜんそくが治ったのだ。体は喜んでいたのか。親に十分かまってもらえない子供がぜんそくになりやすいと聞いたことがある。実際、両親の共働きなどを理由に保育園に通う児童にはぜんそくの子が多いように思う。補足をしておくが、「かまってもらえない」とは、あくまで実際手を取って何かをしてやる時間が少ないという意味で、愛情が薄いという意味では断じてない。
私の両親にしてもそうなのだ。一緒にいないのだから、何かをしてやりたくても何もできない。話すら頻繁にはできない。それでも無理して会いに来てくれた。母にとっては本当に無理を強いられたのだと思う。おそらく、祖父母からは子供が病気なのにそばにいないなどと謗られたのではないかと思う。私のせいで、申し訳ない。ほら、こういうところが普通の親子ではないのだ。
しかしながら、母が私に対して時間のない中あれこれ構おうとしてくれたのは、子供に対する愛情一本(ドリンク剤ではない)から出た行動ではない。と、私も勘付いていた。当時そんな言葉はなかったが、ネグレクトではないアピールもあったはずだ。それは主に祖母に対してだろうが、私自身に対してもそんな気持ちがなかったわけではないと思う。腹の探り合いだ。
母は、私が小さい頃には、ぜんそくになったのは田舎の気候のせいだと言っていたような気がする。しかし、私が大人になった時、親と一緒に暮らしていない環境がぜんそくの原因だったと思うと何かの拍子に口をついて出た。母は看護師だ。家庭環境が子供のアレルギー症状に関係があると言われていることくらいずいぶん前から知っていたはずだ。私でさえそれまでに聞いたことはあったし、自分もそうなのだろうと思っていた。ただ、自分からそれを口にしたことは一度もない。その前に母が認める発言をしてくれてよかった。母に気を使っていたのではない。自分が悪者にならなくてよかったという意味だ。私はさらっと聞き流した振りをして記憶にとどめた。
母も父と同様にきょうだいが多い。そしてその長子なのだ。母の両親は揃って働き者で、自分勝手な希望で家出などする人達ではない。祖父は書店を経営しており、主に雑誌と古書、貸本を扱っていた。所謂、高度経済成長期には祖父母の子供たち、つまり私の叔父叔母は順に仕事を持ち、生活は安定して行ったのだと思うが、戦中戦後の暮らしは庶民にとって楽であったはずがない。戦後の闇市には母も子供ながらタバコなどのわずかな品物を持ち込み、違法な商売を余儀なくされたと聞いている。苦しい時代を家族で切り抜けてきたから、皆、お金を大事に使う人達だと思う。ことさら、母は弟妹のためにという気持ちが強く、自己犠牲を強いていたに違いない。
母は、夜間高校在学中に看護学校への進学を決めたようだ。どっちが得か考えたと母は言っていた。アルバイトをしながらでも高校を普通に卒業して就職する道と、卒業後の進路が確約されている看護学校で勉強すること。看護学校は、今は入学がとてつもなく難しい。そして、学校によっては目をむく様な授業料が必要だ。しかし、母の時代はおそらくそうではなかっただろう。なぜそう考えるかというと、いくら将来の職が保証されている学校と言えど、親に学費の心配をさせてまで進学したいと母が言い出すわけがないからだ。母の選んだ看護学校は国立であったから、高校の授業料より安かったのではないかと思う。そして、看護婦はいくらでも欲しい世の中であったと思う。それなら門戸は広いはずだ。また、祖父には蔑まれたほどの職業にはあまりお金持ちのお嬢様は就こうとしないだろう。それならば貧乏人にも払える学費でなければ誰も入学できないし、看護婦にもなれない。そんなわけで母は看護学校で勉学の後、国家試験にも合格し、晴れて看護婦となった。
しかし、母は中卒だからその資格は准看護婦となる。准と正の差は大きい。勤続年数が長くとも新しく入った正看護婦より待遇は下になる。負けず嫌いの母は、働きながら夜間高校の卒業資格を得、晴れて晴れて正看護婦となった。私にはまねできないことをいくつも成し遂げた人だ。
母と幼少期の私との数少ないエピソード(思い出というほどには思い入れがないので)を絞り出してみようと思う。
定番だがこれは外せない。小学校の入学式だ。式典がどんなものだったか、教室がどんな様子だったか、そういったことは正直一切覚えていない。記憶にあるのはすべてが終わって家に帰ろうとしたときのことだ。天気がよく、桜が咲いていたのは覚えている。幼稚園に入る前から友達だった男の子とそのお母さん、私と母、四人で並んで歩いてた。最近のように、両親、きょうだい、果てはジジババまで入学式に勢揃いではない時代だ。入学する当人と母親の組み合わせで出席するのがごく普通の形だった。友達親子は手を繋いで歩いていた。その姿は自然だった。きっと一緒に歩く時はいつもそうしていた親子だったのだろう。二人を包む空気があまりにも自然だったからだろう、そうするのが普通なのだな、と思ってしまった。むしろ、そうしなければならない、と思い込んでしまったのだ。そして、私は行動を起こした。母の手に自分の手を伸ばした。次の瞬間、後悔した。「何してるの」という声とともに母は私の手を払ったのだ。私は恥ずかしいことをしてしまったという気持ちでいっぱいになった。ここがまたおかしいところだ。普通の子供は、ここは悲しくなるところなのだ。ママが手を繋いでくれなかった。涙をためてもよいシチュエーションだ。ところが私は恥ずかしさで体が火照るほどだった。不覚にも子供じみたことをしたと思ったのだ。十分子供のくせに。母にしても、仲良し親子を演じるのが性に合わず、照れ隠しの反応だったのだろうということはわかる。しかし、同じ照れ隠しでも、例えば、骨が折れるほど強く私の手を握って早足で歩き始めててもよかったはずだ。親子共々不器用者だ。その場から逃げ出したい私に更に追い打ちをかけたのは、息子といつものように自然に手を繋いでゆったり歩いていたその子のお母さんだ。
「いいやないの、こんな日くらい。」
私に助け舟を出したつもりだったのだろうが、それは泥舟だった。いや、一見聞こえがよかったことを思うと、すぐに溶ける砂糖でできた白鳥ボートだったかもしれない。どちらにしても私に逃げ場はなかった。ねっとりした蜜がまとわりついて身動きができなくなっていた。羞恥の極みだった。何がそんなに恥ずかしかったのかというと、親に手を繋いでもらおうとするような、子供っぽいところをさらけ出してしまったからだ。手を繋いでもらおうとしたかもしれないが、手を繋いでほしかったわけではない。しかし、普通の大人には子供はそんな風に見えない。私はかわいそうな子供になってしまった。更に言うなら、その現場を友達にまで見られてしまった。最悪の入学式だ。私の小学校の入学式の思い出はこれしかない。
母の体型はやや小太りと言ってよかった。結婚した時はそうでもなかったらしいが、私を産み、妊娠中の体型が戻らないまま弟を産み、それが定着したのだ。昔はそういう母親が多かったのではないか。特に母はハードな仕事があり、余計なことは考えられなかっただろうし。しかし、その仕事故に機敏に動くことはできた。母は勉強など全く教えてはくれなかったが、私に一度だけ教えてくれたことがあるのは鉄棒だった。鉄棒の上に上半身を乗せることさえできないだろうと思えたのに、軽々と片足を上げ、足掛け周りをやってみせた。意外だった。そう言えば、学生時代は9人制のバレーボールの選手だったと言ってたような。
母と父との違いを一言で言えと言われれば簡単だった。お金を掛けるか掛けないかだ。これは生い立ちからくるものかもしれない。父がお坊ちゃん育ちなのに対して母は体が資本の商売人の家庭で育った。お金の有難みは骨身に染み付いている人だったと思う。子供に対しても、父がお金を掛けて名の通った品を与えようとするのに対して、母はタダ同然の残り物、不用品をなんとか使えないかと知恵を絞った人だ。
わかりやすいのはお下がりの衣類だ。私は一人目の子供でどちらの家に対しても初孫で、従弟妹達は全員私より年下だ。いったいどこからお下がりを調達していたのだろう。職場の友達など独自のネットワークがあったと思われる。
おもちゃにしてもそうだ。おもちゃという言葉から連想するのは、人形だったり、ままごと道具だったりで、おもちゃ屋に売っていて名前と実物が合致するもののはずだ。しかし、母が私に与えた物は違っていた。両親が大阪で住んでいる部屋の隣には女性が一人で暮らしていた。寝起きをしていただけではなく、そこは洋裁業の仕事場でもあった。母はその人から、捨てるのであればと余り生地をもらってきたのだ。端切れと言っても大小さまざまでうまくすれば袋物くらい作れる大きさのものもあった。見よう見まねで針と糸を持ち、私が生まれて初めて裁縫をしたのは小学校2年生。ハーモニカの袋を作った。グレー地に薄紫の奇妙な雫のような柄のプリント生地だった。後にそれがペイズリーと呼ばれる柄だとわかった。さすがにオーダーの婦人服生地は小学生の持ち物には渋かった。しかし、その端切れとの出会いが私の人生にどれだけ大きな物をもたらしたか。服地全般に興味を持ち、当時のお気に入りのワンピースの生地の風合いを大人になっても覚えていて、何年も後になってその生地の正式名称を知ることにもなった。手芸はずっと私の趣味であり、高校を卒業した私は本格的な洋裁の勉強をするべく洋裁学校へ進んだ。母には四大ではなくともせめて短大にでも進学してくれと言われたが私の気持ちは堅かった。そして、現在もパタンナーという服飾にかかわる仕事を続けている。母のことだから多少のお礼はしたかも知れないが、ごみ収集の如くただでもらった端切れが私の人生を決めたことになる。コスパのよい育て方をしたものだ。しかしそれは、父とのバランスがあって成立したことかもしれないが。
結婚することが決まった時、祖母には「男の人に頼って生きる」ことを勧められたが、祖母の時代には極普通だったことが私には理解できなかった。中学校の先生に問われた「職業婦人」となることを母と同じく私も選択し、母よりも長くそれを続けている。母の時代には家庭に入った女性が仕事をすることは、家庭を切り盛りすることを前提に付属されたことで、家事子育ても手を抜くことは許されなかった。国立病院の看護婦という専門職であってもそれは同じだった。私の経験した、妻として母としての生活とは大きな違いかある。特に子育てに関しては。
母は二人の子供を産み、育てた。私の子供は娘が一人きりだ。そもそも人数が違う。私は常々考えるのだが、子供の数が増えるに当たって、一人から二人になる時が一番難しいのではないだろうか。二人に掛ける時間、気持ちをどう按分するか、それを子供側がどう感じるか。これが三人以上になると、経済的体力的には厳しいが不思議となんとかなると何人もの経験者に聞いたことがある。
母はしんどいとこを取ってしまったと思うが、幸い、私も弟も比較的良い子に育った。母の仕事仲間には子供が夜遊びを覚えてしまったというような話もあったという。弟はどうか知らないが、私はとてもではないけれどそんなことはできないと思っていた。私たちが別居を余儀なくされていた間、母がどんなに大変なことをしていたか知っていたからだ。
学校行事への参加、これは働く母にとって今も昔も重要課題だ。運動会などは早くから予定が知らされるから、休みの希望も出しやすいと思うし、勤め先も融通してくれる率が高い。しかし、月一程度の参観日や懇談会などはどうだろう。優遇しますという条件の雇用主ならいざ知らず、病院勤務となると都度休みを取るのは至難の業だろう。特にうちの場合は遠方なので午後から半休というわけにもいかない。仲間にシフトを代わってもらうとしても休みをくれというのはなかなか言い出しにくいものだ。そこで母は裏技を編み出した。自分が休みを欲しい日の前日の夜勤を欲しいと申し出る。夜勤を頂戴は言いやすい。頼まれた側も悪い気がしない。前日の夜勤をゲットした母は、夜勤明けの疲れ果てた体で二時間国鉄に揺られ、私の参観日に顔を出すのだ。考えただけでもぞっとする。しかし、こうでもしなければ、母親をアピールすることができなかったのだと思う。仕事を続けることを各方面に納得させることができなかったのだと思う。これで、私がその喜びを身体じゅうで表現していたら、母の疲れも吹き飛んだことだろうが、残念ながら私には、ああ、今日は来たのね、くらいの反応しかできなかった。
それはなぜか。この場でも私は、子供に見られるのが嫌だったのだ。大人に混じって物わかりよく、母を戦場へ送り出した。いや、母にはどちらも戦場だったに違いない。
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