第3話竜の女王の正しさ
一週間後、午前十時に再びハロワへ赴く。
新たに失業給付金を受けることなった人間への説明会だった。
会場はメインの建物の隣、プレハブの二階だ。鉄製の階段を上っていく。
アルミの引き戸を開けると、中は涼しかった。蒸し暑さにやられるんじゃないかと覚悟していたのだが、きちんとクーラーが効いていた。
定員七十二名とのことだが、席の七割は埋まっている。失業者の数は予想より多かった。男女比は半々、ほとんどは俺より年上だった。
初老の職員が現れ、丁寧な説明が行われた。
それによると、何にも貰えない三ヶ月の待機期間中も、三回はハロワを利用し、求職活動の実績を作らないと失業者として認定されないという。
実績の作り方は主に三つ。
職員に就職の相談をする。
ハロワ内に設置されている端末で情報を検索したあと、アンケートに答える。
もしくはビデオセミナーの類を見るだけだ。
就職の相談は面倒くさい。こちらには就職する気など無かったのだから。
端末を利用するのは楽だが、アンケートに答えるのも億劫だ。どうせ嘘を並べ立てることになる。
消去法で、俺はただ見るだけのビデオセミナーに参加することにしたいと考えた。
説明会が終わると、受給者票にスタンプを押してもらえた。
この説明会も求職活動一回とカウントされるという。
これでその日のお勤めは終わった。
次の週の初めにはビデオセミナーがあった。
毎週、月曜と火曜に行われているのだった。俺はそれに参加した。
会場のプレハブ二階は、この前と同じような顔ぶれが並んでいた。初老が多い。若い奴は、端末の閲覧のほうへ行くのが普通なのだろう。
ビデオセミナーの始まる前に、年配の職員がやってきて、「少し早いですが、ビデオを見ていただく前にお話があります」と切り出した。
現在、介護職員が大幅に不足しているので、職探しの際には介護職員という道にも興味を持ってもらいたい、というような話だった。
俺は素直に興味を持った。
俺が就けるような仕事は、どうせ低賃金の肉体労働だ。
同じ肉体労働なら、介護の道へ行ってもいい。
人手不足なら、俺みたいに何にもない男でも雇って貰える可能性があった。
「あさって、この場所で現役の介護職員さんを招いての福祉の仕事説明会があります。求職活動の実績にもなりますから、興味をお持ちの方は是非参加してください」
年配の職員は、そう話を締めくくると退室していった。
実績になるならいい。
三回は実績を作らなければならないのだし、あさってにも来てみよう。
それから主目的のビデオが上映された。NHKの教育番組を模して作られたような、『正しい面接の受け方』だった。
俺はそれなりに興味深く視聴した。
見てられないほどつまらないものではなかった。
ビデオが終わると、仮の受給者票にスタンプを押してもらい、外へ出る。
すでに蒸し暑い。
この気温だと、洗浄機の後ろではもう汗だくだろう。やっぱり仕事を辞めて正解だ。
今日はもう一つ用事があったので、メインの建物のほうへも向かう。
受付を済ませてしばらく待ち、自分の番が来ると、俺は受給者票に貼り付けるための写真を手渡しながら、職員に言った。
「実は、まだ離職票が届かないんですけど……」
「わかりました。調べてみましょう」
若い職員は席を立ち、一分ほどで戻ってきた。
特に何の表情も表わさずに言う。
「オンラインで調べてみましたが、離職票のほう、まだ発行されてませんね。自分理由退職されてますから、出し渋ることはあまりないんですが。もう一度、本社のほうと連絡を取って、しばらく待ってみてください」
つまらん男だ。
離職票の出し渋りには、ハロワのほうから催促してくれる、と何かで読んで期待していたのに。まったくあてにならない。
俺は仕方なく「それじゃ、もう少し待ってみます」と答え、その場を後にした。
家に帰ると、ポストに会社からの封筒が届いていた。
中を開けると、待望の離職票が入っていた。
これはどういうことだ、と疑問に思う。
今さっき、あの兄ちゃんは「まだ発行されてない」と言っていたはずだが。
そのとき、クイーンドラゴンの上品な含み笑いが耳に届いた。
なるほど、そういうことか。俺は合点がいった。
ハロワで離職票が来ないことを訴えると、会社から封書が届く。
この妙なタイミングで起こった一連の出来事は、クイーンドラゴンの茶目っ気あるイタズラだったのだ。
そういえば今朝、冷蔵庫を開けたとき、マヨネーズの蓋が外れていた。
彼女はこのちょっとした驚きを供した褒美に、マヨネーズを一舐め求めているのだ。
俺は食器棚から小皿を取り出し、その上にこんもりするくらいマヨネーズを絞り出す。
流し台の前にぼーっと座っていた母親が、この様子を見て正気を取り戻したように、鋭い口調で言ってきた。
「そんもの、どうするの」
母親はいつも余計なところで勘ぐる女だった。
「ああ、ちょっと」
俺は適当に答え、小皿を持って玄関から外へ出た。
左に四戸、右に四戸、同じ造りの一戸建てアパートが八戸並んだ真ん中を通っていく。
三組の老夫婦が住んでいる他は、すべてウチと同様、初老以上の母親とその息子という組み合わせだ。
不思議なことに、娘といえるような存在は一人も住んでない。
程度の差はあるが、みな貧乏だった。
道路一本隔てれば建売住宅が並んでいるが、こっち側はほとんどスラムだ。
俺の行動を見咎めるような気力を持った者はいない。
小皿を持って、歩道のない道路を、線路のほうへ向かって歩く。
五十メートル先には、線路をまたぐ形の歩道橋がかかっている。
その歩道橋の上に、このマヨネーズをこんもり盛った小皿を置いてくるのだ。
裕福そうな一戸建ての並びを通り過ぎ、歩道橋にたどり着く。
鋼鉄製の橋はだいぶ傷んでおり、錆が流れて茶色く染まっている。それもそのはずだ。この歩道橋は俺がこっちへ引っ越してくるより前、三十年も前に作られ、ろくに補修されていない。
段差の少ない階段を上っていき、水平な部分に着くと、俺はそこに小皿を置いた。
ここはクイーンドラゴンが実体化する、特別な場所だった。
高次思惟紐帯を通っての奏楽調律であり、存体顕化する情動立拠というわけだ。
穴の開いた家、六匹のシーズー、這いまわるネズミ、身体の不自由になった母親。クイーンドラゴンはそれらと同様、現実の存在だ。
俺が病気のときに出会ったが、決して幻覚でも妄想でもない。
その証拠はいくらでもある。
彼女が欲するとき、マヨネーズの蓋が勝手に開く。
俺の部屋にはネズミが進入しない。
また、俺が全身黒ずくめで夜の道路を歩いていても、車にはねられることはなかった。
もっとも大きな証拠は、病気が治った今でも彼女と交信できることだった。それに尽きる。
クイーンドラゴンは破滅したアラウルーンの最後の生き残りだ。
そのため、名を捨てた。
ただ一人暗闇の中で眠り続けていたところへ、俺の意識が融起揺制し、彼女は目覚めた。
狂気による苦悶の力が、次元の壁を貫いて彼女に届いたのだった。
それ以来、彼女と語り合う関係が今でも続いている。
俺が服薬を始めたばかりの段階で働き出したのも、彼女の指示によるものだった。
クイーンドラゴンは正しいことが多い。
歩道橋の上に小皿を置くと、身を伸ばして周囲を見渡す。
歩道橋を覆うフェンスの向こうで、彼女の目が光った。ありがとうのサインだ。
俺は安心して、来た道を引き返す。
もちろん、彼女の姿をこの目で直に見ることは許されない。どんなに親しくなってもそれは変わらない。
翌日、俺は綺麗になっていた小皿を回収した。
次の日はまた、午後三時にハロワへ行く。
今回は現役介護職員を招いての『福祉の仕事説明会』だという。
会場はいつもと同じ、プレハブの二階だ。
中へ入ると、年配の失業者に混じって、今回は若い女も数人いる。
席に座って待っていると、講演者が現れた。
意外なことに、胸の大きな若い姉ちゃんだった。
三十路に届いたかどうかという年頃に見える。
そんな若さでも実務経験十年以上のケアマネージャーだという。
俺はときたま彼女の胸に目をやりながら、熱心に話を聞いた。
「介護というのは、福祉とは言いますが、飲食業と同じようなサービス業です。お客さまの尊厳を第一に考える肉体労働です」
彼女はこのことを強調し、長い話の間に何度か繰り返した。
ヤワな心持ちでは続かないと言いたいらしい。
それからビデオを見せて実際の作業を解説し、介護の理念を語り、職員不足を訴えた。
資料が配られ、介護職員となる場合のキャリアアップの仕方も説明された。
最初に三ヶ月程度の講習を受けて、『介護初任者』という資格を取っておいたほうがいいらしい。
それから何段階か出世の階梯があり、頂点は実務経験十年の必要なケアマネージャーのようだった。
ただ、職員の男女比は三対七だという。
同性介護が基本なので、長生きな女のほうに需要が高い。
男はそんなに数が必要とされていないらしかった。ちょっと心配になる話だ。
しかし、もっといいアイデアも無かった。
俺は、この後の計画を考え始めた。
何も貰えない待機期間は三ヶ月にも及ぶ。
失業給付金をすべて受け取りきるには今年いっぱいかかるはずだ。
年内は小遣い銭が稼げる。
受給期間が終わっても、訓練校に通えばまた金が貰えるらしい。
介護職員初任者研修ってのに通おう。
それが終われば慢性的に人手不足だという職場が待っている。
俺でも入り込めるかもしれない。
なかなかいい計画だ。これでいこう。
すべてが終わると、またスタンプを押してもらえた。
これで求職活動の実績が三回になった。簡単なものだ。最初に金が貰えることになる九月十七日の認定日まで、俺は自由だった。
帰りに離職票を提出し、写真の入った正式な失業給付金受給者証を受け取る。
ハロワを後にしたとき、いっちょまえの失業者が完成していた。
フリーな夏が始まった。
とはいえ、派手に遊ぶ金など無かったし、そもそもそんな遊び方もしらない。
日がな一日、クーラーの効いた部屋でぐうたらに過ごすのだった。
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