第七章
きみをすくう日 01
世界は救われた。
あの日、確かに。
だが、この有様は何だ?
水の入った重たい樽を橇に乗せ引きながら、暗い眼をした幼いレオは世界を呪っていた。
雨が降り、カルマは心の安定をようやく取り戻した。人々は笑い、奇跡だ、神の御業だと、抱きあって喜んでいた。だがその輪の中に、レオの姿は無い。
レオの両親は水を巡って死んだ。水を飲めずに死んだ。レオに、水を譲って死んだ。そんな自分が、これからは弟妹達を育てるために生きるしかないことは分かりきっていた。
引いていた橇が砂の下の岩に乗り上げて大きく揺れた。積んでいた樽が崩れそうになり、レオは舌打ちをしながら樽を足で蹴って元に戻す。
神子をあの歳まで保護していたという、村長の薄っぺらで身の無い嘘は何の精査も無く王都に聞き届けられ、この村への配分水量は村人が水浴びできるほどに増量した。貧しく小さな村に増分された水はそのまま人を呼び、村は少しずつ栄えつつあった。
だが、レオはまだ幼かった。自分一人でなら生きていけただろう。だが家には何人もの妹や弟がいる。恵まれているとは言っても、まだ復興の兆しが見えるだけの村の住人達にもそこまで余裕があるわけではない。まだ幼いレオは相談する大人もいないまま悶々と悩み、苦しみ、その精神はじわじわと追い詰められていった。
「ここだよボク。おじさん暑くて死んじまいそうだ」
隣村とのちょうど真ん中の所で、その男は待っていた。小汚い恰好でにやにやと下卑た笑いを隠しもしない。レオが橇ごと樽を渡すと、男は腰に下げていた袋から何枚かの少なくない硬貨を取り出した。
「ほら、ありがとよ」
「――今日はもう一往復できる」
「じゃあ夕方な。それまでに俺もこれを村に運んで戻ってくるわ。ほんと助かってるぜ。恵まれたお隣さんとは仲良くしないとなぁ」
男の顔をそれ以上見ていたくなくて、レオはすぐ踵を返して走り出した。
レオは、禁忌に手を出した。水を売ったのだ。カルマが何よりも尊び真摯に向かい合わなければいけないもの。それを金に換えた。
隣村に仕事を探しに行って、どこからも子供は間に合っていると戸外に追い出されて途方に暮れていた時に、声を掛けられたのが始まりだった。近くの配水量の少ない町へ、瓶や樽に酒を装って詰めた水を運び、売人に引き渡す。あっけないほど簡単に、家族の1日分の食費が手元に入った。
それ以来、レオは毎日井戸からくみ上げた水を売るだけで生計を立てることができるようになった。レオは疲れていた。もう考える力も湧かなかった。幼い家族に自分の犯しているおぞましい罪について相談することもできず、自問自答しずぎて正論となった己の行為はもはや自分には簡単に覆せない。国は再び水を得て復興しようと息巻いているのに、レオの心は貧しくさもしいままだった。少なくとも、一緒に悩んでくれたあいつが居た頃の方が、いくらもマシだった。
憎みたかった。呪いたかった。お前のせいで両親が死んだのだと。だが一方で、あそこまで必死にレオの家族を養うために側にいてくれた、彼の気持ちが分からない訳はなかった。
「もう一回――」
井戸から水を組み上げて樽に詰める。井戸の近くの洞窟に隠した予備の橇にそれを積み上げる。
「もう一回――」
大きく息を吸い、ぐっと腰に力を入れて、荒縄を掴むと橇を引く。炎天下の下を白い顔を真っ赤にして、汗を垂らしてレオは進む。黙々と馬のように水を引き運ぶ。思考など要りようも無い。人の形をした運搬機でしかない自分には。
捨て鉢になっていた頭の片隅を、何かが過ぎった。ぴたりと足が止まる。
あれ、俺はいったい何を売って金にしているんだ?
ついにレオは疑問に思ってしまった。
雨水か?
アリスの血か?
アリスの命か?
それともアリスの存在か?
乾いた大地を見下ろし呆然としていると、不意に頭上に影が掛かった。
「こんなところで、何を立ち止まっているんだ?」
びくりとしてレオが顔を上げると、そこには
「えっ……」
臙脂色の瞳が、レオを訝しげに睨む。ひらりと
「まだ子供じゃないか。一人で町を出るなど、危ないぞ」
「いや……仕事で……」
しどろもどろになりながら目を逸らす。完全に虚を突かれ上手く口が回らない。
「この先の町に行く気か?」
「あ、ああ。いつも行ってるから。酒の配達だよ」
男の視線を感じながらも早く此処から離れたい一心で、樽の入った橇の綱を握って見せる。しかしその願いも空しく、地を這う様な低い声がレオの足をがっしりと掴んだ。
「……君、本当は何を運んでいる?」
「だから、酒場に……」
「それにしてはずいぶん樽が新しいな?新品といってもいい。酒場に入れるにはまだ早すぎる」
気付いたときには、股座を抜いて剣が一本樽に突き刺さっていた。貫通した刃の先から、透明な雫が滴り落ちる。
「なるほど。確かにこれは上等な酒だ」
レオはがたがたと震えて男を見上げた。大人より自分に歳が近い、少年といってもいい幼さを残した顔には、決して自分にはできない冷徹な表情が張り付いている。
「神子からの賜り物である水の売買が、重罪なのはカルマならばわかっているな?」
樽から剣を抜き取ると男は大上段に構える。濡れた刃が太陽の光を反射してレオは思わず手で目を覆う。
刃は、振り下ろされなかった。指の隙間から恐る恐るレオが覗くと、男は苦々しい顔でレオの掌を凝視している。働きすぎで傷だらけの、硬い皮で覆われた掌を。
「……あの子と同じ手だ」
男は剣をだらりと下ろすと、レオの胸倉を代わりに掴み上げた。つま先が浮き呼吸もままならない。
「もう、二度とするな。絶対にだ」
苦悶に顔を顰めるレオに向かって、男は呼吸さえ感じられるほど顔を近づけ言い放った。
「お前を殺せば、同じ手をした小さな子供が悲しむだろう。あの子はお前のような人間を救うために――今、あの場所におられるのだからな」
レオには彼の言葉の意味など分からない。
「お前は最低だ。子供だろうと関係ない。カルマの名を名乗る資格など無いほどに愚かだ。神子の恩恵を受ける資格など無いほどにな」
どさりとレオの身体が地に落とされる。必死で呼吸する小さな身体を省みることもせずに、男は砂鳥竜(コッカトリス)に乗ると去っていた。
「ううっ……うぅ……っ……」
知らずに嗚咽が漏れていた。体が勝手に震える。目の奥がちりちりと痛い。乾いた瞳をぎゅっと閉じると転がったまま何度も地面を叩いた。嗚咽は叫びに変わり、熱い砂を叩く拳は痛みと共に腫れ上がる。
それでも、レオは止めなかった。
悔しかった、恥ずかしかった。自分の罪悪感を冷たい目で射抜き、砕いた上で彼は自分を蔑んだ。
神子の恩恵を受ける資格が無い?そんなこと自分自身が一番分かっている!
だって、彼は自分のためにその身を差し出したのだから。
彼の願ったささやかな生活を贄として、のうのうとこうして生きているのだから。
豆粒ほどの大きさでしかない王都に、雨雲が掛かったのが見えた。
アリスが生きている。神の国に連れて行かれたわけでも消えたわけでもない。あの雨だけが、アリスの存在を伝えてくれる。
レオは砂だらけの身体で起き上がると、とぼとぼと井戸へと引き返した。大きな桶を井戸の底へと下ろし、たっぷりと水を汲み上げる。水面には、情けない顔をした赤錆色の髪の少年が写っている。
これが、アリスの命。
思いっきり頭から水をかぶる。まるで彼の血をかぶるように。その冷たさがあの雨の日を思い出させた。アリスはなぜあんな悲しそうだったのだろう。考えても考えても答えは出てこない。
ならば、会いに行って聞けばいい。
あの時と、今この時、アリスは何を思って泣いているのかを。
今、幸せなのかと。
それがわかれば、多分レオは救われるから。
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