鮮血の赤、鉄銹の赤 06
城内は騒然としていた。深夜といえど降り注ぐ雨粒が屋根を打ち奏でる大合奏はどんな目覚ましよりも強力だ。未だ経験したことの無い、大天恵とでも言うべき雨に最初は狂喜したものの、薬も多すぎれば毒となり、水も多すぎれば害悪となりえると初めてカルマは知る事となる。
女中メイドや使用人は桶や盥を持って城の中の浸水しつつある箇所に殺到していた。もともと水害を想定して造られていない城だ。兵隊達も普段は戦に使用する土嚢を抱え、どうにか水の浸入を妨げようと躍起になっている。
人々が慌てふためく中、レオをとアリスは堂々と門から二人手を取って出ようと歩を進める。アリスが急に足を留めた。
「俺、これ以上外に近い領域に近づけない」
アリスは不安そうだ。門の向こうに神子は踏み込めない。境界を跨ごうとした瞬間に、閃光と共に進入拒否と判断され弾かれてしまうのだ。
「大丈夫。俺は王だぜ?」
紅玉の瞳を爛々と光らせてレオは自信満々だ。そしてそのまま
薄い硝子を割り破る音。二人は何の抵抗も無く門を潜った。
「嘘っ…昔俺が別の人間と同じことしても弾かれたのに…!」
どうやら異様に不安がっていたのは経験則から来るものだったらしい。レオはアリスの手を強く握りなおす。
「王族だけが神子を城から連れ出すことができるって事なんだろうな」
「二度と出られないって言われてたのに……」
「今まで王族と神子が手を取り合って逃げようとすることなんて無かったから、誰も知らなかったんだろ」
門扉を守る衛兵は申し訳程度に数人いたが、全員が何らかの作業を行っている。ここもすんなりと通り抜けられそうだった。
「さあ、お出かけだ」
お世辞にも新しい門出を祝う天気では無かったが、雨粒たちは二人の逃走を応援するように地面を叩く。
「城から出た後の事なんて、本当は考えて無かったんだ」
アリスが雨に消え入る声で囁く。
「結局
「戻りたいか?」
レオはそっと手を外し、アリスの顔をまっすぐ見つめた。
「そんなわけあるかよ。覚悟はできた。そもそも、もう俺の戻る場所はあの棺桶しかないんだからさ」
アリスは笑う。レオはその表情に胸を締め付けられる。喪失に心が倦みそうになるのを必死でこらえる。これは傲慢か、それとも欺瞞か。
それは、子供の頃のレオの笑顔に、本当によく似ていた。
「神子殿!」
その時、雨音に支配されたはずの空間を、凛とした声が切り裂いた。アリスの顔が凍りつく。頑なに振り向こうとしないアリスの代わりにレオが背後に向き直ると、緋の間のテラスから身を乗り出す、見慣れた紺の戦闘服を着た青年の姿があった。
「あのド過保護隊長野郎……今更、何を言うつもりだ?」
レオの呆れきった呟きなど聞こえてはいないだろうが、キリはこめかみに血管を浮かせながら疑惑の王を睨み付け、だがすぐにアリスへと視線を移す。
「神子殿!何処へ行かれるのですか1?」
彼の声に引きずられ、周囲の兵士達の視線がアリスの背中へと集まる。アリスは俯き、決して誰とも視線を合わせようとしない。
「貴方が、貴方が居なくなったらまた、あの頃に戻ってしまう――!!」
彼の悲痛な叫びに神子はビクリと肩を震わせた。それでも彼は、顔を上げることは無い。
「ま、待ちなさい!!」
「ぐあっ!?姫様!?」
上空から小鳥の囀るような声と、蛙を踏み潰したような声が響いた。レオが雨の中目を凝らすと、キリの乗り出した背中と肩を踏み切り台にし、テラスから雨粒と共に赤い髪を翼の如く広げ、王女が刃と共に飛来する。
「来やがったな!」
レオは文字式を頭上に展開させる。様々なサイズの祖字式が同心円状に幾重にも広がり、それが更に何層にも重なって王女の勢いの乗った肉厚の刃を受け止めた。魔方陣に乗り上げるような格好で王女は一瞬体勢を留めるが、すぐにその式を足場にひらりと離れた地点へ着地した。
「神子は、私のもの」
「ふさげんな」
手のひらを前に突き出して、制するようにレオが睨みつける。殺戮王女の紅玉の瞳が細められた。上気した頬に、吐息がやけに艶めかしい。
「お前……本当に、本当にコックなの……?」
「そーですよコックですよ」
額に貼り付く真っ赤な髪を鬱陶しそうにかき上げて、レオは獣のように笑う。王女はレオの髪を凝視した。
「その髪……その瞳……」
「考えるな、感じろだろ?簡単なことだ。鮮血の如き赤き髪は王族に連なる証ってな。俺はどっちかってと砂苺に近い気がするがな、この色」
その台詞が言い終わるや否や、レオの手の平を中心に円状に展開される祖字、祖字、祖字。荒々しくぶつかり合い力の解放へと向かって祖字が式を展開していく。血飛沫のように、紅い祖字が舞い踊る。
「こんな複雑な構成式、白文字の時には作れたことも無いんだ。手加減できなかったら悪いな」
言葉と共に手の平から紅い光の弾が撃ち出される。王女は一歩も動かずにその弾をカトラスで弾き落とした。連弾の嵐を前に歩くような速度で進みながら、殺戮王女は精確に刃の側面で、祖字の弾を反らし、叩き、地に落としてレオへと近づいていく。
「貴方……すごくいい……」
王女はうっとりとした顔でレオを見つめた。もはや反射で弾を打ち落としている。
「私と同じ綺麗な髪。前に見た汚らしく錆び付いた色とは違う。やだ、欲情しちゃう」
恋する少女の瞳で刃を振り続ける殺戮王女。厳格なまでの純血主義の弊害で、自分が子を成す相手を髪色と瞳でのみ判断してしまうその歪んだ価値観が如実に表れている。
「確かにその花嫁衣裳ならすぐに式も挙げられるだろうが、俺はごめんだぜ!」
言葉と同時に、三次元的な多面体の形を取った祖字式が六つ出現し、王女を取り囲んだ。刃を正面に構え、殺戮王女は何の攻撃が来るのか警戒する。レオは口の端を引き上げる。
「――ちなみにこの術は、囲まれた地点で詰みだ」
六つの多面体すべてから、二本の祖字列による鎖が伸びた。自身を頂点に互いが鎖で繋がり、六角形が形成される。強い光を放った六角形は、次の瞬間中心へと収束した。
すなわちその中心にいる王女へと。
「きゃあ!」
紅い鎖が華奢な体を縛り上げ、バランスを崩した殺戮王女は濡れた石畳に倒れこむ。ボリュームのある白いドレスが泥水を吸い汚れて萎んでいく様は惨めで、それを見下ろすレオは完全に悪役の様相だ。
「こんなに愛してるのに……貴方、私を拒むの?」
「当たり前だろ。アリスをあんな目に遭わせておいて、どのツラ下げて言ってんだ?」
「いや……そんな目で見ないで……滾るの……!」
レオの侮蔑の表情にすらときめくのか、王女はさらに顔を赤らめると、何とか拘束から逃れようとじたばたと暴れる。だが強固に結びついた祖字列が解ける気配は一向に無い。
「すげー難しい構成式組んであるから、せいぜいアンバー先生にでも解いてもらうんだな……祖字の使えないお姫様」
その言葉に彼女の目が吊り上かる。
「貴方も私を能無しと蔑むの?」
まさか、レオは笑った。能無しは自分の方だ。
「俺はただ、アリスの心を壊した奴のちんけな誇りを砕きたいと思ってるよ」
遠巻きに状況を見守っていた兵士達が殺戮王女が地に伏したことで殺気立ち、じりじりと近づいてくる。そろそろ潮時だ。こんなところで長居する意義など無い。
「それでは」
アリスは自身の顔の前に、円が何層も重なる文字式を組み上げていく。離れて見ると、城を狙う砲塔のようだ。
「これがコックからの挨拶だ。神子は現保護者である王女より、同じく保護観察権のあるこのレツァケイオスに譲渡された!さあ皆大手を振って見送るといい。王と神子は、正当な権利を以って城を出る!」
レオは宣言する。人前では口にすることも憚られていた、平民には大仰すぎる自分の真名は、驚くほどするりと今の自分の喉から滑り出た。
「馬鹿な――こんなことあっていいはずがない」
砲口の先――緋の間のテラスには驚愕の表情を浮かべるキリがいた。赤い展開式の環は五重まで構成されたところで、ぴたりとその動きを止める。
「まあ、神子の誘拐と取ってもらっても構わねえけどな!」
瞬間、彼の額に全ての祖字が収縮され、真赤に輝く光の矢となって超高速で放出される。
爆煙、そして暗転。
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