鮮血の赤、鉄銹の赤 05
頭が付いて行かない。レオは次から次へと投げかけられる言葉にまともに反応することすらできない。何もかもがおかしい。だが、捏造されたこの国の真実に、次第にカルマの民は熱に浮かされたように騒ぎ出す。急に怖くなって、レオは黒い箱を抱き締めた。
皆が自分を見ている。
国を転覆させようとした反逆者だと。
処されるべき王の血を引く咎人だと。
「これで全て終わりです。移り気な支配者も、排すべき支配者も、その全てに片が付く」
まだ雨は降っている。ずっとこの中で泣いている。だけど、箱の外がこんな状態なら、いっそ閉じ籠っているほうがお前は幸せなのかもしれない。レオはそんな気すらしていた。刺し貫くように自分に向けられた視線に心を削られ、レオの手は力なく床へと落ちる。
愚かな自分。友を追って城にまで上がり、行き着いた先が反逆者の汚名とは。
誰も俺を見ないでくれ――いたたまれなくなってレオは目を閉じ額を黒い箱に押し付ける。まるでギロチンに首を預ける罪人のように。殺戮王女は屈服した獲物に侮蔑の表情を向けて、剣を振りかざす。ちらりとアンバーに視線を送ると、焦らすように指で待てと合図された。場の空気を完全に掌握するために、アンバーはさらに虚実混交した持論を熱く展開していく。もうレオの耳に、その聞くに堪えない言葉は入ってこない。
一際強い雨風が城内に吹き込む。その時、レオに当たって弾けた雨粒から、声が迸った。
――――馬鹿か!!
乱暴な声。綺麗であるがゆえに、声質と口調の噛み合わなさが酷く強調される、良く聞き慣れたそれ。レオははっと目を見開く。首を動かさずに周囲を見るが誰も他に声が聞こえている様子は無い。
――だからこんなところまで来るなって言ったんだ!何やってるんだ、立て!!逃げろ!!
アリスの言葉が雨を解してレオに伝わる。レオは心の中で思わず返事をする。
――お前を置いて、どこに行くっていうんだよ。こんな暗くて冷たいところに、お前を葬れっていうのか?
――いいんだ。俺はもう失敗した。僕達は負けたんだ。魂で繋がる神子の一族は、俺を持って終わりを迎える。
アリスの言葉はレオの返事を理解してのものだった。信じられない。幻聴じゃないのか。追い込まれて自分の都合のいい言葉を、脳内で反芻しているだけじゃないのか。
諦めて、逃げることを正当化するために。
――俺達神子はな、本当は雨をこのカルマの地に呼び戻すために生まれたんだ。
――今までも雨を降らせているじゃないか。
――違う。俺のこれは、ただ空の蓋を緩めているに過ぎない。俺はアンバーの言うとおり、空から零れるはずの雨を堰き止めている栓なんだ。カルマがカルマと呼ばれるより昔。その者達は水を冒涜し、穢し過ぎた。この地を枯れ果てさせて、荒野に変えてしまうほどに。そしてそのツケを、二千年以上掛けて俺達が支払い続けていたんだ。
――何を以て?
――すべてでだよ。乾いた砂と荒地。神子によって供給されるほんの少しの雨。それに縋るしかない生活。カルマもう意識すらしていなかった、そのすべての不条理が贖いだった。循環する水を止めて、純化させる時間を稼ぐための。
うんざりするほど長い神子学者のスピーチに、殺戮王女の眉がぴくぴくと引き攣りだす。この茶番もそろそろお開きにするべきだろう。だがアンバーは話を止めない。首の皮一枚繋がったような状況で、レオはアリスとの会話を続けている。
――だけど、それも終わりのはずだった。やっと、やっと赦される時が来たんだ。後は俺が巡礼を行って赦しを乞えば、すべてのカルマはやっと救われるはずだった。だが、その頃にはこの国は変わり果てていた、神子制度は形骸化し、血で繋がる王族は我等との盟約を都合よく忘れて反古にした。だから俺は隠れ、潜み、生きなければいけなかった――先代の神子が想定より早く力尽き、
苦渋に満ちた声だった。
――何故当代の神子が、何故俺が、何故僕がって思ってた。だけどこれは抗えない約束なんだ。物心付く頃から僕の胸は罪悪感で一杯だった。苦しいんだ。怖いんだ。辛いんだ。訳の分からないものに心を追い立てられて。だからこそ祈るように今日が来るのを待っていた。それだけが、生きる意味なんだと教えられていたから。
ごめんな、巻き込んで。消え入りそうな小さな声でアリスが謝った。
――なあレオ。俺はやっぱり最低だな。今度こそお前をさ――巻き込まないでさあ、俺一人でやろうって思ってたのに……!!レオの優しさに甘えて、結局…………!!
一層雨足が強くなった。彼の悲しみが、悔しさが、そしてレオへの罪悪感を、ただ一つ今自由にできる雨で表すように。
レオは天を仰ぐ。身体は降り注ぐ雨粒を受けてずぶ濡れになっている。意外な事だが、城に上がってからレオがまともに雨に打たれるのは今夜が初めてだった。神子とこんなに近くにいたのに、なんだか可笑しい。レオは喉を震わせて笑う。
思い出すのは、幼いころの記憶。初めて雨を受けて震えた心。あれはたった二人の為の――いや、アリスが多くの犠牲を払い齎した、俺のためだけの雨だった。
――なあ、本当に、逃げちまおうか。
言葉にすると、驚くほど素直にその決意は心に沁み込んだ。まるで昔からの約束のように。
――え?
「反逆……誘拐……上等だぜ……!!」
何時の間にかレオの思考が、無意識の内に自らの喉を震えさせていた。王女が不審な顔でレオを注視する。変化は、すぐに表れた。
「何だ……!?」
レオに触れる雨が、まるで星屑のように光り輝いて弾けた。淡い光の乱舞が、レオを包み込む。昔見た光景と同じだとレオは気付く。奇跡のように軌跡を描く視界は――ただの出血多量で朦朧としていた脳の機能不全では無く、現実に起こっていた事だったのだ。
アンバーは聴衆がついていけない演説を続けていた姦しい口をぽかんと丸く開けた。そして、わなわなと手を震えさせながら、叫ぶ。
「どういうことですか!?こんな話、私の持論には無い!!」
光っているのは水だ。水自体が発光して立ち上り、まるで質量を持ったかのように彼の髪を揺らしていた。
「寄越せよ。俺のだ」
血で汚れた両の手で、黒き箱を掴む。
先ほどまでとは違い、開けるという、明確な意思を持って。
そして、奇跡は起こる。
最初、血が流れたのだ思った。その位、鮮やかな真紅にレオの髪が、一房変化した。
いや、それは変えるというより還すと言った方が違和感は無い。錆び付いた金属から酸素が還元され、再び輝きが戻るように。予定調和のごとく、レオを濡らす水は彼の髪を美しい紅へと染め上げていく。それと同じくして、黒き箱の側面に今まで全く見えなかった箱の継ぎ目が、光る線となって一筋走った。正当な権利者からの要求を以って、箱が開かれる。
「なんてこと……!?」
王女のカトラスが、地面を転がる。両手で口元を押さえ、真紅の目を見開いて、眼前の新しき王を見つめる。
箱の中には、真っ白な神衣を着せられたアリスが、ぴったりと治められていた。音も無く、光も無い、時の流れさえも止められた中で、どれだけの恐怖に苛まれていたのだろう。涙と汗と涎と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は見れたものでは無い。引き裂き噛み千切り、掻き毟っていたのだろう。髪の一部分が抜け、首に何本もの蚯蚓腫れが浮き、口の端に紅い血の泡の後が残っていた。だが、それさえも無に返す箱の効果の余韻によって、アリスは一瞬で無傷の姿に戻っていた。
彼の口から、たった一言、震える声が発せられる。
「レオ、助けて」
「――わかった」
そう、こうなることはとても自然な事だったのだ。
レオの髪は今やすっかりと紅くなっていた。遠い遠い王の血が再び呼び起こされ、約束を果たす時が来たのだ。鼓動を整えるようにレオは目をぎゅっと瞑り深く息を吸う。その瞼の間を縫って、雨粒が流すことのできぬ涙のように流れ落ちる。
レオの脳裏に、不意に両親の顔が浮かんだ。赤錆色の髪を持つ、父親と母親の柔らかな笑顔。今なら分かる。なぜ他人のはずの二人が同じ色の髪だったのか。兄弟の中で同じ赤錆色の髪をもつ子の頭を、少し悲しそうに撫でていたのかを。
彼らはその血を守っていたのだ。薄まり濁っていく
レオは覚悟を決めた。
俺が本当に王なら、やってやろう。世界を救ってやろう。
アリスの願いを叶えるために。
お前らが疑う通りの、苦難の道を共に足掻き続ける、共犯者として。
「俺と一緒に、全てを贖おう」
再び開かれた彼の目は、紅玉の輝きを湛えていた。
その同意に、大きく世界が揺れた。空も、大地も。たった一揺れ。大きく大きく世界がぶれる。まるで、世界を構成していた巨大な何かが外れたかのように。
――――ドシャャャャァァァァァァ!!
直後凄まじい音を立てて豪雨が降り注いだ。緋の間にいたカルマは、おおよそそれが雨の立てる音だと理解できずに肩をびくつかせる。その位の大音響が屋根を叩く。
桶をひっくり返したような雨、といえばまだカルマの民にも覚えがあるだろうが、これはその比ではなかった。アリスがテラスに走り出る。慌てて後を追ったアンバーと共に、感じたことの無い水圧に身を震わせる。
「うわぁぁぁぁぁ!!雨!?水!?水流!?すげーっ!これが解錠か!」
「凄すぎる!!記録!!筆舌に尽くしがたいですが記録です!!あ、紙が溶け落ちた!!駄目だ!痛い!!雨が痛い!興奮して鼻血が!!」
お互いの立場も忘れ狂喜する二人の歓声に、水に目が無いカルマ達も釣られるように外に出て行き、次々と慄きの声を上げる。
これなら、雨粒が振ってくるというより、地面にただ水が垂れ流されていると言った方が正しい。今まで空には栓がしてあって、それが急に抜かれてしまったような。
分厚い雲の広がる空に、両手を高く伸ばすアリス。まるで自らを捧ぐようだ。
「そろそろ、おいとまするとしようか」
その様子をしばらく見ていたレオがゆっくりと歩き出す。
「待ちなさい!」
周囲を取り囲む衛兵をかき分けるキリよりも、王女の方が動きが早かった。ヒールで刃の腹を踏み、てこの要領で持ち上がった柄を掴もうとして――しかしその手は空滑りし、再びカトラスは床に転がった。
「あら――っ、そんな――」
殺戮王女は普段ならば有り得ない失態に顔を真っ赤にし、しゃがんで剣を握る。精彩の無い動きに、狼狽した表情。そんな彼女を無視して、レオはテラスに出ると空に掲げられたままのアリスの手を掴む。
「ほら、行くぞ!!」
そして、レオは滝の如き雨など物ともせず助走をつけて踏み込むと、テラスの柵に足を掛けて、一気に空へと飛び出した。十メーター程下に石畳が見える。
重力から解放された時に感じる、背筋をなぞられるような浮遊感。思わず二人は手をぎゅっと握り合い、顔を見合わせてからからと大きな声で笑った。
「贖罪の始まりだ。がんばろうなレオ!」
ずぶ濡れの漆黒の髪を白い肌に貼り付けて、アリスはレオに笑いかける。
「あぁ、こんなこと、さっさと終わらしちまおうぜ」
レオもアリスに笑い返した。そして空いた手を迫りくる石畳に向ける。すると石畳と二人の間に、同心円状に幾重にも広がる直径五メートルほどの祖字による魔方陣が展開された。その陣は、レオの髪と同じ燃え上がるような真紅の色を呈している。平時の薄弱な白の祖字とは違う、はち切れるような熱量カロリーを秘めた真紅の祖字は、軽々と二人を地に叩き付けようとする重力を相殺し、ふわりと危なげなく二人の身体を石畳に着地させた。目の前には城下町へと続く門が聳え立っている。
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