鮮血の赤、鉄銹の赤 04

 レオはその時、緋の間でカルマの歴史を揺らすこの瞬間に立ち会っていた。殺戮王女――カルマの王の特権で城の領域間の移動制限が殆ど無くなっていたために、結界に阻まれること無くここまで辿り着くことができたのだ。

 人波をかき分けながら部屋の中程まで進んでいた所で、キリの怒号が飛んだ。いいぞ、もっとやれ、と思いながら、レオはさらに前に進む。

 最前列はまずいので数人の人影を盾に、隙間から状況を窺うと、丁度殺戮王女が座したまま黒い箱を愛しげに撫でさするのが目に入った。

「大切なものは、ちゃんと宝箱に鍵をかけてしまっておかなければいけない。父から、父は祖父から、ずっと代々言い含められてきた言葉。だから私も、時間があればここに大切なものをしまっていたわ。私はカルマの王。無くしてはいけない一番大切なものなんて、一つしかないもの」

 これは民に伝える言葉では無い。王女は何時もの口調に戻っていた。

 箱からは物音一つしない。蓋の繋ぎ目がまるで見えない箱は、棺桶にも似た不吉さを漂わせている。厳かにアンバーが告げる。

「王家に伝わる古の文明の遺産。この箱には我等には再現不可能な、とてつもない仕掛けが施されています。わかる範囲で説明すれば、内部に彫られた循環型祖字式の流転により、永久機関的に術が発動し続け、封じされたものの劣化を防ぐことができるのです。要は、この箱は内部の時間の経過を止めることができる」

 レオは何時の間にか自分の手が震えていることに気づいた。怒っているのか、恐怖しているのか、自分の心が全くわからない。

 頭の中が真っ白になる。まるで自分の祖字が脳を埋め尽くしていくかのように。

「本日、神子が出奔しようとするところを、私達は捕らえました。神子は――いやこのカルマの支配者は、あの枯れた二年では飽き足りず、またしても我等に飢えと乾きに満ちた試練を、お与えになろうとしていたのです!!どうです皆さん!?どれだけ祈ろうとも、再誕奉った神子に感謝と崇拝を献上しても、無意味なのです!!神子はカルマを奴隷ぐらいにしか思っていない!!それでも、あなた方はその身と魂を御名の元に唯々諾々と委ねるおつもりですか!?」

 名演説だった。今や神子を解体する刃となった神子学者は、此処にいるカルマの心を研ぎ澄まされた言葉で刺し貫いていた。

 彼等は怯えていた。枯れた二年ラストダンスの再来。それは何よりも辛い記憶としてカルマの心に刻まれている。

 だからこそ神子を崇めていたのだ。信奉していたのだ。

 だからこそ、彼等の心は揺れていた。

 信じているからこそ、裏切られることを恐れていた。

「――――カルマの民よ、今こそ選び取るのだ!真の自由を!この黒き箱を雨恵む聖像イコンとして崇めれば、カルマは未来永劫雨の無い日を怯えることは無い!!」

 赤髪を揺らして立ち上がり、凛とした声で殺戮王女が宣言する。そして椅子の背に掛けられていたカトラスを抜き、躊躇いなく黒き箱に振り下していた。

 聖者達の嘆きにも似た、金属を薙ぐ甲高い音が響き渡る。美しい楽器めいた音を奏でる黒き箱には全く傷はついていない。微動だにせずそこに佇んでいるままだ。

 だが、変化はすぐに訪れた。音の余韻が消えるころ、空には暗雲が立ち込め、雨が降り出す。

 緋の間の大きな窓からその光景を見た民たちは震えていた。

 これは我等の罪か?それとも彼等の罰なのか?

 やがて、一人の人間が床に膝を突き、両肘を床に付け、頭を垂れて聖像イコンへ祈り始めた。それに続くようにおずおずと一人、また一人と同じ礼拝を捧げていく。

 気付けば皆床に頭を擦り付け、聖像イコンに祈りを捧げていた。まるで贖罪のように。自らの選ぶ罪を許したまえと彼等は一心に祈り続ける。

 黒き箱の聖像イコンの横で、玉座から部屋を見下ろしていた殺戮王女の紅い唇が、薄らと弧を描いた。自らの勝利を確信した表情。

「祈るのだ。カルマのこの先に、ただ康寧だけがあらんことを」

 それは、神子との決別だった。

 今までの国の在り方を否定し、これからは王族だけが国を統治する存在となる。

 カルマは、大きな歴史の転換となる一歩を踏み出そうとしていた。

 殺戮王女は胸を躍らせていた。これで、面倒な全てを廃することができる。戦いだけに注力しても誰にも文句は言われない。

 それは、彼女にとっての悲願だった。

 正直、アンバーの推測に塗れた持論は彼女には理解するには難しかったし、そもそも興味も無かった。だがこの素晴らしい、雨を呼ぶ装置。これがあれば、民は全幅の信頼を自分に寄せるだろうということはわかる。

 だが、その確信に水を差すような声が、彼女の耳に届く。

「ふざ……けるな……!!」

 たった一人、聴衆の中に立ち続ける者がいた。鉄錆色の髪を恥ずかし気も無く煌めくシャンデリアの下に曝し、伽藍堂のような瞳でこちらを見ている少年が。

「ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――!!」

 それは、レオの魂の叫びだった。喉が引き裂けるかと思う程の怒号が、部屋中の者の虚を突き硬直させた。レオはその隙に白い祖字を四肢に撒きつく包帯のように書き出し、地に伏せ祈る民を踏みつけて王座へと突撃する。

「やだ穢い」

 王女は持っていたカトラスを、鍔を軸に優美に旋回させ、その柄で突っ込んでくるレオの鳩尾を正確に撃ち抜き背後に吹き飛ばした。勢いを殺すことなくいなされたレオは無様に窓硝子にぶつかる。衝撃で硝子は粉微塵になり、レオの身体は雨降るテラスへと転がり出る。破れた窓から雨風が吹き込み緋の間を濡らした。

「ううっ…………!!」

 身体のあちこちに薄い切り傷を作りながら、レオは何とか膝をついて起き上がる。

 ひらりと王座の背凭れの上に飛び乗った殺戮王女が、ガラスの破片に塗れたレオを無表情に見下ろした。

「あなたももうお役御免よ。神子はもう食事を摂る必要も無くなったもの」

 レオの歯の根から獣の呻りじみた声が漏れ出る。その表情は修羅のそれに等しい。

「返せぇぇぇぇぇええぇぇぇ――――!!」

 踵に放射線状に生えた祖字式がレオの脚力を爆発的に高め、人の目に追えぬ速さで再び殺戮王女に迫る。だが相手は人ならざぬ領域に半歩足を入れた狂戦士だ。やはりその拳は届かず、王女のカトラスは空を切ったレオの左の拳を正確に貫いて、黒き箱に縫いとめた。硬い物同士が触れ合う耳障りな音が鼓膜を揺らす。

「がぁぁぁぁぁ!!」

 激痛に悶えるレオの叫びが木霊する。王女の突き出した刃は、やはり箱には傷一つ付けられなかった。カトラスが引き抜かれレオはずるりと黒き箱に凭れ掛かる。 「ア……リ……ス………………」

 べったりとした真っ赤な手形が艶のある箱の表面を汚し、吹き込む雨がそれを斑に洗い流す。

「左手の動きがずいぶん拙いわ。そんなものを武器として振るってくるなんて、馬鹿にされたものね」

 止血しようと袖口の布を破り手首を縛る。短くなった服の袖から大きな古傷が覗いている。戦いが自分に向いていないだなんて事は、レオが一番わかっている。

 それでも、戦わなければいけないということも。

 レオは血の滴る手で黒き箱をなぞる。開けようにもどこが継ぎ目かすらわからない完全なる長方体は、やはり宝箱と言うより、棺桶にしか見えない。

「なあ、聞こえてるか?それとも音さえも届かないのか……?」

「あぁぁ、待ってくださいってば。いきなり出てきてヒーロー気取りですか全く……そうは、いきませんよ」

 アンバーが空気を打ち破るように手を叩いていた。

「皆さん、闖入者に驚くなかれ。彼もこの件の一端を担う罪深き人物なのです」

 部屋の視線がレオに向く。横では、王座に足を掛けて立っていた王女が「それは言う必要もなかったでしょうに――!」と何故か小さく舌打ちをした。

 忌み事を唱えるとき特有の、息を潜めるような声音でアンバーは言葉を漏らす。

「彼の髪を、瞳を見てください。このような錆色、カルマでは見たことは無いでしょう?」

 沈んだ色味だったからことさら目立つことも無く、からかわれるくらいのものだったそれを、アンバーは世紀の発見のように掌で差し示す。

「これは、遠い昔に神子を独占しようと画策し、放逐された王族の成れの果て――その証に他なりません」

「は……?」

 レオが間の抜けた、空気を吐くような声を出した。その位、彼にとってその言葉は信じがたいものだったのだ。無理はない、水も食糧も乏しい、辺境の貧しい村で生きていたのだ。王族など縁も縁も無いような場所で。それが何故。

「別に王位継承権がどうとか、そんな遡上に載せられる話では無いわ。大昔血筋の者が一人城から出て行って、外で出会った娘と何人かの子をなして死んだ。その残骸がコレだというだけ」

 王女が侮蔑の表情でレオを見下ろし、剣を突き付けた。剣先からレオの血がぽたり、ぽたりと滴り落ちる。純血主義の元徹底的に教育された彼女からすれば、レオの存在は許されざるものなのだろう。

「そんな話……噂でも聞いたこと無いぞ」

「いきなりなにを……?」

 ざわつく臣下達に向かって、アンバーが滔々と説明する。

「遠い遠い昔の話でございます。スキャンダルを嫌った王族は、その事実を最低限の腹心だけに告げてすぐに黙殺した。幸いそこまで王位継承権の高い者でもなかったそうで、死んだことにするのも簡単だったようです」

「……それで、そのまま国民の中に王の血が混じったって事か」

 レオは視界を遮る錆色の髪を睨む。今まで意識したことも無かった。この髪を見て、王女の美しい髪を連想するものなど居なかっただろうが、その事実を知った上で見れば、確かに赤が薄まり劣化した結果にも思える。

「世の因果とは恐ろしいもの――過去に挫かれた野望が、長い時を経て再び成就されようとしていた――彼は、大胆にも神子に近づき、その御身を拐かそうと、いえ共に韜晦しようとしていたのです!!」

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