鮮血の赤、鉄銹の赤 02

 レオはまだ戻ってこない。アリスは彼が食器を小山のように抱えて出て行く後姿を思い出す。濃い色のソースが袖に付くのを厭ってか珍しく彼は袖をめくっていた。その腕に細く長く伸びる傷をアリスは見てしまった。

 今度こそ、巻き込んではいけない。

 その傷は約束の日を前にして、レオに甘えそうになっていた心を立て直すには十分すぎるものだった。別れの挨拶だけでも、という気持ちも一瞬で霧散した。猫のように背骨を伸ばしアリスは起き上がる。意味も無く部屋をうろうろする。まるで檻の中の熊のようだ。

「えっと……そうだな。お前らに罪は無いからな」

 おもむろにアリスは植物の世話を始めた。枯れた葉を千切り、配置を整える。仕上げに部屋の内周を巡る、細い水路に水を循環させる装置のスイッチを入れる。

 俺がここから出た後は、もう誰もこの部屋に入れない。城に置いていくものの中で、幼い頃から自分を慰めてくれたこの綺麗なだけの植物達だけがアリスの心配の種だった。溝を静かに水が行き渡る。月明かりの下、静かに流れ出していく水を眺めアリスは自分の頬を両手で打った。

「よしっ!!」

 そして吹っ切れたようにアリスは荷造りを始める。外出など許されていなかったアリスは手近なものを詰め込む鞄さえも持たされていない。隣室からレオの革のリュックを「餞別代りに貰ってくぞ」引っ張り出すと、部屋の中にある金になりそうな装飾品を放り込む。アリスに選定眼など無いので、とりあえず宝石の大きいもの、魔法金属や鉱石を含むものを選んでいく。哀しいかな荷物の中にアリス自身の思い入れのある物はほとんど無い。後は替えの服を何枚か入れただけで、後は何を入れればいいのかわからずにアリスは途方に暮れた。

「大丈夫――何とかなる」

 幾分自信なさげにそう呟きながら手近なものを放り込み、ぱんぱんに膨れたリュックをアリスは背負った。その重さにふらつき思わず情けなくなるが、仕様も無い。これから一人で城から脱出しなければならない。それができるのか、たとえ脱出したところで自分が外の世界でやっていけるのか。とっかえひっかえした専属のコックたちから聞き出した城外の様子をみるに、国自体は安定して昔ほどの治安の悪さはないようではあるが――「馬鹿、出る前に考えるんじゃねえよ」不安に押しつぶされそうになる自分をアリスは叱咤した。

 そっと廊下へ出ると、毛足の長い絨毯に足音を吸い込ませながら慎重に歩を進める。アリスが動ける領域なんてたかが知れてるが、幸運なことに目的地はその中にあった。自室からさほど離れていない廊下の突き当たり、白亜の扉を前にしてアリスは立ち止まった。扉と壁の境目が魔化学反応を起こして白い燐光を散らしている。アリスは長い袖の上着から、蛇のようにそろりと白い手を覗かせて、ドアの取っ手を掴んだ。扉全体に、光る毛細血管のような筋が一瞬浮かび上がりすぐに消える。アリスが取っ手を回すと、重そうな扉は見た目に反して呆気なく開かれた。

「さむっ――!!」

 吹き込んできた極寒の外気に思わず羽織の合わせを掻き合わせる。繋がる先は城に四角く刳り貫かれた中庭だ。先ほどの魔化学反応は冷気を城中に入れないためのものだったらしい。法衣のフードを被り、アリスが外に出ようと一歩を踏み出す――

 その肩に、骨ばった薄い手の平が添えられた。

「夜風は冷えます。身体に障りますよ」

 振り向くと、アンバーと三人の白衣の助手がそこには立っていた。

「なんで――――!?」

 アリスは白金色の瞳を見開いて顔を歪める。誰にも言わなかった。薬草の件以来大人しくしていた。今夜もいつも通りの一日であると、何年もかけて演じて来たのに。

「神子。私の愛情を、舐めないでください」

 朗らかな笑顔で笑うアンバーの両脇から助手が滑り出ると、アリスの身体を左右から挟んで拘束する。

「ずっと、ずっと見ていたんです。ねえ、貴方の正体、私にぶちまけてください」

 アリスの身体から力が抜けた。

 心が瓦解する。一八年間、振り回され叩き付けられながらも背負い続けてきた。贖罪するためだけに産まれたこの魂。それが果たせないのなら、自分はなぜこんな醜態をさらしてまで生き続けてきたのだろう。

 アリスの首筋に、注射針が差し込まれる。血管を流れる異物。まるでカルマの水を穢す毒のようだ。そこで、アリスは意識を失った。



「なあ父さん、なんで俺はこんな髪色なの?」

「なんでって、父さんも、母さんもそうじゃないか。変な事かいレオ?」

「だって、村でこんな色の髪は俺だけだよ。錆色錆色って、結構バカにされるんだぜ……まあ、そんな奴等全員俺がぶっ倒してやったけどさ」

「あーだからこの前あんなナリで帰ってきたのか」

「だって――俺は良いんだ。あと末っ子のミリアも。だけど他の弟や妹達は茶色だったり、黒だったり、髪色が違うだろ?だからよその家の子じゃないのかっていじめるんだぜ」

「なるほど、だからお前は怒ったのか。優しい子だな、だけど喧嘩ばかりじゃ心が荒む。お前に体術を仕込んでいるのは、嘘とわかる嘘に乗せられているふりをして、暴れさせるためじゃないぞ」

「……わかってるよ」

「拗ねるな。お前は本当に俺に似ているな」

「えっ!!父さんもそんなことしてたのかよ!?」

「――ああ、それは酷かったよ。お前と同じだ。腕白でいろんなことに腹を立てて――自暴自棄になったこともあった」

「じぼーじき?」

「全部が嫌になるってことだな。それこそ、この髪色まで憎んだ時もある。同じ髪色の、母さんの事さえも」

「父さんと母さん、仲悪かったの!?」

「どうだろう――近過ぎたのかもしれないな。自分を縛るものが肌を隔てて尚、目の前にあったんだから」

「よく、わからねーよ」

「ははっ、悪い悪い。レオ、お前はミリアが好きか?」

「当たり前だろ!まだちっさいし、俺が手を引かないと歩けもしない」

「そうか。それは、よかった」



 数年後、枯れた二年でミリアも父も死んだ。二人が死んで母は悲しみの淵に沈み、程無くして後を追うように死んだ。皆、飢餓と、それによる体力不足が招きよせた病気でだった。平時なら二三日で直るような風邪や、胃腸炎、そんな簡単な病気が致命傷となり死んでいった。普段なら絶対に口にしない毒のある仙人掌や、岩筍、加工した革まで食べて飢えをしのごうとし、それが原因でまた人は死んだ。枯れた二年には、そんな悲劇が蔓延していた。

 だからだろうか、アリスは必要以上に食べ物を口にしない。食事が嫌いなわけでもなさそうなのに、大皿を出すと途端に嫌な顔をする。そんな顔を見たくないので、レオも少量の食事を多種類出すことで対抗する。そんな日々の影響で、今運んでいる誕生日ケーキも小さなものだ。

「アーリース!」

 扉をノックするが、返事は無い。待っていても出てくる様子も無く、レオは一旦皿を廊下の花瓶立ての横に置いて、アリスを探し出す。小さな声で呼びかけながら何度か角を曲がり、行き止まりに行き当たったところで怪訝な顔をする。

「――ん?」

 よく見ると、壁から淡い光が漏れ出ている。扉があるらしい。それよりも、その前に散らばるものが気になって近づく。

「やっぱり……」

 見慣れた自分のリュックが転がっている。拾い上げると随分重い。中を改めると、宝石やら衣服やら、小さなぬいぐるみから、植物の種らしきものまで――どうやら旅の準備と思しき品々が一切整理されることなくもみくちゃになって詰められていた。レオはすぐにアリスの仕業だと確信する。自分のリュックを奪って、どこかに行こうとしていたのか。

 俺に一言の挨拶も無く。

「――くっそ!!」

 レオはリュックを背負って走り出した。いくつか不要なものが散らばるが気にしない。全力でレオは廊下を駆け抜ける。アリスは逃げようとしていた。だが、あの状態から上手く脱出できたとは到底思えない。親衛隊か殺戮王女の手先に阻まれて――いや、親衛隊なら部屋に連れ帰っているはずだ。きっと親衛隊ではなく、殺戮王女と神子学者だろう。そいつらにまた酷い目に遭わされているに違いなかった。過去に反抗の疑いがかかって一度アリスの心は壊された。それが二度目なら、次は守り通した紛い物の自我さえ磨り潰されてしまうかもしれない。

 人形のように瞬きすらせずに椅子に座らされているアリスを想像して、背筋が寒くなる。そんなこと、絶対に許さない。

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