第五章

鮮血の赤、鉄銹の赤 01


「アリスの心には、ダムがあるのよ」

「ダムってなあに?」

「水を堰き止めて、いーーーーーっぱい溜めておく所よ」

「いーーーっぱい?家の水瓶よりも?」

「そんな小さいものじゃないわ!もおーーーっと、この村より大きいの」

「この村?」

「――そうよね、アリスはこのお家から出たことないものね。えっと……とりあえずとっても大きいのよ!」

「僕の中に、そんなに大きなものがあるの?」

「ええ、胸に手を当ててみて」

「どくどくいってるよ」

「そうよ、それはカルマの水が循環する音。でもその殆どは、実はこっそりあなたの心に隠してあるの」

「こわいよ母さん。じゃあいつか、僕の心から――そのたくさんの水が溢れちゃうの?」

「大丈夫。あなたは強い子よ。頑丈な心のダムを持っているから、心配いらないわ」

「ほんとう?」

「ええ、本当よ。だからアリス、あなたは決して、あなたの心を揺らしてはいけないの。怒ったり、悲しんだり――必要以上に喜んでもいけない。穏やかに、静かに、そして理性的でいてほしいのよ。そうしないと、心のダムから感情と一緒に水が溢れだしてしまう」

「そうしたら、どうなっちゃうの?」

「きっと、連れて行かれてしまうわ」

「誰に??何に??」

「とっても怖い人達よ。心のダムを独り占めしようとするの。あなたの心も、感情も無視して」

「いやだ、そんなの。いやだよ」

「大丈夫。今、必死でアリスの事を隠してくれている人がいるの。年老いて、独りぼっちで、だけど、あの人は頑張っている。それに、アリスを守ってくれる人達も勿論いるのよ。もう錆びついた紅だけど、盟約は果たすって言ってくれているの。だから、アリスも頑張らないといけないわ」

「僕に、できる?」

「ええ、心を整える方法を、ゆっくり勉強しましょう。そして、準備するの。アリスが十八歳になる日が、丁度合図の日。その来るべき日に、使命を果たすために。久遠の昔から連綿と続いた魂と贖罪――それを、やっと、やっと貴方が終わらせるの」

「うんわかった!僕、頑張るよ。だって」


 母は、僕の神だったから。


 夜が来る。アリスはベッドに転がって、息を潜めるようにその時が訪れるのを待っていた。蔦植物が覆い茂った天蓋から、藤の様な薄い紫の花が垂れ下がり、彼を慰めるように僅かに揺れる。

「もうちょっとだぜ――ほら謳えよ?ハッピィバースデイ俺」

 誰も知らない自分の誕生日。神子は再誕のタイミングで涙して居場所を知らせるので、自ずと生れ落ちた日は皆に知れ渡る。だがアリスは生まれた時に泣かなかった。青命線デッドブルーの大動脈を守護する寺院の巫女であった母が、院内の泉でひっそりとアリスを産んだからだ。アリスは胎内から揺蕩うままに送り出され、水中から取り上げても全くぐずることなく眠っていたらしい。そして、そのまま母はアリスを抱えて寺院から逃げ出した。

 何故母がアリスを神子だと確信した上で産んだのかはわからない。だが時折「水に触れると、沢山の声が聞こえるの」と聖母の如き表情で呟く母が狂っているとは到底アリスには思えなかった。

「なあ、どうやるんだ十八歳の俺?力もへなちょこで、祖字も出せず、頭も悪い。周りにあるのは綺麗なお花だけだ!」

 アリスの細い指が花の群を擽る。じゃれる様な仕草に反して、彼の目は虚ろだ。自らの額に爪を立てて強く目を閉じる。まるで現実を受け入れたくないというように。

「わかってるよ。わかってるんだかあさん。俺が悪い。僕が全部。世界でもカルマでもなく、俺が欲した。だから簡単に決壊した。あれは故意だろ?――ああ、そうだよ。僕は僕の意思で俺が今こうなることを選んだんだ。そうしたら――母さん。やっぱり世界は俺から全部奪ったよ。僕さえも」

 独り言はこの城に連れてこられてから激増した。自分一人の為に絵本を読み聞かせ、自分の一人の為に言葉を呟いた。そうでもしないと使われない声帯が溶け落ちてしまいそうで、アリスは怖かったからだ。

「僕は――強くなかった。涙は止め処なく流れて皆を潤す。でも、それでもいいのかもって思うんだ。だって中途半端に立ち枯れていたあの二年分の罰を受けなければいけないでしょう?え?それは僕が葬送されて手打ちになったって?そんな筈――そんな筈ねえだろ」

 アリスは瞬膜の張っていない、透明な瞳を瞬かせて真っ直ぐに天井を睨みつける。自分は壊れた蓄音機に似ていると思った。過去の残響に耳を傾けて、正気と狂気の狭間で自己を定義しようと躍起になっている。

あかが来ようが来まいが俺はやらなければいけない。俺がやるしかねえんだよ。積み上がった罪を、いつか誰かが贖わなきゃいけない。「次のお前が」なんて託すようなこと言っていいのは、やり遂げようとして死ぬ時だけだろ」


 レオは厨房で二人分の食器を片づけた後、いそいそと冷蔵庫から小さな皿を取り出した。

「へへっ、アリスびっくりして泣いちまうかもしれないな」

 先日部屋に侵入してきた大きな甲虫に仰天して泣いていたのは記憶に新しい。他にも好きな食べ物をしこたま食べさせたら泣き出したり、流行の活劇小説を読ませたら感動して泣き出したり――大きな音に肩を跳ねさせて涙ぐんでいたこともある。その度に空は曇り雨が降り出しているのだから、さぞ王女や神子学者は愉快な事だろう。

「後はここに飴で名前を書いて……」

 レオが真剣に向かう皿には、手の平に納まるほどの小さな円形のタルトが慎ましく鎮座していた。果物をふんだんに使ったタルトの周囲に、金色の飴で丁寧に文字を描いていく。ハッピーバースデーアリス。レオの細やかながらの祝いの品だ。

「よし!」

 仕上がった皿を慎重に持ってレオは厨房を出る。

 レオは、誰も知らないはずのアリスの誕生日を知っていた。

 それは、村での生活でのこと。アリスの母親が、一年に一回だけ奮発して食料を買うのをレオは何度も店先で見ていたのだ。彼女は何も言わなかったが、それがアリスの為の物だろうと察していたのだろう。父母いつもその日の彼女の買い物には気前良くおまけを沢山つけていた。両親がしみじみとした表情で「またひとつ歳を取ったんだなあ」と呟いていたのが懐かしい。

 それが印象的だったせいだろうか、その日が今日だということも、レオはちゃんと覚えていた。

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