その理(ことわり)の裏側は 05
「ああ驚いた。貴方が此処に来るとは思いませんでした」
青く輝く祖字で構成された術式が、くるくると部屋中を踊り回る。その輪を全く乱すことなく、研究室の戸口に凭れ掛っているレオに向かってアンバーは笑いかけた。
「レオ君がここまで入れる権限を、前に連れ込んだ時から付与したままになっていたんですね!」
「良く言うよ。てめぇ、俺が来るの待ってたんだろ」
「何のことでしょう?」
舌打ちしながらレオは研究室内へと足を踏み入れる。ばら撒かれた羊皮紙を何枚か踏んだが心は全く痛まない。
「術式の紋には触らないでください。今実験中なんです」
「神子学者が実験なんてするのか?」
ネオンブルーに光る無数の祖字は目まぐるしく宙を動き回っている。それらは組み合わさり統合し分離し拡散し、多種多様な論理式や魔方陣や魔法式へと構造を変えていく。不思議なものだ。カルマを祖字を紙に記すことは無い。音として発することも無い。口伝も、記述も残らないこの文字を、だがカルマの一定の人口は、まるで最初から魂に内蔵されていたかのように書き出すことができる。だからと言って誰もが祖字を自由自在に操れるわけではない。訓練や勉強によってその後の修練度は大きく変わるし、個々の才能に依存するところも大きい。
「頭いてぇ……」
終わりの無い問題を解かされているような気分になり、レオは見ているだけでげんなりしてくる。もともと学術はさっぱりなのだ。最終手段として、焦点を祖字からずらすという強引な対処を行ってレオはストレスから自分の脳を解放した。
「まぁこれは趣味みたいなものですけど。今日は助手もいないし好き放題できるので」
今、アンバーは魔術、化学、呪術に加えて魔法物理、魔科学などを複合的かつ多面的に祖字で展開し、部屋中に張り巡らせていた。彼は紛う事なき天才だった。神子学者であることが勿体無いくらいの。
「とんでもねえな……」
レオは手近にあった堅い木の椅子を引き寄せて、背もたれを抱えるようにだらしなく座る。しばらく星空でも眺める心持ちで乱舞する文字を眺めていたが、思い出したよういレオの口が動いた。
「なあ」
「はい?」
「殴ってもいい?」
「後にしてください」
「わかった」
あっさりと却下され、あっさりと食い下がる。怒りは一晩中煮詰められて今はどろどろとした熱いマグマに姿を変えている。
「アリスから少し聞いたよ。お前、あいつから全部取り上げたんだな。名前も、薬学も、アリスがアリスたろうと大事にしてたもの全部を」
「そうでもありません。一番大事なものを、彼の脳は守り切りましたから」
「黙れ。それは搾取する側の傲慢な視点だ」
レオはこれだけ穏やかに憤怒を飼い慣らす自分に驚きを感じながら、アンバーのマッチ棒のように縦長の背中を見つめていた。
「その作業終わったらしばらく歩けなくなるだろうし、成功すると良いな」
へらりと笑う気配を感じたのか、アンバーが一瞬だけ不快な顔でレオを睨む。
「部屋中の祖字を収束・拡散させれば、貴方はすぐに店先に出せるミンチになりますよ」
「おーこわい。やってみろよ」
「嫌です。部屋も汚れますし、何よりここまで必死に組み上げてきた式が勿体無い」
冷たく言い放つアンバーの白い頬に、一筋の汗が流れる。
「くっ……しばらく口に石でも詰めていてください」
部屋中を舞っていた大量の祖字が、続々とアンバーの正面へと集められ、酷く軋んだ音を立てて強引に織り上げられていく。
「……っつ!!」
玉の汗を流しながら、アンバーは両手を前に突き出した。強引に配列されていく祖字達が、その動き逆らおうとのた打ち回り、蛇のように暴れては構成式を崩そうとする。
「大人しくしなさい!」
アンバーが駄々っ子を叱り付けるように力づくで祖字を組み上げようとした瞬間、凄まじい破裂音と共に、いきなり祖字の群体が砕け散った。
「なんだ!?」
レオは反射的に椅子から飛び退る。だが、衝撃波と共に破片となって舞い散る祖字だったものは、レオの身体を傷付けることなく消えていった。
アンバーはガラスの破片のような残滓が降り注ぐ中で立ち尽くしている。その顔は、漂白でもされたかのように青褪めていた。
「おや?それは……」
夢心地の表情で振り返ったアンバーはレオを包むものに目を留めた。再度祖字が彼の周囲に、疎らに浮かび上がる。しかしながら相当量の魔力を爆散させた直後では、祖字はふらふらと頼りなく揺れるだけで組み合わさることも無く単体のままだ。アンバーはそれでも掌をレオに向ける。
「なんです。レオ君もそれなりに術式の嗜みがあるのですね」
「げっ……また消し忘れた……」
レオの周囲を、白く光る祖字が輪となって包んでいた。幾重にも重なるリングは彼を包むようにも、拘束しているようでもある。先日殺戮王女の剣に巻きつき宙へと弾き飛ばした祖字列と同じものだった。
「まぁ、素人に毛が生えた程度だよ。本職はあくまでコックだからな」
苦笑いするレオを他所に、まだ何の術式も構成していない白い祖字列が、力を持て余しているかのように加速して回る。相対するアンバーは険しい顔で祖字を再構築しようとするが全く形を成していない。
「変わっていますね――白い祖字は初めて見ました。何も記すことができない色を、祖字が宿すとは興味深い」
「何言ってんだよ、間違いを正すときは白い文字をつかうだろ?」
「正すならば朱文字でしょう。あなたのそれは間違いを隠す色です」
「やだなぁ、アンタとしゃべってると終わりが見えなくなっちまう」
終わり終わりっ、と祖字列を霧散させてレオは構えを解く。しばらくアンバーは警戒して祖字を消さなかったが、何かに耐え切れなくなったのか急に身体を屈ませて奥の部屋へと走りこんでいった。
「?」
後を追ってレオが奥の部屋を覗く。茶でも入れられるように小さな流し台が設けられており、そこにアンバーが薄い身体をくの字に曲げて胃の中のものを吐き出しているところだった。どうやらさっきから顔色が悪かったのは、競り上がってくるものに耐えていたからのようだ。
「おい、大丈夫か?」
殴りには来たが、吐かせに来た訳ではない。レオはげんなりした顔で心の篭っていない声を掛ける。
もちろん、相手は返事をするどころではない。しょうがなくレオは元の研究室で引っくり返った椅子に座り直し待つ。
十分程度経っただろうか、乱れた髪もそのままに、水の入ったコップを片手にアンバーが部屋に戻ってきた。幽霊のような足取りで壁際に近づくと、背の高さほどもある本の山を体当たりするように崩す。そして、そこから発掘された安楽椅子に力無く腰掛けた。彼が動く度に、本の山が悲鳴を上げて瓦解する。
「魔術の反動で吐くなんて少々素人過ぎやしねぇか」
まだ気分の悪さが抜けないのか、脱力しきって椅子に座る神子学者の姿に毒気を抜かれてレオは手を出すに出せずにいた。
「貴方が私と同じことをやったら、廃人になりますよ」
「今の、何やってたんだ?」
「とても愚かな事です」
何度も失敗している事なのか、失敗への動揺など一切無い代わりに、彼からは疲れと諦めが滲み出していた。魔術は精神に依存する。使う術によってはたった一度の失敗の対価が死となることも往々にしてある。術を使用できるレオは反動の恐ろしさも経験済みだ。だからこそ、それを繰り返す人間が理解できない。
喋るのも辛いのか、言葉の間をいつもより空けながら、アンバーはゆっくりと口を開く。
「レオ君は、本当に高々人間が雨を降らせるとお思いですか?」
すぐに誰を指しているのか気付く。
「なんだよ?アリスは実際に雨を降らせてるじゃねえか」
「では、不思議だと思いませんか?ここまでカルマは高度に成長した科学や魔術を持ちながら、なぜ水に関する一切の技術のみに進歩が見られないのでしょうか?」
気持ち悪い。単純にレオはそう思った。いや感じたというべきか。淡々としたアンバーの声が自分の鼓膜を震わせる度に、背筋を虫が這いずり回るような嫌悪感が走る。
「そして今、貴方が感じている居心地の悪さ。おかしいと思いませんか?」
はっとしてレオは学者を見た。なぜ自分の感覚までアンバーに悟られたのか。
「私はね、不思議で不思議でしょうがなかったんです。ご理解いただいている通り、私はこの国で有数の知能を持っています。それでも、この世界を構成する要素を日々研究するにつれて疑念は深まるばかりなのです――なぜ、水なんていう単純な物質を、私達は作り出すことができないのか、とね」
学者は持っていたグラスを掲げた。ゆらゆらと液面が揺れている。
「実際、私の頭の中にはこの物質を作り出す術式や数式が出来上がりつつある――――でもね、駄目なんですよ。数式も術式も、頭の中から
冷や汗がレオの背中を伝ったのは、ますます強まる悪寒のせいだけではなかった。
「神子だけが涙を流せる。涙が雨を降らせる。だから神子だけが雨を降らせられる。この定義を、私は疑う」
頭に浮かぶのは、子供の頃のはにかむように笑うアリスの姿だ、
そして十年たった今、苦々しく涙を流していたアリスの姿だ。
「アンタ……そこには触れちゃいけないだろ……」
あいつが涙を流すのは、あいつが神子だから。
あいつにしか世界を救えないから。
そうだ。そのはずだ。
「禁忌。まさにその通りです。奇跡を起こす神子のメカニズム。それこそまさにカルマの禁忌とされてきた、暴いてはいけない秘密なんですよ。誰も手を触れてはいけない。解体してはいけない。追究してはいけない」
白く細い手がグラスを揺らす。ぐらぐらと水面が波打つ。
「まあ、これを禁忌としたのは神聖視というより、先ほどの私のような無鉄砲な行いをする人間への牽制という意味合いが強そうですがね――――結果、それを考えた人間は隠し続けることに成功した」
アンバーは勢いよくグラスを傾ける。カルマが何よりも尊ぶ水が、毛足の長い絨毯に吸い込まれていく。
「本来はこうやって流れ落ちていくはずの水を、塞き止めているのが一体誰なのかということを」
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