その理(ことわり)の裏側は 04
だが、その幸せも長くは続かなかった。
何の予兆もアリスは感じていなかった。いつも通り夕刻に涙を流して雨を降らせ、自室に戻ったところで、アリスは目を見張った。
花々に溢れ、光に満ちた美しい空間。だがそれだけだ。それだけになっている。
「嘘だ……」
アリスはゆっくりと膝をつき、装飾品めいて華やぐ花壇に手を差し込んだ。一つ一つ、自分が株や種から植えたものだ。どこに何が生えているかアリスにはすぐ分かる。
だから、すぐに無くなっている事にも気が付いた。
「ラキウルリリィ……」
花壇の土がぽっかりと抉れている。そこにあった植物の名を囁いて、アリスはさらに花壇をかき分ける。
「カエキュオラス……ヒッキド……フィオーネリス……」
どれも、根こそぎ引き抜かれて無くなっている。アリスの目が、絶望に曇っていく。周囲を見渡す。無くなっている鉢植えもいくつかある。その欠落が意味するものをアリスは既に理解していた。思わず感情のままに床を叩く。
耐え難い、仕打ちだった。
「どうされましたか?」
扉の向こうから、キリの声がする。アリスが念じると、扉に刻まれた紋章が光を放ち、開錠の音が響く。
「神子殿?」
「……キリが、やったの?」
美しい花々に囲まれ、光を浴びながら、壮絶な表情でアリスがキリを睨みつけていた。
「何をおっしゃっているのです?」
「キリが、此処にある薬草を全部抜いたのかって聞いているの!!」
そう、無くなっていたのは、アリスが世界中から集めていた、薬草達だった。
薬学は、閉ざされた城の中でのアリスの唯一の生き甲斐だった。神子の特権である水の濫用。それを利用すれば、好きなだけ薬草を栽培することができる。人の為になることを、神子ではなくアリスの力で成せるかもしれない。それは、城の中で窒息しそうになりながら生きていたアリスにとって、唯一の自己を満たせる希望の光だったのだ。
普通なら、自分が神子で、涙が雨を呼ぶのなら、それだけでその人間は充足していただろう。歴代の神子達は実際そうだった。与えられた役目を疑いもせずに果たしていた。
だが、アリスはそうあれなかった。
「私ではございません。どうされたのです」
キリが屈んで小さなアリスと視線を合わせる。困惑する宵闇色のキリの目に嘘は無かった。だが、あまりの怒りにアリスは感情をコントロールできない。
「嘘だ!お前が僕がいない内に薬草を抜いたんでしょ!?なぜそんなことをするの!!なぜ!!なぜ!?なぜっ!!」
アリスはキリの胸を叩く。
「僕が、薬を作ろうとすることがそんなに可笑しい!?お母さんが死んだのは、病と栄養失調のせいだった。同じ病気で死ぬ人を助けたいと思うことは間違いなの!?僕が、神子が何かをしようとすることは、許されないことなの――!? 僕には、死ぬまで何の役にも立たない、綺麗なだけの花を育てていればいいと!?」
やがてアリスは大きな声で泣き出した。硝子の天蓋を雨粒が叩く。キリは困り果てたようにアリスにされるがままとなっている。アリスが疲れて眠ってしまうまで、キリはそのまま癇癪を起した神子に付き合うしかなかった。
それから数日間、アリスは雨を恵むことなく部屋に閉じこもった。初めての明確な神子の反抗に、城中の者達が保護者である殺戮王女へ責めるような視線を向ける。彼女が痺れを切らすのに大した時間はいらなかった。皆が寝静まった夜に、二人は緋の間に呼び出された。
「どうしたの!?貴方がきちんと監督するという話でしょう!!」
鎮静の香の充満した緋の間に、殺戮王女の激昂した声が響く。神子学者は「申し開きもございません」と深く頭を垂れて微動だにしない。その横で、同じく頭を垂れたままキリが苦み走った顔で沈黙していた。王女は今にもカトラスを抜き出して二人の首を刎ねんばかりだ。なんと答えるべきか逡巡していると「まかせて」とアンバーが小さく囁いた。それどころかキリの見間違いだろうか、彼は口の端だけで笑っていた。
「王女様――私は恐ろしい事をお伝えせねばなりません。この場に呼びつけ人払いをしていただいたこと、深謝いたします」
王女が眉をピクリと動かした。実際は神子の世話をアンバーにまかせっきりと言う事実を公にしたくないがための人払いだったが、それをアンバーは逆手に取り、王女に話を聞く気にさせていく。
「何?聞かせなさい」
「できれば、王女様と二人きりでお話ししたいのですが」
「なんだと?」
突然の事にキリが狼狽えるが、王女はすぐに「出ていきなさい神子の狗」とにべもない。だが流石に王女に逆らうこともできず、キリは不気味に笑うアンバーを置いて部屋を退出するしかなかった。
「やっと、ご報告を申し上げることができます」
そこでアンバーが話したことは、にわかには信じられないことだった。
だが、王女は信じた。
そして、信じられない決断が下される。
「神子を、ここへ」
「ええ、ええ。すぐにお連れします」
アンバーが喜色満面の笑みで両手を上げた。
さあ仕上げだ。神子がやっと手の内に納まるようになる。
深い森に迷い込んだような嗅ぎなれない香りに、アリスの小さな鼻がぴくりと動く。
「ん……?」
アリスが起きると、そこは真っ赤な緋の間だった。夜中なのか、部屋は薄暗い。天井の豪奢なクリスタルのシャンデリアも今は灯が落ちており、いくつか立てられた燭台の頼りない光だけが部屋を照らしている。
アリスは何故か王座に座らされていた。紅い革張りの腕置きに汗ばんだ肌が張り付いて気持ち悪い。
「アンバー。どうして僕がここに?」
くたりと姿勢を崩したまま、アリスは正面に立つ神子学者に目を眇めた。だが、珍しく彼は笑みの一つも浮かべずに、真面目な顔でこちらを睨んでくる。
「お前は、なんだ?」
その問いに、ぴくりとアリスの長い睫毛が揺れた。ゆるりと、砂漠の月にも似た、乾いた冷たい瞳が瞬く。
「神子だよ。僕は。望む望まざるに関わらずね――」
「何故、お前は九歳まで神子ではなかった?」
アリスは無言だ。伝える言葉など持たないというように。
「では、
大きな緋色の椅子に裸足の足を放り出して座り、人形のようにアリスは反応をしない。アンバーが階段を上り、アリスのかんばせに至近距離まで顔を近づける。
「おかしいでしょう?あなたのその目は、生まれた時からそうだったはずだ」
瞬膜に覆われていない瞳は、傍目に見て気付くほど外見上の違いは無いが、本人や、親ならば流石に気づいたはずだ。
「先代の神子は、死ぬまでの最後の七年間、僅かな雨しか齎すことができなかった。そして
「わかりません」
全く感情の乗らない、音と言ってもいい程の声音。たった一言、アリスはそう言った
「先代の神子が言っていました、『この国を騙してやった』と。あなたは明確な意図を持って隠されていたのでしょう?なのにどうして急に泣いた?何の必要があって?」
「わかりません」
「お前の親は、何か言っていなかったのか?」
「わかりません」
「隠していたのか?知らなかったのか?」
「わかりません」
「逃げていたのか?」
「わかりません」
「この段で城に入ったのはなぜだ?」
「わかりません」
「――お前には、カルマを救う気があったのか?」
そこで、初めてアリスは視線をアンバーと絡ませた。
「うん――もちろん。ずっと、そう思っているよ」
口元だけを微かに綻ばせて、アリスは言い切った。その決意の籠った表情に、アンバーは戦慄する。
この神子はやはり、歴代の神子と決定的に違う。そこに漂う悲壮感、使命感に知らず慄いていたのか鳥肌が立っていた。幼子が抱くには不釣り合いな、底の知れない執念に恐れすら感じた。
「やはり、これは危険」
突然、鈴を転がすようなあどけない声がアリスの耳元で響いた。そこでやっとアリスは全く気配を感じさせずに、王座の真横に横たわる黒い箱の上に腰掛けていた殺戮王女の存在に気付く。
「この神子の脳からはずる賢い鼠の臭いがする――檻に入れておかないといけないわ」
アンバーがアリスの頭を両手で包む。優しく、だが逃げられないほどにしっかりと。
「神子、あなたは少し危険すぎる。もう、知恵を付ける必要もない。その存在はただ、カルマを雨で恵むためにあってくれればいいのです」
それは、アリスにとっては死刑宣告にも等しかった。やっと見つけた生き甲斐まで奪われて、どうやって生きていけばいいのか。
茫然とするアリスの首元に、注射が突き立てられる。痛みに顔を顰める暇も無く、アリスの意識に靄がかかる。それから、脳が直接揺らされるような鈍痛がアリスを襲った。
「な……なにを」
逃げる場所も無いのに、アリスは反射的に椅子から立ち上がろうとする。だが、平衡感覚が麻痺していてまともに立つこともできない。
「あなたはカルマの宝です」
ずるりと椅子から滑り落ちた身体を、アンバーが持ち上げた。その上下の移動だけで、内臓が引っくり返ったように痙攣し、アリスは吐き気を堪えて小さな両の手で口を押さえる。
「泣いてください。我々のために。小さな籠で、永遠に」
そして、アリスの心は弔われた。
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