その理(ことわり)の裏側は 02

 アンバーはスキップしながらその部屋に向かっていた。

「ん~~~♪ふ~~~ん♪ふふふっ♪」

 歌に合わせてネオンブルーの祖字がポップコーンのように宙に弾ける。白い頬は上気して紅潮し、羽が生えているかのようにその足取りは軽い。相変わらずまだ国中は飢餓と荒廃で死に満ち溢れていたが、ほんの三日でカルマの纏う空気は激変していた。

 神子が見つかった、雨が降った。

 この事実が口から口へと、たった一晩でカルマ中を伝播したのだ。奪い合い、殺し合うことも厭わなくなりつつあった民たちが、ぴたりとその手を止めたのは流石と言うべきか。今では極悪人さえも雨を求めて印を組み、皆して祖字を天に捧げているという。

 雨は三日間で二度降った。その内一回は発見される直前の辺境の村で、そして二回目はこの城に来る道中でだ。

 今神子は来賓室にいるという。神子の自室は彼にしか開け閉めができないから、まだ入れるのは早急だという判断だ。城に来てからまだ雨は降っていない。新しく保護者となる殺戮王女は神子を連れ帰ったものの、それ以上どうすればいいのかわからずまともに話もしていないようだ。

 城中に今か今かと雨を待つ期待感が募っている。王女はすぐに音を上げてアンバーを呼び付けた。何でもいい、雨を降らせろ。できるだけ多く、できるだけ沢山。

 竹を割ったように簡潔な命令にアンバーは興奮を隠しきれなかった。それは、神子に対して、自分が何をしてもいいということに他ならない。

 来賓室の前には親衛隊が四人立っている。その一人が知った顔だったのでアンバーは上機嫌のままに手を振った走り寄った。

「キリ!!やっとこれで君も本業に邁進できますね☆」

 まだ二十歳にもならない、青年というより少年の出で立ちのキリは、アンバーを見て露骨に嫌そうな顔をした。

「アンバー……なんだその荷物は」

 大きな袋を背負った神子学者は、小首を傾げる。片側に長髪を流していたが故の悪癖だが、今は水不足の折にバッサリと髪を切ったのでかさりと毛先が揺れるだけだ。

「その内研究室に来てもらおうと思っているのですが、まずは僕がその部屋で過ごした方が良さそうだったもので」

「意味が分からないのだが」

「だから、神子と一緒に暮らそうと思って」

「よしわかった。一刀の元に伏してやるから、そこに跪け」

 キリが刃物のように眼を鋭くして剣の柄に手をかける。

「やだなあ、勅命ですよぅ」

 アンバーは朗らかに笑って書類を一枚突き付ける。白い紙の上に王族専用のバーガンディのインクでもって、確かに神子の近辺に付き添うべしという命が記されている。しかも、親衛隊に対し、アンバーのその一切の行動の制限をしてはいけないという追記まで添えられていた。

「ね?」

 親衛騎士達が動揺したように息を漏らす。彼等からすれば、自分達が神子を守る存在であるところを、どうして学者風情にその役目を取られなければというところなのだろう。

「勘違いしないで。今まで通り、貴方方は神子の警護を続けてください。私は神子を守るために此処に来たのではありません」

 もっと大切な目的の為です、と続けそうになったが流石にアンバーもそこまで言うのは止めた。

「……あまり神子殿をまだ刺激しない方が良いのでは?今までとは違い、つい三日前まで村の子供として生活していたという。いきなり城に連れてこられて状況もわかっていないはずだ」

「ならわからせてあげましょう。御自分が、どれだけ民に切望され、期待され、崇拝される存在なのかを」

 アンバーは来賓室のドアノブに手をかけて押し入った。勅命を前に、親衛隊達はそれを見ていることしかできない。

「絶対に、覗かないでくださいね――なんて、まるでお伽噺みたいですね❤」

 ドアを閉じて部屋を見回す。来賓室も何部屋かあるが、ここは城の中で最も高い階にある、最も豪華で広い部屋だった。天蓋付きのベッド、分厚い絨毯、細緻な刺繍の施された遮光カーテン。

「おや?」

 神子の姿が見えない。アンバーは視線を巡らせると、ベッドと壁の間の小さな隙間にシーツが被さった小さな塊がある。クスクス笑いながらアンバーは歩み寄るとシーツを取り払う。

 だがそこにあったのは、ベッドサイドにあった照明だった。はっとすると同時に、ベッドの下から子鼠のごとく小さな影が駆け出していく。一直線に扉まで向かうとそのままドアを開けて外へと逃げ出した。

「……あっ!」

 だがそこには親衛隊が立ち塞がっている。そう、彼らは決して外からの侵入者だけに警戒しているのではない。初の外育ちの神子の脱走にも警戒していたのだ。すぐに幼い脱走者はキリによって抱え上げられ、部屋に連れ戻された。アンバーは連れ戻された新しい神子と正面から向き合うような形となる。

「……驚きました」

 アンバーはまじまじと神子を見つめ、手を伸ばす。

「当代で、ついに神子が女児にでましたか」

 烏の濡れ羽色艶をしたある髪に、カルマを象徴する日に焼けない白い肌。そこに鏡のように丸く大きな白金色の瞳がふたつ、凪いだ砂漠のような静かさでアンバーの姿を映している。長い睫毛に縁どられた可憐な表情は、どの歴代の神子よりも綺麗だった。

 思わずその頬に触れようとしたところを、手を掴まれた。栄養も満足に摂れていなかっただろう体の小ささに反して、硬い皮の張った掌から伝わる力は意外な程強い。

「やめて……ください」

 落ち着いた声だった。無謀な脱走を計った直後だというのに、その顔には悔しさのかけらもない。この子供は、一体何を考えているのだろう。むくむくと好奇心が湧き上がる。

「これは失礼いたしました。改めましてご挨拶をさせていただきます。ようこそカルマの城へ。私は神子学研究室室長、アンバーと申します。この度のご再誕を慶び申し上げると共に、貴方様が神子としてのご使命を果たすことを、今日より身を粉にして私めが補佐させていただきます」

 アンバーの慇懃無礼な態度に神子は戸惑うように瞳を揺らす。単純に、どうしたらいいのかわからないのだろう。城育ちの神子と違い、立ち振る舞いなど学んでいないはずだ。

「神子様、貴方のお名前は?」

「……アリス、です」

「そうですか。では神子様、今日よりその名前は二度と人前で口にせぬよう」

「え?」

「貴方は我々を救うために神より遣わされた御子なのです。救済の象徴、そこに俗物的な名は、必要ないのです。神子様、ご理解ください」

「……僕は、アリスです。名前はすべての元になるもの。それを捨てることはできません。たとえ捨てたとしても、それが僕を僕としていることを、僕は忘れないでしょう」

 これは中々骨が折れそうだ。アンバーは心の中で苦笑した。そう言い切ったアリスの瞳には敏い光がある。元々頭が良いところを、さぞしっかりと育てられたのだろう。九歳という年齢にして、既に自己を確立している節があった。

「承知いたしました――ただし、城の者には絶対に名前を伝えないように。御名から出自が――神子の過ごされた村がばれてしまう可能性があります。そうすれば、無用な謂れをその村の住人が受ける事にもなりかねません――例えば、その村の住人がもっと早く貴方が神子だと気づいていれば、枯れた二年ラストダンスが起こらなかったのでは、ですとか――あまつさえ、神子を独り占めするために隠していたのでは――などとね」

 神子の顔がみるみる真っ白になっていくのを見て、アンバーは笑いをこらえるのに必死だった。賢いが故に、ある程度の言葉でこちらの意図を理解してしまう。哀れにさえ思えた。

 実際は神子の見つかった村は王都から供給される水量も増やされ、村人たちは何の否も受けることなく恵まれた環境で誇らしげに暮らしているはずだ。だが、それを今後城から出ることが無いアリスが知れる筈もない。

「わかりました。僕の名前は、誰にも言いません」

 それは、アンバーの命じた名を棄てることと結局は同じだ。呼ばれない名前など無いものと同じ。

「賢明な判断です。神子、貴方は思慮深い」

 手練手管で人を籠絡するのはアンバーの得意とする所だ。多少時間がかかってでも、この子供を屈服させる。

 そうすれば神子の解体と言う世紀の大事業はもう自分の掌の上だ。

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