第四章

その理(ことわり)の裏側は 01

 十年前、カルマの理の歯車が、軋み歪み始めた日。

 夕刻、太陽は今日最も強い輝きで白亜の城を夕焼けで侵そうとし、城下町の人々はその明るい色彩に極寒の夜を早々に感じて、いそいそと帰り支度を始めている。日が沈む頃には王城は砂の海に浮かぶ灯台となる。城の各所に施された発光鉱石が城を淡く明滅させ、砂漠を進むキャラバンや商船の指針となってカルマを導いていくのだ。

 城の奥の奥、秘匿された部屋の中。老齢の男が繭の中で微睡んでいる。乾ききった、枯れ木のように細い身体をクッションが包み込み、流線型の安楽椅子がゆらりゆらりと揺れている。この国では珍しい蔦植物が、椅子に足元から絡みつき長く成長しており、男は瑞々しい葉に皺だらけの指を触れさせて目を細めた。

 だが、男の瞳は曇った金属のように濁った色をしていて、もう視線を結んではいない。

「アンバー君」

 男は昔の名残で首を巡らせ相手を探す。アンバーは男から数歩離れた部屋の壁に凭れ掛っていた。まだ十五をやっと過ぎたとところの少年だったが、その人形じみた顔の美しさは、すでにこの頃から彼に怜悧な印象を与えていた。

「ちゃんとここに居ますよ。神子様」

 私は観察者なのだからという言葉をアンバーは飲み込んだ。

 薄緑の長い髪がさらりと肩を流れる。視力が失われる寸前まで、神子は目を細めて彼の髪を生茂る緑と同じ美しさだと褒めていた。アンバー自身からすると露天で投売りされるベリルの安っぽい色だと思っていたが、神子からするとそうでもないらしい。

 その言葉を聞き続けた結果、アンバーはなぜかここ数年間髪を伸ばしっぱなしにするようになっていた。

「そうかい。まだ十二時にはならないのかね?」

 それは神子の公務の時間だった。神子は歴代の神子の中でも長寿で、もう涙も枯れ掛けている。特にここ七年の降水量は激減しており、国民を落胆させるものだったが、それでも神子は健気に、毎日少しでも多くの水量を青命線デッドブルーに行き渡らせようと奇跡を起こしていた。

 もう一人で歩くこともできない彼を、研究室の中でも年下であるアンバーが調査、観察も兼ねて手伝っていた。

「もうすぐです。ちゃんと知らせますから、そんなに気に掛けないでください」

 そうか、と神子は短く返事をして目を閉じた。最近は衰弱が激しく、殆どの時間を寝て過ごしている。神子を観測し続けたアンバーは気付いていた。彼に残された時間がどれだけ短いものなのかを。

「それでも、貴方は何も聞かないのですね」

 自分の命の残量など神子自身が一番良く分かっているはずだ。それでも彼は何も望まず、何も言葉にせず、飼い犬のような従順さで、毎日同じ時間に雨を降らせ続けている。

 何を今更、そう育てたのは私達ではないか。幼い神子学者は顔を歪めて笑う。

 神子は生まれ落ちた瞬間、産声と共に『天恵』の雨を降らす。先代の神子が崩御したその日の内に、新たな神子はその居場所を雨によって指し示すのだ。

 速やかに親衛隊の手によって新たな神子は城へ召し上げられ、一生城を城で過ごすことになる。そして赤子の頃から神子学者や、その代の保護者となる王の意向のままに育てられる。無駄な事は知らせず、無駄な言葉は教えず、ただ泣くことだけを覚えさせる。

 お前は神子だ。

 お前は神の子だ。

 お前はカルマを救うために遣わされた。

 お前はカルマの希望だ。

 お前が雨を降らすのだ。

 雨を降らせ。

 雨を降らせ。

 雨を降らせ。雨を降らせ。雨を降らせ。雨を降らせ。雨を降らせ。雨を降らせ。雨を降らせ。雨を降らせ。雨を降らせ――――――さあこれで、立派な神子の完成だ。

 目の前で衰弱しきった神子も、そうやって造られた。アンバーの生まれる前の話だから実際に見たわけではないが、次代へと繋ぐために残された記録には、生々しく刻まれている。きっと自分が、次の代の神子に同じ『教育』を施すのだろう。

 アンバーは元々祖字構術化学、魔鉱石物理学の出身だった。それが数年の雨量の減少に痺れを切らした王が、他分野からでも有能なものを神子学にという御触れを出し、白羽の矢が立ったアンバーは五年前から急遽神子学研究室に配属となったのだ。

 論理的ロジカルな分野で育ったせいか、アンバーには神子に施される教育が少々精神依存的でナンセンスに感じていたが、現に今までの歴史がそれで上手く回ってきた以上、反論する気も毛頭無かった。

 時計は、後数分で十二時を指すところだ。

 水の安定供給のため神子学者たちが試行錯誤した結果、当代の神子では毎日同時刻に涙を流すように心の調整メンテナンスが行われていた。といってもこれは所詮ひとつの実験でしかなく、次代の神子にはまた違う調整メンテナンスが行われるのだろう。

 アンバーはゆっくりと神子へと近づき、優しく彼を揺り起こした。

「時間かい?」

「ええ。今日も、よろしくお願いします」 

 神子は静かに眼を閉じた。目じりに涙がうっすらと溜まっていく。この瞬間、神子は何を考えているのだろう。

 研究資料では代々の神子の答えは統一性が無かった。怒り、悲しみ、喜び、苦しみ、痛み、驚き――――どうやら、人の心のどの要素も涙に足り得るものらしい。共通するのは要素ではなく激しさ、振れ幅とでもいうのだろうか。結論として、感情の強さが必要なようだというのが泣く、ということに関する学者達の見解だった。

「あなたは、何を考えて涙するのですか?」

 彼はまだ、神学者達にその回答を与えてはいなかった。アンバーは彼の穏やかな横顔を見つめながら答えを待つ。

「アンバー君。君は口が堅い方かな?」

「ええ勿論」

 なんて意味の無い掛け合いだ。観察者は自嘲の笑みを浮かべる。

 神子は静かに息を吐くと答えを告げた。

「……憎しみだよ」

 予想外の言葉に、アンバーが珍しく動揺した。

「僕の父母はこの国に殺された」

「まさか!!」 

「きっと、真実でしょう。赤子の僕を連れ、カルマの地から逃げようとしたところを追ってきた親衛隊に斬られ、僕は両親の血溜まりに浸かりながら涙を流し、雨を降らせたそうです」

「ありえない、神子の親族を殺すなんていくらなんでも……」

「真偽のほどは分かりません。僕はたまたま文書を目にしただけで、それが真実なのか嘘なのか確かめる術がなかった」

「なら」

「誰か僕に真実を教えてくれたとでも?」

 遮るように神子が続ける。静かだが、不穏な強さを含んだ口調で。

「誰も教えてくれないのですよ。何も教えてはくれないのですよ…………ここでは!この場所では!すべてが不確かで!貴方達は自分に都合のいいことだけを語る!」 

 最期の最後に何を言い出すのかとアンバーは男を険しい瞳で見つめる。日々をただ穏やかに消費し、神子の使命を果たし続けた男が、ここ数日間茫洋とさせていた瞳をきらきらと輝かせて叫んでいる。まるで心の中で必死で孵化せまいとしていた卵の厚い殻が、罅割れぼろぼろと剥がれていくかのようだ。その隙間から覗くのは、恐ろしく純粋に精製された憎悪。

 誰も彼の疑念を否定しなかったから、肯定しなかったから。この化物はすくすくと安全な卵の中で育ってしまった。そしてその疑いと憎しみと呪いで歪に育ちきった心が、今やっと姿を現したのだ。

 彼の瞳から涙が零れる。瞳の輝きは一層増していく。

 きらきらと宝石のように。

 きらきらと水面のように。

「この七年間。実に酷い有様だったろう?皆々僕にさぞ失望したことだろう。あの雨では」

 彼は窓の外へと首を向ける。彼の涙に呼応して、王都には雨が降り出している。

「そんな……神子の力に差があるのは今までも確認されていました。だから貴方はそんなことで悩む必要は無いのです!」

 椅子へと駆け寄りアンバーは膝を突いた。年齢の刻まれた掌を彼は強く握り締める。

 何が起きているのかは解らない。こんな事象、過去の記録には一度も記載されていなかった。

 身体をがたがたと震わせて歯を食いしばる神子の顔からは玉の汗が流れ出し、その尋常ではない様子を見てアンバーの心に生まれたのは――混ざり気の無い心配だった。

 観察と称して神子に付き添って五年。学者一家の弊害でまともにコミュニケーション能力も碌に育たない内から勉学に傾倒し、可愛げのないガキだと散々陰口を叩かれてきた。そんな自分が初めて人との繋がりを実感できた相手が、皮肉なことにカルマが神と呼び崇める老人だったのだ。神子の無智ゆえの穏やかさ、無知ゆえの優しさに触れて、アンバーはやっと人に心許すことができるようになったのだ。

 アンバーは感謝していた。このまま学問だけを友に生き続けるはずだった自分に、沢山のことを教えてくれたこの老人に。

 神子がもう死ぬだろう事は受け入れている、だがこんな苛烈で壮絶な死が迎えに来るとは考えてもいなかった。神子制度に従事し城で一生を飼い殺されたのだ。最期に訪れる死はせめて穏やかで静かなものであるべきはずなのに。

「なぜこんな……最期にこんな苦しみを……」

 皺だらけの手を握り締めて、アンバーは祈るように額を押し付ける。男は僅かに手を握り返す。

「君は歴代の神子にはない苦しみを負っていた僕を哀れに思っていたかもしれない。だが、それは間違いだ」

 空いていた手で神子は緑柱石グリーンベリルの髪を掴む。痛みに目を細めたが、アンバーは声を漏らしたりはしなかった。目の見えない彼が必死で自分に触れようとした結果だからだとわかっていたからだ。

「僕は残念ながら選ばれなかった。だが、重要な布石であった」

「選ばれなかった?神子である貴方が?」

 男は狂っているのだとアンバーは思った。だが男の今際の際に輝く瞳は、彼は正気なのだと雄弁に心に訴えかけてくる。

「そうだ。僕は掬われなかった。零れ落ちた雨粒の一滴でしかなかった!だがこれでいいのだ。来る!来る!来る!来るぞ!約束の時が!やっとだ、やっと我等は許されるのだ!」

 神子の手に力が籠められ、ぶちぶちと髪の毛が抜けた。今夜の雨は豪雨になるだろう。男の命と引き換えに。アンバーはそんな気がした。

「僕はこの国を騙した!騙してやったぞ!アンバー君、次の神子を見つけたとき、君は驚愕する!きっとだ!」

 彼の最後の笑いは、騙され、誤魔化され続けてた人生を取り返すかのように荒々しく生命力に満ちていた。今までしたたかに隠してきたエネルギーを迸らせて、男は笑い続ける。

「貴方は……神子とは……一体なんなのですか……?」

「ハハハハハハハハハハ!!アハハハハハハハハハァッ!!」

 神子の断末魔にも似た哄笑に、アンバーのまだ幼い心はぐずぐずと溶かされていった。

 それは歪に、不自然に、不均衡に再構築されることとなる。

 人を信じない神子学者が、唯一信じた神子。その神子が彼を裏切ったのだ。

 世界は彼を窒息させた。

 世界は彼を窒息させた。

 それからの枯れた二年ラストダンスで、王族と共に血眼になってアンバーは神子を探し続けた。神子に関する資料を国中で漁り、貪り読み、解析しようと足掻く内に、周囲の学者たちを蹴落とし神子学研究室の室長にまで上り詰めていた。彼は信仰心の厚い神子学者を「不要」と切り捨てた。いつしか研究室は彼と数人の助手だけとなり、彼は優先的に配賦されるリソースを神子の存在の追究にすべて注ぎ込んだ。

 やがて彼はその答えに手を伸ばせるまでに成長した。神子とは一体何なのかという問いに。

 彼はやっと再び笑えるようになる。だがそれは、砂漠の夜のように冷え切った笑顔だった。

 神子の崩御から二年の後、突如アリスが発見された。

 彼は狂喜した。自分の理論を証明するための素材が、やっと手の中に転がってきたのだと。

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