泣き止んで、世界が滅んでもいいから 04

 雨の降る城下を見下ろして、殺戮王女は気だるげに王座にしな垂れていた。絨毯やカーテン、そして腰掛けている王座もすべて緋色。緋の間と呼ばれるこの場所は、カルマの王が座す場所だ。殺戮王女が城の中で唯一気に入っている場所でもある。レオとの一戦で中途半端に昂った精神を落ち着けるために、今は部屋中に強く鎮静の香が焚かれている。

「何かわかっているの?」

 瞳だけを動かして王女は王座の横に居る人物を見遣る。緋の間において異彩を放つ、光を吸い込むような漆黒の大きな箱に腰掛けているのは、アンバーだった。ぱらぱらと手にしていた報告書を捲りながら、アンバーは大仰に首を振る。

「まだ何もかもが推測の域を出ません――が、おっしゃる通りレオ君がそうなのであるとすれば、筋書きを思い浮かべることもできます」

「それは面白い?」

「どうでしょう?滅びの唄にも、歓びの唄にもなりうる可能性があります。何せ、我等にわかっていることは余りにも少ない……神聖なるものを解体する禁忌を、愚陋と決めつけていた先人達を前にしては」

「ならば私達が曲を紡ぎましょう。その旋律を閉塞したこのカルマの国に響かせられるなら――私、死んでもいいわ」

 殺戮王女はつぶらな紅玉で瞬きもせずに、アンバーを見つめた。倦んだ瞳だ、そうアンバーは思う。純血に拘泥し近親交配に明け暮れた結果、王としての資質は強まるどころか歪んでしまった。

 そうして同時に、自分の持つ運気の高さに奮えてもいた。王が彼女でなかったら、自分のような異端の学者は直ぐに処刑されていただろう。自分と彼女が同じ時代に産まれ、同時に神子にも異変が起こった。

 この偶然は宿命だ。

 解明するのだ、この国を成す根幹を。

「承知いたしました王女――では早急に研究を進め、来るべき日に全てを明らかにできるよう手配いたします」

「――それは、いつ?」

 アンバーは腰掛けている黒く艶めく箱の縁を愛おしそうに撫でる。

「そうですね、後一月もあれば、全てを白日の下に曝しましょう」

 その日を想って、アンバーはうっそりと哂った。



 アリスが戻ったのは、夜半を過ぎるかという所だった。まだ糸筋のように細い涙を流したまま、幽鬼のように頼りない足取りで部屋に入ってくるアリスは、幾代にも亘ってこの城に捕らわれ続けた神子達の、情念の塊のようだった。

「アリス……大丈夫か?」

 ずっと座り込んでいたレオはアリスの帰宅に弾かれたように立ち上がった。パリパリと乾いた血が剥がれ落ちて絨毯を汚す。もう傷はさして痛まない、それよりも脳が締め付けられるようにずっと痛みを訴えかけていた。

 原因は明らかに、アリスの涙に寄るものだった。雨は霧雨に変わっていたが、数時間もの間それが降り続いた事が、何よりレオの心を掻き乱している。

 泣き止んでほしい。そんな顔をしてほしくない。そればかりがレオの頭を駆け巡る。

 だがアリスはまだ泣き止まず、むしろ自分の領域に戻ってきたことで安心したのか、爆発するように感情のボルテージが上がっていた。

「くそっ!くそっ。くそっっ!!」

 悪態をつきながらアリスはベッドへと沈む。くそっ、くそっ、とスプリングの利いたベッドに、我武者羅に拳を叩きつけ続ける。

「……こんなんじゃ、約束も果たせやしねえ!くっそぉっ……!俺は……やり遂げないといけないのに…………」

 絶望に満ちた悲痛な声に、悲壮感に満ちた願いの吐露を前に、レオはかける言葉も無い。アリスの願うものがレオには分からない。幼馴染の少年が泣き叫ぶ姿を、ただ見ていることしかできない。ずきずきと頭が割れそうに痛む。

 神の子になど一度も見えたことは無い。奇跡などという綺麗なものとして感じたことなど一度も無い。皆が目を輝かせて神子を讃える言葉を吐くたびにレオは眉を顰めていた。泣いている神子を実際に見ても、そんなことをお前達が言えるのかと。

「俺が……救わないといけねえのに……!!」

 数分の後、激情のピークは去ったのかアリスはむくりと顔を上げた。

「だっせぇだろ俺。女に泣かされてら」

 忌々しそうな顔で涙を流し続けるアリスは、手近に合った手触りのよさそうなタオルで顔を乱暴に拭く。だが流れ続ける涙はそう簡単に止まらない。

「なんでだよ……?泣くことは奇跡なんだぞ」

「こんなもん奇跡でもなんでもねえよ……見んなよ。泣けないお前等にはわかんねえだろうけど、俺は結構恥ずかしいんだ!」

 何度も擦るので、目の周りの皮膚が赤くなっている。痛々しさに思わずレオはアリスの手首を掴んでいた。「おいっ」と非難するアリスを無視して、レオは左手でアリスのプラチナの目を覆う。ふっと、アリスの呼吸が止まった。

「わかったから落ち着け……もう、泣くなよ」

 ゆっくりと、諭すようにそう言って、レオはそのまま祈るように待つ。泣き止んでほしい、もうこれ以上辛そうな表情を見せてほしくない。この国の誰もが尽きることない雨を願う中、レオだけはその願いに叛逆する。

 世界が滅びてもいい。だから、お願いだ。泣き止んでくれ。

 レオの願いが祖字となって額からするりと空中に書き出される。蛇のように宙を舞いアリスの頭上に移動すると、天使の輪となって回転し、やがて粉雪のように霧散した。

 そっとレオが手を離すと、アリスが乾いた目を瞬かせて、驚いた顔でレオを見つめた。窓を叩く、雨も止んでいた。

「止まった……」

 信じられないというようにアリスは自分の頬を触る。余程の事らしいが、レオにはその凄さがわからずにただきょとんとするばかりだ。

「そんなに驚くことか?ガキの頃は全然泣いてなかっただろ」

「ちげーよ。あん時と今は違う」

「何が違うんだ?」

 しばらく無言の時間が続いた。不味いことを聞いたのだとレオは気付いたが、もう遅い。だが、敢えてそこをもう一歩、踏み込んだ。

「昔と今と、何が違うんだ?」

 いい加減、色々なことを自分は知るべきだ。レオは、もう一度はっきりとした声で問い掛けた。

 アリスの涙の跡の残る顔から、表情が抜け落ちていく。金魚のように薄い唇を何度か開閉させる。躊躇い、熟慮し、最後に決意して彼はゆっくりと告白した。

「俺は、精神こころを改変されたんだ」


「――え?」

 改訂、改竄、変容、熔解。こんな言葉でも良いかもしれない、とアリスは遊ぶように言葉を選んでいる。どれも心に行うには、不吉すぎる言葉だとレオは背筋が寒くなった。

「俺は、神子の中でも特異で、みんな手を焼いてたからな。今までの神子は再誕後すぐ城に閉じ込めていたから従順だった。だから変に知恵つけて登城した俺をどう扱ったらいいのかわかんなかったんだろ――白痴の神子を可愛がることには慣れていても、知性のある人間を神の子だと崇めることは、王族のプライドが許さなかったんだ。まぁ、俺が泣かなかったのも悪かったんだけどよ」

「だからって……大体、そんな事できるのか?」

 へらりとアリスは笑う。自分と良く似たそれは、自分の心を守るためのもの。薄布のように柔なその盾で、彼の心はどこまで守られたのだろう。

「レオにできるかはわかんねえけど、俺にはできちゃったみたいだぜ。そりゃあもうばっちりと――それでも王女様のお気には召さなかったみたいだけどな」

 殺戮王女の言葉を思い出す。

 ただ泣き濡れているだけでいい。まるで人形を囲うような気軽さで、そう言った彼女のことを。

「人一人の心を壊すのって意外に簡単なんだと。アンバーがほざいてた。そんな中で俺のココロの耐久力はそこそこだったらしくてよ――結果的に、従順で莫迦にまではできなかったが、極めて不安定になった俺の精神は、今では皿の割れる音にも心動かされる始末だ」

 レオはその意味を租借して何とか理解する。胸を締めるのは驚愕と、それを上回る怒り。そして納得。

 感情の昂ぶりによって涙は流れ奇跡は起きる。其れを良く知っている神子学者は、雨を得ることを至上の目的として、最大限に効率のいい改造を施したのだ。アリスの人格を、まるで不要なもののように扱って。

 レオの指先が震えていた。自分が安穏と復興する世界を旅していた間、アリスはずっとその陰で世界の重圧に心を磨り潰されていた――その事実が彼に行き場の無い自責の念を齎す。

「お前を、守ってくれる人はいなかったのか?」  

 八年前、レオが死の淵から目を覚ました時にはもう、アリスは其処にいなかった。呆然とするレオに、村人は誇らしげに伝えた。見たこともないほど美しく着飾られた鉱瘤駱駝ミネラルキャメルに曳かれた車にアリスが乗せられ、連れて行かれたという神話めいた光景を。

 そして感謝状を受け取りに城まで出向いた村長から、国を挙げて催された神子の再誕式の自慢話を何度も聞く内に、レオは、アリスは幸せになったのだと錯覚してしまったのだ。

「残念ながら当代の神子は人に恵まれなかったみたいでな。キリぐらいかな、あいつは馬鹿だから好きだ。権力は持ってないけど」

 アリスは薄く笑う。紺服の親衛騎士は確かに神子を神子らしく大切にしているようだった。それが神子という象徴に対する崇拝であっても、アリスにはいくらかの支えにはなったのだろう。

「だからさ、レオが来てくれたのは嬉しかった。俺もう半分ぐらい崩れちまってるけど……それでも俺はアリスだから」

 首を僅かに傾けてレオを見つめるアリス。気付いているのだろうか、アリスが今基礎としているその人格は、もう在りし日のそれではないということを。知識と記憶は残っていても、それを行使する意識が変質してしまっていることを。

 レオにはもう彼の魂がどこにあるのはわからない。少なくとも自分が城の外で助けようと思っていた対象としての、アリスの姿はそこにはなかった。

 だけど、そうだとしても、これをアリスではないと、否定することはレオにはできなかった。

 この狭く小さな地獄の中で、生き延びた彼は、紛れもないアリスそのものなのだから。

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