心を削ろう、亡くしたりしないように 02

「ん……?」

 天井から重たそうにぶら下がる照明の光が、白金色の瞳に滑り込んできて、アリスは鬱陶しそうに目を眇めた。

 気分は最悪だ。まだ心がぐらぐらしている。過去の自分の視点で進む夢だというのに、何故流れる映像は今のアリスに疎外感と不快感ばかりを齎すのだろう。

 部屋を見渡すが、付き人は誰も居ない。レオの姿も見えない。十中八九神子に危害を加えたものとしてどこかに拘束、隔離されているのだろう。

 殺されていないだろうか。不意に過ぎった不安で涙が込み上げてきて、アリスは慌てて胸に手を当てて大きく深呼吸する。

 自分の存在がどれだけ人々の神経を逆撫でし、狂気へと誘うのかは、八年間の城での日々で十二分に思い知らされている。

 金、権力、野望、崇拝、盲信、救済、妄想、妄執、希望、絶望、終焉。

 人々はアリスの後ろに実に色々なものを見る。その景色を実現しようと暴走する者も多い。そしてその度に血は流れる。神に仇なす神学者と、殺戮王女に屠られて。

「やばいな、探しに行かねえと」

 思わず漏れた声が掠れて引っかかり、アリスは自分の喉がからからだということに気付いた。ベッドサイドに置かれた、首の長い鳥を模した青い硝子の水差しからグラスに水を注ぎ一気に呷る。

 その味は、夢の中とは似ても似つかないほど何の感慨も湧かないものだった。


 巨大な城には、神子と王族の何不自由ない生活という至上の命題のために、ありとあらゆる施設が完備されている。もちろん時代が変われば人も変わる。そしてその度に必要とされるものも変遷していく。城は掲げる者を満たすために幾度も増改築を重ね、現在も進化を止める事ことなく成長を続けながら、王都の中央に聳え立っている。

 積み上げられた城は階層ごとに役割を持ち、資格や役割によって入れる場所を取り決められていた。その中には魔術研究や、科学研究室等もある。国として知的財産を城の中から一切出さないというのがカルマの技術に対する国策なのだ。

 だが反面、その方針によって王族以外の人間が城に多く出入りするというリスクを許容せねばならず、結果として城の内部は予め決められた手順を踏まねば通れない結界や、生体識別によって発生する障壁等に溢れていき、近年は奇々怪々とした複雑な様相を呈しつつあった。

 その城の中層に位置する、神学子研究の領域エリアにレオは現在拘束されていた。

 カルマの世の鍵となる神子のメカニズムを研究している学問だけあり優遇されているらしい。部屋中に高価な機材が所狭しと並べられ、壁には神子の伝承に関連した古文書の写しや、この国のライフラインである地下深くを走る水路――青命線デッドブルーの大きな地図などの紙片で埋め尽くされている。壁だけに飽き足らず、床にまで分厚い書籍が雑多に積み上げられている中の狭いスペースでレオは窮屈そうに胡坐をかいていた。

 ぐるりと一周部屋を眺めただけで理解する。見る者に畏怖すら抱かせる程の、部屋の主の偏執的なまでの対象への執着。ここにあるのは神子への信愛でも献身でもない、ただの腑分けにも似た研学だけだ。

 身体を動かすと膝で何枚かの羊皮紙を踏んでいることに気づく。そこにはアリスのデータと思しきものが、図版と共に細かい字でびっしりと書き込まれていた。レオはその几帳面な文字にぞわりと鳥肌がたつ。

 部屋には自分を引きずって来たキリと、その文字の主の三人しかいない。肝心の部屋の主は頬を紅潮させ部屋に入るなりレオに駈け寄らんばかりだったが、「とんでもない強引さだなアンバー!」と食ってかかってきたキリを相手に今は言葉を交わしている。だが見るからに気もそぞろだ。

「まあまあ、こんな事態になったら、我々が彼を欲しがるのは当たり前でしょう?あぁよかった、私たちの熱意が伝わって!」

「阿呆が!駆け付けた助手がガタガタ震えながら涙と鼻水を垂らして土下座してくるんだぞ!そんな見栄も外聞もない懇願されて、無視できるか!」

「そこまでしろとは頼んだような頼んでいないような……」

 細い金属フレームの眼鏡の縁を指でなぞりながら、アンバーは怜悧に整った顔を軽く傾げレオをに遠慮のない視線を送る。眼に浮かんでいるのは、神子を危険に晒した愚者への怒りではなく、ぎらぎらとした純粋な興味だけだった。照明に透けて輝く緑柱石グリーンベリルの長い髪が絹の糸のように音もなく肩を流れ落ちる。

 確かにキリが駆けつけたときには、床に倒れた神子とそれを抱え上げるレオがいるのみだった。誰が見てもレオを犯人だと思うだろう。だが連れて行く先が牢屋ではなく研究室というのは如何なものか。この部屋から伝わる神子への想いを感じて改心しろとでもいう気なのだろうか。 

 がっちりと手錠のはまった手首を擦りつつ、レオは目の前のキリを睨み付ける。

「コックは腕が命なんだから、頼むぜほんと」

「……そもそも疵物だろう?よく言う」

 レオはさすっていた手を止めて、口の端を歪める。

「あらら、よく見てらっしゃる」

 軽口に顔を顰め、そら見たことかというように、キリは拘束されたレオを冷たい瞳で見下ろした。

「黙れ。最初から怪しいと思っていたのだ。神子殿もお戯れが過ぎる。いくら全てのカルマを救う存在とはいえ、どこの者とも付かぬ輩を無防備に近くに寄らせるのだから」

 油断無く手を剣の柄に掛けて、キリはいつでも斬れるという威圧をレオに向けるが、彼は懲りた様子も無くへらへらと笑っている。

「武器は持っていなかったが、目的は暗殺ではなく誘拐か?」

「飯食わす相手を誘拐なんてまさにコックのお飯食い上げじゃん。馬鹿じゃねえの?」 

「……神子殿といい此奴といい、最近の子供は碌でも無いな……アンバー、時間の無駄としか思えないが?」 

 視線をレオから一切離すことなく、キリはアンバーへと声を掛ける。

「とんでもない!!こんな貴重なケースを発生させてくれた触媒です!大歓迎ですよ!!神子が城外の人間にここまでの反応を示したのは初めてです。何があったのかじっくり聞かないと」

 薄く笑うその顔はきらきらと星が瞬くほどの知的好奇心に満ち満ちていて、レオの事はどうやら希少な参考文献として彼の目に映っているようだった。

 直感的にレオは悟る。

「お前とは性格ゼッテー合わねぇ」 

「安心してください。私も知識レベルの低そうな方とは、神子が関係でもしない限り話す気は起きませんので」

 だから普段は話しかけないでくださいね、とにこりと微笑まれればレオは苦笑いをするしかない。

「で、本題ですが貴方は神子に何をしたのですか?」

 レオはどう返答するか迷った。城に来てからまだ僅かな時間しかたっていないので分かっていることもほとんど無い。  

 まずアリスという単語は出さない方がいいようだ。名前は捨てられたとアリス自身が言っていたし、考えれば城に入ってから誰も神子の名前を口にしていない。最初は位の高い人間に対する敬意によるものだと思っていたが、どうやら事情は違うらしい。

 それでは自分との関係はどうだろう?話せば必ず根掘り葉掘り詮索されるに違いない。そんな面倒は避けるべきだ。だがそれが自分とアリスを繋ぐ大切な理由であり、ここで赤の他人だなどと言おうものなら、それこそキリにこの場で切り捨てられてしまうだろう。レオの逡巡をどう捉えたのか、アンバーは質問を替えた。

「では――そもそも、神子がどうやって泣くかを、貴方は知ってらっしゃいますか?」

 足を組み替えて神学者はさらに笑みを深める。レオはついさっき見た神子の表情を思い出す。ぼろぼろと涙をこぼしながら怒鳴り、震える姿。思ったことがつい口をついていた。

「…どうやってって言うより、辛かったり、悲しかったりする時に泣くんじゃないのか?」

 アンバーはさらに笑みを浮かべる。嫌な笑い方だ、レオはその笑顔に対して、せめてさらに不適な笑みで返す。

「おや、『泣く』という神子によってのみ紡がれる感情を何故貴方が語れるのでしょうね……?まぁその答えでも、優良可なら可のレベルですけどね」

 レオの笑った口が引き攣る。それはそうだ。自分は泣いたことなんてない。それをたどたどしくも答えてしまったら、それは神子を間近で見ていたことがあると言っているに等しいではないか。

「俺の馬鹿!阿呆!……申し訳無いな、言葉での駆け引きは慣れてないんだ。俺の口は味を覚えるので精一杯でね」

 基本的にレオの口は減らず口と知った口だけで構成されている。要は役に立たないということだ。

 嘘をつくのを早々に諦め、乾いた唇を湿らせて観念したようにレオは口を割った。

「俺と神子は生まれが一緒なんだ。だからちょっと面識があったんだよ。俺はまさかアリ……いや神子様がそうだなんてもちろん知らなかったけどな。んで、偶然だが俺の素晴らしい腕が見初められて今回宮廷料理人の声がかかった。神子様もそれが俺だなんて全く知らないまま今日顔を合わしたから驚かれたみたいでさ。運命の再会ってやつに泣いちまったんじゃないか?」

 キリが肩を竦める。

「あの神子がそんな可愛らしい理由で泣いたりするのか?」

「感動だか激情だかは知りませんが、あの子が彼に対して心を揺らしたのは紛う方無き事実です。今後の効率を考えてもぜひ手に入れたい知識ですね」 

 効率、という言葉に嫌な響きを感じてレオはアンバーを刺すように睨んだ。

「あぁ、失礼。君からすればお友達ですものね。ちょっと、面識がある程度のですが――――ただ、先ほどの回答を聞く限りでは、神子にとってレオくんが好ましい心の衝撃を与えたようには思えませんけど」

 逆撫でする言葉ばかりをアンバーが選ぶせいで、徐々にレオの目つきが凶悪に変わっていく。獣が放つものにも似たその雰囲気に、キリは無意識に柄を握る手の力を強めた。

「お前にとって神子はなんなんだ?」

「唯の有難い神様です。神様という名の、世界に水を供給するためだけの装置。厄介な存在ですよ。カルマの民があんなものに生殺与奪を握られていることが疎ましくてしょうがない」

 アンバーの放つ神様、と言う響きはガラス玉のように安っぽく投げ捨てられて宙に溶けた。レオはおろかキリさえも眉根を寄せてアンバーを睨む。

「アンバー!神子殿をそんな言葉で語るなど……!」

「いえ、大切には思っていますよ。当代の神子はイレギュラーです。私の生きる時代の神子制度に異変が起きてくれて、本当にあの子には感謝しているのです。研究対象として」

 レオは眼を見張る。神を語る彼の眼は冷たく硬質で神学者としては余りに異端だった。

 カルマにおいての神学者はあくまでも神子の存在を崇拝しつつ、各地の遺跡や文献から神子の偉大さを解き明かすことを至上の目的としている。要は神子の盲目的な信者だということだ。だが神という要素を排除して真理という存在だけを追究する彼のスタンスは、魔術研究や科学研究者に近い。

「アンバー!」

 その時、彼の白い喉にひたりと鋼の刃が添えられた。

「――キリ、怒りましたか?」

「それ以上、神子殿の暴言を吐くようなら、私は親衛騎士としてお前を斬るぞ」

 怒気の篭った柘榴石ガーネットの瞳と対照的に、青味がかった緑柱石グリーンベリルの瞳は冷静だ。彼はあくまでも、人の神経を逆撫でする言葉を丁寧に選び続けるだけ。

「貴方も大した忠犬ですね。まぁ、胸の内は私とさして変わらないと思いますが」

「黙れ」

「貴方にとっても、神子は大切な大切な鍵ではないですか」

「……確かに私にも疚しい気持ちが無いわけではない。野心もある。だがここへ召し上げられて外に出ることも適わぬまま、一人世界を育み続ける神子殿を、俺は尊敬している」

「……盲目的な崇拝。まさに絵に描いたような神子信者だ」

「信者で何が悪い。彼は神に等しい。私は彼に掬われたのだから」

 話している内に無理矢理焚き付けられていた怒りが静まったのか、濃紺色の髪の間から覗く目は今はただ真摯にアンバーを貫く。数秒間の後、アンバーが根負けしたのか肩を竦めた。

「話が逸れました。結局のところ神子は貴方に心揺らされ涙した。そしてその理由は言いたくないと」

「言いたくないんじゃない。分からねえんだ。もういいだろ」

 手をひらひらさせてレオは嫌悪感を隠しもしない。

 ふっ、とアンバーの目が観察者のそれに変わる。

「その動作…」

 アンバーは不意に嗤いだした。肩が小刻みに震えている。

「くくくっ、いいですね貴方!!とても良いっ。やっと私にも鍵が転がり込んできたようです!!」

「はっ?」

 怪訝な顔をするレオとキリを他所に、アンバーは堪らないというように笑い出す。そして吐き出された言葉は、全く脈絡の無いものだった。

「――此処に来た当初は、そりゃあかわいかったんですよ」

 押さえ切れない笑いに喉を震わせながら青年は長い髪を払った。サイドで緩く結ばれた細い髪が滝のよう肩を流れていく。

「小動物のように怯えて部屋の隅で丸まっていてね。最初見た時は、ついに女の神子が生まれたのかと驚いたものです」

 すぐに何の話か分かったのだろう、キリが視線を床へと落とす。

 アリスの事だ。レオの顔が歪む。アンバーは顔を覆い隠すように掌で覆っているが、喜悦の浮かぶ唇はその指の隙間から覗いている。

「だけどふた月ほど経ったところで急にあれは態度を変えて、私達に反抗しだしたんです――!!あぁでもあれはただの猿真似だった」

 レオは数時間前の再開を思い出す。昔のアリスとは似ても似つかない、おおよそ城で身に付くものではないだろう粗野な態度、乱暴な口調。

「まさか……」

 どこかで見たことはないか?

 とてもとても、それこそ皮膚を隔てないほど近くで。

 アンバーは長年取り組んでいたパズルが完成したような、晴れやかな表情だ。神子の解体を望む彼にとって、レオは決定的な鍵だった。そして神子にとってレオは、どうしようもなく致命的な存在だった。

 幼いアリスは自分の胸の中だけにその存在を置くのを恐れた。

 名前さえ失って、神子として存在を定義されていく中で。

 亡くす事を恐れたのだ。

 忘れることを恐れたのだ。

 だから彼は、それを自らで表現した。

 忘れないように。

 失くさないように。

 そしてなにより、自分の崩れそうな心を支えるために。

 アンバーは指の間からレオを覗いた。驚きで呆然としている彼も、いい加減答えに辿り着いただろうか。

「貴方を見て納得しました。神子が何になりたかったのかを」

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