第二章

心を削ろう、亡くしたりしないように 01

「雨音っ!!何事ですかっっ!?」

 大粒の雨が窓を叩く音を目覚ましに、椅子で寝こけていた人物が仰天して跳ね起きた。白衣に似た神官服を着た、若い男だ。神官服の男は突然の荒天に目を奪われ、そのまま書類に足を滑らせ床に派手に倒れた。

「すごいっ!!こんな雨初めてです!!」

 男は興奮のままに床を転がり回る。長い翡翠色の髪が、ばさばさと夥しい量の書類の上を刷いてさらに部屋を散らかしていく。やがて壁にぶつかって男は止まると、「あっ、そうだ記録記録……」と伏せたまま床に散っていた羊皮紙の一つを掴み、神官服のポケットから取り出したペンで日時や時間、降雨量や空の様子を書き記す。

楽來がくらいの月七十四の日、牛追いの刻、曇天、雲厚く空は暗い。記述八六四三のFのケースからたった数刻の事であり――神子の――矯正の内――」

 がりがりと紙を削る激しい音が、彼の興奮に比例して高まり部屋中を埋め尽くしていく。

「王女の継承した――『宝箱』を――た反射を遙かに超える――――」

 やがて、ぽたり、と赤い染みが羊皮紙を汚した。荒い息を吐いていた神官服の男は、それを見ると目を丸くして動きを止めた。

「おや――いけませんね」

 鼻を拭うと手の甲に真っ赤な線がそこに描かれた。助手がばたばたと駆け付ける音が聞こえる。

「室長!!神子が!!」

「倒れましたか?死にましたか?それとも壊れ……ああそれは元からですね」

 慌ただしく扉を押し開けて駆け込んできた助手に向かって、肘をついて起き上がるところだった男は、鼻血を垂らしたまま微笑みかけた。壮絶な研究室内の状態に、何時もながら助手の腕に反射的に鳥肌が立つ。

「いえ……それが、微細はわかりませんが人に会っただけのようです――それも何時もの戯れの新しい料理人らしく……」

「くふふふふふっ。そんな!!最高ではないですか!!ぜひっ、その人物と対面できるよう調整してください!!神子学研究室の長の権限で、ありとあらゆる取り調べ、聴取、拷問を脇に除けて私に会せるようにと!!」

 心底幸せそうな顔の上司に薄ら寒いものを感じて、助手はひきつった笑いを浮かべる。

「しかしその不届き者を取り押さえたのが親衛隊長のキリ様らしく……」

「あぁ楽しみです。過去の記憶なんて脳の何処に隠していたんですか?貴方の精神こころにまだ正常まともな部位があったなんて――てっきりもう残り滓しかないと思っていたのに――そんなそんな!!楽しくて興奮してしょうがないじゃないですか!!」

 聞く耳を持たずに嬉々として悶える男に説得の余地が無いことを悟ると、助手は踵を返して親衛隊の牙城へと赴く。

「この件を切り抜けたら、転職しよう……此処はブラック過ぎる」

 これからの折衝によって自分は職どころか命も失うかもしれないという絶望を抱えながら。


 神子の部屋は、王城の奥まった区域に隠されるように設けられている。城の外観からはそこに空間などまるで存在しないように見えるだろう。だがそこに、彼の部屋は存在していた。

「ん…」 

 二度と起き上がれなくなるのではと怖くなるくらい沈み込む布団に包まれて、アリスは苦しそうに息を吐いた。唯でさえ日に焼けない肌は、城内だけの生活によってさらに漂白され不健康なほど白い。モノトーンの色彩しか持たない少年は神というより機械じみており、その無機質な容姿は、今苦しむことでのみ自らを人間だと証明しているかのようだ。

「ううっ…」

 眉を寄せてアリスは低い声で呻り、脳内に写る映像を掻き消そうと弱弱しく首を左右に振る。

 アリスは悪夢を見ていた。

 アリスから思い出など、もう消え去っていたはずだった。城の者達は少なくともそう処置できたと思い込んでいたし、アリス自身も何度も磨り潰されて膿み爛れた自分の記憶など、もう二度と形を成すことは無いと思っていた。

 だけど、あのコック――レオの左腕の傷が、アリスの記憶を呆気なく再構築した。存在すら思い出せなくなっていた幼馴染の存在を、彼自身が持つ傷が逆に引き出してくれたのはなんという皮肉だろう。

 溢れる光と目を焼くような象牙色の荒野。アリスの見る悪夢はその景色から始まる。



 子供だったアリスは零れ落ちそうなほど大きな水銀色の瞳に青い空を映し、その荒野に転がっていた。

 あおいあおいそらを見ていると、まるで世界の全てが綺麗だと錯覚してしまいそうだった。まだそう思えるくらい、五歳のアリスは幼かった。

「はやく、もう一度汲みにいかなきゃ」

 そう言いながらも一向に少年の身体は動かない。

「はやく、もう一度汲みにいかなきゃ!」

 もう一度自身に言い含めるように呟くと、ゆっくりアリスは起き上がった。肩口まで伸ばし放題になっている髪を、熱を孕んだ風がふわりと浮かした。

 かたん、と起き上がった拍子に足に硬いものが当たる。

 側に転がるのは、自分の胴とさして変わらない大きさの木桶だ。アリスはよいしょっと声を出して木桶を持ち上げた。周囲に真っ黒な染みができている。ひっくり返った桶から零れ出た水は、乾いた地面に一瞬で吸い込まれていった。

「もう一度――汲みに行かなきゃ……」

 堅い木でできた桶は空っぽなのにすこぶる重い。それでもアリスは何とか桶を持ち上げて、よたよたと歩き出した。

 母が倒れたのは昨晩のことだった。荒野の夜には、昼からは想像もつかない冷えた風が走り抜ける。その風が母の精力まで持ち去ってしまったようだった。麻でできた粗末なベッドに臥せってからまだ今日は一度も起き上がれていない。汲みためていた水瓶の底が乾いていることに気づいたアリスは、慌てて木桶を抱え、初めて一人で家の外へと出たのだった。

 岩と砂の大地をアリスの革のサンダルが踏みしめる。村の唯一の給水場である井戸は、荒野が砂漠に変わる境界にあった。村からはかなりの距離があったが、その地に住む限り日々村人は其処へと足を運ばなければならない。

「一日五杯まで、一日五杯まで、一日五杯まで……」

 少年はぶつぶつと呟きながら黙々と歩く。一日五杯、それが今の村人一人に与えられた供給水量だった。

「さっき溢した分は一杯になっちゃうのかな」

 答えは返ってこない。見ている人なんていない。じゃああの一杯は無かったことにしよう。アリスはそう決めた。アリスは素直で正直だが強かだ。この貧しい土地で生きてきた以上、そう育つのはとても正常なことだった。

 井戸が見えてくる。象牙色の砂の中で井戸は異質に白く輝いている。じりじりと照りつける日差しを受け、地面から立ち上る陽炎に井戸はゆらゆらと揺れていた。まるでふっと消えてしまいそうに危うく、これを見ると村人はみな不安な気持ちになるらしかった。

「もうちょっと……」

 井戸に近づくにつれてアリスは憂鬱な気持ちになる。水を手に入れられるのは嬉しいが、桶一杯に入った水をもう一度村まで運ぶのは、まだ小さなアリスには辛い仕事だ。段々とアリスの足取りは重たくなり、しっかりと持っていたはずの木桶はいつのまにか地面をがりがりと擦って嫌な音を立てていた。

「もう…………ちょっと……」

 その時だった。アリスの手にあった重みが嘘のように軽くなる。

「なにやってんだよ。どんくせえ奴」

 振り向くと見知らぬ少年が桶の底を片手で掴み上げて、丁度両側から二人で荷物を持つ要領で支えてくれていた。少年のもう一方の手は、錆の浮いた鉄色の髪の頭の上で、もう一つの木桶を器用に支えている。

「お前ほんとに村の人間か?見たことねえな」

 ぐいっと顔を近づけて、少年は髪と同じ色の瞳でアリスをまじまじと見た。歳はそう変わらないくらいだ。どうやら水泥棒かと疑われているらしい。

「僕は、コーラルの、」

「あーあー、くすり屋のとこのやつか。お前いっつも家の中いるじゃん。そっかそっかーあそこのなあ――ああ、俺はレオ。食材屋のレオっていったら村のみんなは分かるんだけど、知らないか」

 訝る顔から一転してレオは破顔すると、空いた手でアリスから木桶を取り上げるとすたすたと歩き出した。手の空いたアリスは少年の後をあわてて追いかける。

 レオ。お母さんが何度か名前を出していた気がする。『大事な材料の黒蜥蜴のしっぽを持って振り回しながら届けに来たのよ!あの子はもう』と頬を膨らませていた母の顔は、本心から怒っていなかったはずだ。

「僕は、大丈夫だよ」

「分かってるよ。井戸まで持ってってやるだけだ」

 少年は慣れたものというように危なげない足取りで進んでいく。

「すごいね。なんでそんな簡単に運べるの?」

「毎日やってるからな」

 何て事無い様にいう少年の言葉を聴いて、アリスは急に恥ずかしくなった。アリスはこの歳になるまで井戸まで行ったことすら無かったのだ。代わりに咳をしながら優しい母が、重たい水の入った桶を持ってこの行程を往復していた。

 アリスはそれを子供なら当たり前なのだと思っていた。実際に、母には外に出てはいけないときつく言われていたせいもあったのだが。

「ほら」

 井戸まで辿り着くと、少年は備え付けのロープを桶の持ち手に絡ませて水を汲み上げて見せた。

「お前顔真っ赤だぞ。ちょっと水飲んどけ」

 脱水で倒れても俺背負ってやんねえからな、と少年は行きの何倍も重たくなった木桶をアリスに持たせる。桶になみなみと入った水はその冷たさを切にアリスに訴えてきた。一口飲むと身体の隅々まで一気に冷たさが広がっていく。アリスは呼吸も忘れて水を飲んでいた。

「ぷはっ」

 いい加減息が続かずアリスは桶から口を離し、大きく息をする。

 生きている。と痛烈にアリスは感じた。

 水を吸い、空気を吸い。自分は生きている。

 母に守られて全く家から出ることのない日々は、何時の間にか彼からその事実さえもぼんやりと霞ませていた。

「おいしい…」

 横でその言葉を聞いていた少年が、ははっと笑った。

「元気出ただろ。これで帰りは大丈夫だ!」

 アリスは力強く頷くと木桶をしっかりと持ち上げた。見よう見まねで少年のするように頭の上で木桶を支える。

「お前とお前の大事なやつを生かす水だ」

 しんどくなってもそう言い聞かせれば足が動く――少年の言葉はアリスに言い聞かせているようにも、自分に言い含めているようにも聞こえた。

 アリスはそんな少年を尊敬した。少年の手はたくさんの豆ができており皮膚は堅く変質している。沢山の仕事をこなしてきた証拠なのだろう。

 昨日から床に臥せってしまった母を自分が支えていけるのかという不安で押し潰されそうだったアリスにとって、目の前の少年の存在は自分をこれ以上ないほどに勇気付けてくれた。

 自分も頑張ればこの少年のようになれるかもしれない。アリスは希望を彼に見たのだ。

 勇気を振り絞ってアリスは少年に問いかける。

「ねえレオ、僕と……友達になってくれない?」

 錆色の髪をした少年はきょとんとした後、にかっと笑って答えた。

「もちろん!で、お前の名前は?」

「僕の名前は……」

 アリスははにかみながらレオに伝える。

 もう葬られて久しい、自分の名前を。

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