残響はモノトーンで 03

 薄白色のスープに細かく刻んだ仙人掌サボテンが揺れている。骨ばかりだが美味い出汁が取れる藍色の鰭を生やした砂魚サンドフィッシュを、時間をかけて煮込んだものだ。

 前菜には柔らかく栄養の多い仙人掌サボテンの棘を選び風花と合わせたサラダ。デザートは厚い皮に包まれた何色もの西瓜すいかを丸く刳り貫いて、カクテルグラスの上でほどよく冷やしたものだ。

 神子が少食であり、必要以上の量の料理を並べられると気分が悪くなる、という料理人からすると大変モチベーションの上がらないオーダーを戴いたので、昼食はこれだけだった。

「ウサギか」

 マリベルによって透明なワゴンで運ばれる料理の量と品数の少なさに、レオは小声で呟いた。せっかく夜通しでしたためたコースを笑顔でマリベルに却下されたのだ。レオのショックは計り知れない。それでも少ない品数に覚えている限りのアリスの好物を詰め込んだ自分の手腕を、レオは心の中で自画自賛する。

「こんな状態ですから、王も門戸を開いて神子様の口に合うコックを探せと仰せなのよ。神子様の健康は国のたっての願いですから」

「宮廷料理人もいるだろう?いや、この際は矜持もへったくれもないってか」

「彼等は元々王族のために腕を揮う者達です……それに、当代の神子はすこし事情が違いますの……」

 言葉を濁してマリベルはそれ以上話さなくなった。事情とは、アリスがある程度物心がついてから城に召し上げられたことの事だろうか。城育ちではないから、宮廷料理は口に合わない。そう思われているとしたら馬鹿にされたものだとレオは思う。

 改めて少ない料理を眺めるとレオは感慨深い気持ちになった。いや懐かしい気持ちか。

 昔だったら、これぐらいの量が精一杯だったのだ。

 水の無い、あの時代。

 自分を生かすぎりぎりの栄養素と熱量カロリーすら得ることの難しかったあの生活。

 アリスはまだそんな時代を生きているのだろうか。今、世界を救っているのは彼だというのに。

「その角を曲がった先の部屋です。ほら、襟を正して」

 神子のいるという食堂に扉は無かった。アーチ状の入り口から廊下に光が漏れ出ている。前を行くマリベルがその部屋にいよいよ入った時、レオの心臓が大きく跳ねた。

 アリスが居る。あの部屋に。

 緊張で手が汗ばんできた。鼓動が激しく高鳴り、部屋までの足取りが急に重くなる。部屋に近づくにつれて、レオの視線は段々と床へ落ちていった。

 部屋の入り口に立つ。顔を上げればそこにアリスが居る。

 頭の中に浮かぶのは十年前の自分達だ。今の自分はあの時からかけ離れてしまってはいないだろうか。砂漠を二人で駆け回っていたあの頃とは。

「おい、早く顔上げろよ」

 乱暴な声がした。綺麗であるがゆえに、声質と口調の噛み合わなさが酷く強調される。レオは混乱してその場で固まっていた。今のは?今の声は――?

「おいってば」

 レオの視界一杯にモノトーンが広がった。年の割に背丈の大きいレオを、近付いた相手が掬い上げるように見上げてきたのだ。

 もはやアリスの面影は、色だけが残骸として転がっているだけだった。烏の濡れ羽色の髪、白金プラチナの瞳。そこに情けない顔をしたレオの姿が映っている。

「――料理の毒味。コックがしてくれないと俺が食べらんないんだけど」

 苛ついていることを隠しもしない顔は、レオの記憶にあるアリスのどの表情とも違っていた。大きな瞳、高くすっと通った鼻梁、赤みの殆ど無い頬、薄い唇。どのパーツもレオの覚えている幼いアリスのそれとよく似ていた。きっと成長したらこうなるだろう、という想像の線上を逸脱することなく顔に納まっていた。だが、その要素が構成する表情が、醸し出される雰囲気が、あまりにあの頃と掛け離れすぎているのだ。

「神子殿!あまり不用意に新参者に近づかないでください」

「った!」

 堪りかねたように首根っこを捕まれ、アリスが仰け反る。軽装ながらすぐに戦闘用とわかる軍服に身を包んだ青年が、半身をアリスとレオの間に割り入れた。不用意にレオが歩み寄れないように牽制し、警戒を込めた目で青年はレオを睨む。縁取りや刺繍の多い、高級そうな軍服の左胸には親指の爪ほどの勲章が数個飾られていた。

 急な展開にたじろぐレオを見かねて、キリの肩口でアリスが毒づいた。

「五月蝿いなぁ。キリ親衛隊長のお仕事は有事の際に何よりも俺を優先して動くことだろ?頼むから何も無い時にしゃしゃり出てくんなよ」

「ですが……神子殿に何かあってからでは、」

「その何かあったらが無い様に、日々総務方が目を皿にして城内に入る人間を選定してるんじゃん?頼むから飯くらい静かに食わせろよ」

 キリと呼ばれた青年はレオを一睨みすると、静かに壁際へと下がる。そこにアリスが追い打ちをかけた。

「キリ、其処じゃあないな。あっちだ」

 白く薄い手が指差すのは部屋の外。屈辱的な命令に、キリは眉間に皺を寄せて拒むようにアリスを見るが、当の本人はつまらなそうにして目を合わせもしない。手をしっしっと振って犬でも追い払うかのようだ。子供の頃のアリスは人を傷つけるようなことは決して言わなかった。相手の心を推し量るように瞳を真っ直ぐ覗き込んで、柔らかい言葉を選ぶのに長けた敏い子供だったはずだ。敢えて相手を煽るような言葉を乱暴に吐き出す今のアリスの姿は、レオには痛々しくすらあった。

「っ……失礼いたします」

 キリが出て行くのをマリベルが心配そうに見つめていた。あの優男に気でもあるのだろうかとレオは邪推する。

「マリベルも行っていいよ。食後に食器下げに来てくれるだけでいいから」

 幾分かキリに対するよりも優しい声音で、神子はマリベルに退出を促す。

「神子様、あまりキリ様を苛めないでくださいまし」

 マリベルは溜め息を付いて、キリを追うべく部屋から出て行った。残されたのはアリスとレオのみ。機嫌を損ねたアリスは、ぶすっとした顔でレオを手招きする。

「じゃあ給仕よろしく」

 いきなり給仕までさせられるなんて聞いてないぞ、とレオは頭を抱えたい気持ちになりながらも「失礼します」と大きな部屋にぽつりと置かれた正方形の食卓に近付いた。店を転々としながら腕を磨く中で、ウェイターも兼務する事は良くあったので、一流とはいかないまでも慣れた手つきで料理を配置していく。それから料理を一口ずつ、一皿ずつ別のスプーンで掬い上げて毒味として口に含んでみせた。

「さっきの二人さ、元々おんなじ屋敷の出なんだ。マリベルがキリの世話係でさ。あの女可愛い顔して吃驚する歳だからよ。逆らわないほうがいい」

 グラスに注がれた薄青色の冷茶を口に含みながら、アリスはレオに怪談話を打ち明けるように小さな声で囁く。猫の様に吊り上がった眼が幼い頃よりずいぶん彼の印象をきつくしてしまっている。昔は女の子のようなおかっぱだったのは流石にもう卒業したのか、適度な短さに切られている。ぴょこぴょこと毛先が跳ねていて、実はくせっ毛だったのだなと今更ながらレオは知った。

「なぁ話でもしてくれよ。外から入ってきた人と話せるチャンスなんて中々無いんだ、ほんと――――俺の手にあるのはコックの更迭権ぐらいだから、悪いけどお前もそこそこ話したらクビだわ。安心しろ、退職金は支払うからよ」

 配置を終えてワゴンの横に立ちっぱなしだったレオは困ったようにアリスを見下ろした。どうやら、アリスはレオのことに気付いていないらしい。そして、その上で話し相手になって欲しいのだと。

 忘れるなって言ったお前が、俺を忘れるなんて、ずるいだろ。

 やっと、ここまで来たんだぞ。

 レオは喉まで出かかった言葉を飲み込む。十年の月日が経ったとはいえ、自分はそんなに変わってしまったのだろうか――

「じゃあ遠慮なく」

 一気に脱力感が襲ってきて、レオは断りも無く椅子に座り込んでしまった。

 あの言葉、あの涙、あの表情。

 憎んでもいいとまで言って、そこまで言って、消えたくせに。

 レオはそれに絡め捕られてこんなところまで辿り着いたというのに。当の本人は忘れてしまっているのか。

 だが不思議と怒りは湧かなかった。まだ足を踏み入れて数時間しか経っていないが、どれだけこの城が豪奢で安全で居心地が良いのかはレオにも簡単に想像出来る。貧しい村での思い出など、思い返すこともなかっただろう。ましてや痩せた砂蜥蜴を巣穴から引きずり出して食べていた事など、記憶から消していてもおかしくは無い。

「何の話をしましょうか?」

「お前は何処に住んでたんだ?」

 いきなり答えにくい質問だ。現時点で名乗り出る気が無くなっているのに出身地をお伺いなさるとは。レオは先日の面接で使った嘘をそのまま流用することにした。

「商業都市メルカートです」

 村にいる頃戸籍を持たなかったから、確かに本籍を置いた地としては間違っていないはずだ。

「あのメルカート!王都を差し置いて手に入れられない物が無い、という巨大市場のある街だな。あっ、後敬語はやめろ」

「はあ。あそこには新鮮で貴重な食料も集まるから、料理人としてこれ以上無い修行場なんで」

 まあ、他にも王城に入る取っ掛かりを作るために、祖字術や格闘技など、手当り次第技能を磨きたかったのがそもそもメルカートに逗留していた理由ではあるが。どれも手習い程度で披露できるものではないので、敢えてここでは口にしない。

「なるほど、確かに料理の腕は確かだな。風花をサラダとしても出されたのは初めてだ」

 アリスは頷きながら白い花弁と緑の葉を彩りよく混ぜた前菜のサラダをパクパクと食べる。その動作はレオが敬語をやめたことに対して満足したという返事のようだった。

「風花は乾燥させてお茶にするのが通常だからな。生食の良さを知ってる人間が少ないんだよ。ホントは仙人掌サボテンより食べやすいんだけど、苦味を抜くのに綺麗な水がいるのがネックなんだよな。その点この城は台所まで直接水道を引いてるんだからすげーよ」

 レオが料理について熱く語るのをアリスは興味深げに聞いている。

「お前面白いな。神子を前にしてこれだけ初っ端からぺらぺらと喋る奴も初めてだ」

 そりゃあお前とは幼馴染だからな、とは言えず、レオはへらりと曖昧に笑った。

「下町でコックやってると、世間話の方が料理の腕より先に上手くなっちまうもんさ」

 そんなものなのか、とアリスは感慨深げに頷くと次の料理に取り掛かった。乳白色のスープを一口に運んでから、おいしいと一言だけ呟いたかと思うと、両手でスープ皿を持ってごくごくと一気に飲み込む。完全にマナー違反だ。唖然とするレオを尻目に何食わぬ顔で皿を元の位置に戻すとアリスはデザートを要求する。どうやらここまでの食事は、幸いにも神子の口に合ったようだ。

「どうぞ」

 大きなカクテルグラスに薄桃色や薄黄色の果肉が浮かんでいる。アリスは装飾の施された華奢な金のスプーンでそのひとつを掬い取った。

「綺麗な色だ」

 そう言って口に運ぶ。

「おいしい!」

 今までのコックは砂糖が高級品だからってやたらめったら何でも甘くしやがるんだよ、と嬉しそうにデザートを頬張るアリスを見ている内に、レオはすっかり嬉しくて有頂天になってしまった。残念ながらレオは元々頭の良い方ではなく、口も軽い。そして喜びは彼の口をさらに軽くしてしまう。

 その結果、レオは自分でも全く意識せずに爆弾となる一言を投下していた。

「だろ、アリスはなんでも薄味が好きだからな」

 一瞬にして白金の瞳孔が縮まり、アリスはひゅっと音を立てて呼吸と止めた。

「いや……どうした?」

 レオは自分の失言にまだ気づいていない。アリスの手から食器が力なく滑り落ちてテーブルの上に転がった。食べかけのデザートが、陸に打ち上げられた魚のように白いテーブルクロスに無残に転がる。

「なんで……俺の名前を知ってんだよ?」

 只事ではない空気にレオが慌てて嘘を吐く。

「いや……マリベルに聞いて……」

 尤もらしい言い訳をしたつもりだったが、アリスの顔はさらに険しくなる。まるで毛を逆立てた猫のように、目を吊り上げて警戒してくる。

「そんな訳ねえだろ。俺の名前は登城したときに抹消された。神の子に、個体識別なんてゴミみたいなものいらねえってな――!!」

 アリスがレオに詰め寄った。驚いて体を引いたレオはバランスを崩し、椅子と一緒に床へと倒れ込む。その上からアリスが馬乗りに圧し掛かった。激情に流されるままに荒々しくレオの胸倉を掴み締め上げるアリスの顔は、世界を救うという神子のそれとは程遠い。

「お前、お前は何だ!?どこでその名前を……!?」

「待て、待てアリス!」

 アリスの豹変にレオはまだ頭が付いていっていない。取りあえず宥めようと声を掛けるが、アリスという単語がさらに彼の精神を揺さぶって追い詰める。

「うるせえ!」

 マウントポジションから振り下ろされた拳をレオは左手で受けとめる。思った以上に拳が軽い。ギリギリと自分より一回り小さい拳を押し返しながら、アリスの健康状態をレオは心配してしまう。揉み合う内にレオの袖口から引き攣れた傷が覗き、アリスの手が弾かれたように離れた。

「あ…………!!」

 気付かれた。アリスの視線がレオの左腕に釘付けになっている。白金の瞳が心の動揺を映すかのように小刻みに揺れていた。何かを思い出すように――まるで壊れた蓄音機が、ゆっくりと震えて動き出すように。

 レオは覚悟を決めた。元々正体を隠す理由も、必要も無かったのだ。

「俺は」「そんなはず無い、そんなはずは無い。だってお前はさっきメルカートの出身だって言ったじゃねえか!言ったじゃねえか!そんなはずは無い、あいつが来る筈がない。あいつが来てくれる筈が無い。来るはずない!!違う違う違う!」

 レオの声を遮って、喉を震わせアリスが絶叫した。わなわなと震える手で自身の頭を抱え、子供のように頭を振って何度も否定の言葉を吐く。腕の隙間から覗く色素の抜け落ちた目は焦点が定まっておらず、身体は僅かに痙攣して、壊れる寸前の玩具の様な軋みを上げている。

「あいつは来ない。あいつは来ない。だって俺は許されない。まだ許されるはずがない――ねえ、僕を殺しに来たの?駄目なんだ、まだ駄目なんだ。だって、」

 脈絡なく紡がれる言葉は不安定だ。偶に覗くあの頃の口調にレオの心が波立つ。

「なあ、アリス」

「五月蠅い!!」

 ぽたりと透明な雫がレオの衣服に染みをつくる。

「黙れっ!!黙れ黙れ黙れ!!あぁ違うの、違う……」

 ぼろぼろと涙を零しながら、アリスが自嘲気味に口の端を上げた。幼くなる口調と、苦渋に満ちた表情がアリスという枠を軋ませ矛盾させている。まるで自ら自壊を促しているかのように。

「ねえ、上手に憎めるようになった?まだ僕は消えてないかな?やだな、おかしいよ……気持ち悪ぃよな――だって……俺は……」

 ふっと、アリスが天を仰ぎ息を吐いた。

「なんで――――なんでこんなところに来たんだ、レオ……」 

 そして糸が切れるように、巻いた発条ゼンマイが伸び切って駆動を止めるように、アリスは床へと背中から倒れていった。毛足の長い絨毯が、過保護なほどにアリスの身体を優しく受け止める。

 助け起こすが、紙のように白い顔をしたアリスはピクリとも動かない。ただ涙だけがアリスの頬を伝い流れ続けている。

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