残響はモノトーンで 02

 この大陸で唯一の雨恵む地、王都アクアリウム。

 古い言葉で水を囲む場所を意味する、偉大なるカルマの王のおわす場所だ。

 しかし、実際に王都の必要性は神子を安置するための器、という意味合いの方が強い。

 建国して二千年以上の歴史の中で、どの時代にも必ず神子が一人だけ存在し、この岩と砂の広がる国中に奇跡の力で水を恵ませ続けてきた。唯一の神子の不在は、十年前の『枯れた二年ラストダンス』のみであり、それ以降は新たに発見された当代の神子が、この都に雨を降らせ続けている。

 カルマの祈りにはこの奇跡が永遠に続くこと。そして、雨齎す神子への感謝の念が込められ、その想いが祖字列となって日々空へと捧げられていた。

 彼等が永劫なれと願う奇跡の対象は、神子の涙だ。

 カルマは涙を流せない。環境適応の過程で、涙を捨てたからだ。カルマの眼球は蛇や蜥蜴と同じ瞬膜という透明な膜で覆われ、砂塵や乾燥から守られている。だがその代わり、膜に覆われた瞳は涙を流す理由を失ってしまった。

 それは生態上の進化だったはずだったが、涙の喪失はカルマにもう一つの変化を齎した。彼等の精神は、涙を忘れたために強靭さを増したのだ。

 餓死するほどの危機、血を吐くほどの苦難、心を震わせる感動――どんな劇的な状況にあっても、彼等には“泣く”ということができなかった。

 その中で、カルマであっても神子だけはその瞳から涙を流すことができた。その涙には、雨を呼ぶ力があった。

 神子が涙する時、必ずその頭上には雲が湧き立ち雨が降るのだ。

 神子は代替わり制であり、血筋によるものではない。国の最高機密として神子の情報は下々のものへ簡単に流れ出るものではなかったが、城で神子が息を引き取ると共に、間を空けずどこからか新しい神子が誕生し召し上げられているという事実は、神子の国葬と新たな神子の祝祭の日取りから比較的簡単に読み取ることができた。

 神子は、人の子だ。

 カルマはもちろん、神子が人の子であると知っている。

 自分達と同じ人の母から生まれていることを知っている。

 知っていて、崇拝していた。

 神子だけが起こせる奇跡に救われるために。

 神子が涙すれば世界は潤った。

 神子が泣けば世界が救われた。

 神子が生まれたその日から、カルマの世界は、たった一人に救われるものとなった。

 たった一人に世界は押し付けられるものへと成り下がった。

 そんな悲劇に、だからこそ人は、奇跡という名前を付けたのだろうか。



 晴れ渡った朝の青空の下、真白の王城。

 聳え立つ複雑な構造のその城は、白亜を透明な金属でコーティングしたような、しっとりとした輝きを放つ材質で建造され、進んだ技術力を誇示したいのか、各所には魔術加工したと思しき発光鉱石の装飾が埋め込まれ、鼓動するように淡く光を放っている。

 興味本位に指で弾くと、想像していたより軽い音が鳴った。

 レオは驚きつつ、一体これは何という物質なのだろうと考える。だが残念なことに、彼程度の魔法科学知識では、全く見当もつかない。

 そもそも王城はその時代時代の最新技術で改修を進めつつも、その実は建国よりも遥か昔に栄えた文明の超過技術オーバーテクノロジーの遺構が基礎になった建物だと聞いている。今自分が触った壁も、もしかしたら過去の遺物なのかもしれないのだ。それならば必要なのは考古学の知識になってしまう。

「それにしても……」

 レオは肌の粟立つ感覚に思わず身震いする。

 何なんだこの城は。まるで千年を生きた砂龍の鼻先に突き出されたような戦慄が、さっきからずっとレオの体中を駆け回っている。

 無意識のうちにレオは肩をぎゅっと抱いた。何だか城に威嚇――いや、拒絶されているような気分になってくる。もしくは、城に踏み込んだ瞬間、その咢に噛み砕かれてしまうのではないかという恐怖か。

 だが、アリスは此処にいるはずなのだ。逃げ出すわけにはいかなかった。

「お邪魔しまーすっと」

 レオは意を決して城の中へ踏み込むと、迎えが来るまで身震いしながら待つ。慣れてくれば震えも収まったが、偶に思い出したように背筋を這う嫌悪感は何時まで経っても拭えない。

「俺……霊感あったっけな……?」

 これからここでずっと働くと思うとげっそりするが、それもしょうがない。

 アリスに会うためなのだから。

「ったくどんなブラック企業だっての……」

「何がブラックなんですが?この城は真白ですよ」

 レオが視線を上げると、わずかに開いた銀の扉の間から、少女がこちらを伺っている。

「心がな、ブラックなんだよ。緊張で」

「そんな心にも無い顔で……ん、よいしょっと」

 少女は重そうに扉を開けて城内へとレオを招き入れた。一部の隙もないほどきれいに整えられた服を着た女中メイドだったが、天然なのだろうが、くるくると巻かれた髪が妙に豪奢さを醸し出している。それを本人も自覚しているのか、必死で地味に見えるようにサイドできつく纏めているのが見て取れ、その苦労が忍ばれた。

「貴方が今日から神子付きのコックね。私は教育係のマリベルよ。宜しく」

「よろしくお願いします」

「私達が君の名前を覚えるのと、君の職業がコックから無職に代わるのとどちらが早いのかって感じだけど――まあ、精々がんばって」

「へーい」 

「……初日から先輩にその受け答えができるあたり、度胸だけは認めてあげるわ」

「ありがとうございます、先輩」 

「ちなみに前のコックでさえ三ヶ月は頑張ってくれたから。君もそのくらいは健闘してね。で、名前は?」

「レオです」

「ふうん、顔に似合わずいい名前ね。親御さんのセンスの良さを賞賛するわ」

 明らかな愛称を絶賛されるほどの無関心さ。レオは口の端を引き攣らせて笑顔を作る。ほらやっぱりブラック企業だ、と心の中で溜息をつきながら。

 真白な城の中に居る奴の腹の中なんて、大体岩蛸の墨よりも真っ黒なものなのだ。レオは言い掛かりに近い悪態を心の中でつきながら、マリベルの後に続く。

 足早に向かう先は厨房だろうか、城内は場外と変わらず真白で、磨きぬかれた床は鏡のようにレオ達の姿を映しこむ程。

 思わず女中メイドたちはスカートの中にまで気を使うんじゃないだろうか、と無粋な心配をレオはしてしまう。つい下心で視線を床に向けていると、部屋の前で立ち止まったマリベルの背中に止まり切れずぶつかった。

「仕事着が用意してあるから、まずはここで着替えてね」

 その部屋は、中庭に面した窓のある小さな休憩室だった。「三分で支度しなっ」と笑顔のマリベルに部屋に押し込まれ扉を閉じられる。

 レオは慌てて掛けられていた真新しいコック服を手に取ると、部屋の奥で着替えを始めた。だが、これが中々難しい。

「コック服くらい全国共通でいいんじゃねえの……なんでこんなボタンやら金具やらたくさん付いてんだよ!?」

 そもそも食堂で働いていたときはエプロン一枚だったのだ、着慣れない無駄に豪華なコック服に悪戦苦闘しているうちに、時間はどんどん過ぎていく。

「やべやべっ、もうマリベルが来るじゃねーか」

 なんとか見られるように整えたが、背中側の金具がひとつだけ留まらない。

「あー……もうこれはマリベルにやってもらうしかねーな」

 服も一人で着れないなんて、明日からあなたにも女中が要るなんて堪らないわね。三十秒後に冷笑と共に賜るだろう言葉にげっそりしながらも、レオは降参して背中に回していた手を下ろし、部屋を出ようとした。

 その時、窓の外から細い手がするりと部屋に伸びてきて、レオの背中の金具をかちゃりと掛ける。

 ぎょっとしてレオが振り向くと、背後にあった窓枠の向こうに、魚の腹のように白い腕がひらひらと舞っていた。

「下手糞」

 若い男の声だった。レオが声をかける間もなく、白い腕は岩陰に隠れるような素早さで、窓枠の外に消えていった。

「へっ?」

 一息を付いてレオは我に返り窓の外に身を乗り出したが、そこには白い床と、砂漠では貴重な緑の食物植物があるのみ。

 白い壁に囲まれた中庭は大した広さではない。丁度中央に巨大な鳥篭のような形の社が見え、あそこに隠れたのだろうかとレオは目を凝らしたが人の姿を見つけることはできなかった。

「なんだ……?」

 怪訝な顔をするレオの額に、小さな雨粒が跳ねた。きしりと、締め付けるように僅かに頭に鈍痛が走る。

 レオは雨が苦手だった。カルマとして祈りを捧げる気にもならない程に。

 幸福と激痛を一度に味わったあの日の雨に打たれてから、レオにとって雨はもはや信仰の対象ではなくなっていたから。

「――アリス。泣いているのか?」

 霧雨に顔を僅かに濡らした後、厨房に入った時にはとっくに百八十秒以上経過していた。

 レオはマリベルに笑顔で毒づかれながら、急いで神子の昼食を作り始めた。

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