第一章
残響はモノトーンで 01
砂。岩。その下に眠る鉱石。
そして乾ききった空気。
この国は、たったそれだけで構成されていた。
きっとこの世界は、当初ヒトなどという生き物が生きる事を想定していなかったのだろう。すぐに絶滅するに決まっていると考えていたに違いない。
そうとしか思えないほど、この世界はヒトに厳しかった。広大な土地はあれどその土地を埋めるのは乾いた砂。その上で永久に繰り返されるのは灼熱の昼と極寒の夜。
それでもヒトはこの世界で生き続けた。いくつかの人種が、争う余裕すら無いまま砂漠での生存レースを駆け抜け、脱落していく。
その結果として、たった一つの人種が環境に適応し砂の民として生き残るに到った。彼等は岩を切り出し住居を造り、その過程で地下に巡る鉱脈を発見した。獣を狩ってその革で日差しと砂から身を守り、僅かに生える草花から摂取できるものを探し出して栽培した。星明りの下で思想を巡らせ、そしてついに世界を構成する文字を見出した。
魔術、精霊術、呪術。全ての基本となるその文字を
それらを掛け合わせた、魔法科学という学問が新設されてからは日進月歩で彼等の生活は向上されていく。彼等は知識と技術でもって、過酷な環境下であっても文明を生み出し、文化を発展させられるだけの余力まで手に入れたのだ。
その民は自らをカルマと名乗った。
カルマの肌は進化の過程で、強い日の光を浴びても炎症を起こすことなくその白さを保ち続け、その目は舞う砂塵や熱波によって痛むことが無いように透明度の高い瞬膜に覆われていた。
しかし、そこまで環境に順応したカルマにも必須なものがあった。
水だ。
カルマに限らず生きとし生けるものに水は必要不可欠だ。その水が砂漠には絶対的に足りなかったのだ。
どれだけ文明を高めても、未だカルマには水だけは生み出すことはできなかった。
だから、彼等は奇跡を起こすしかなかった。
カルマに神を見たものはいない。彼らは知っていた。神が我らを助けることなどないと。だからこそ他の力を借りず、自分達カルマのみの力で、何かを起こさなければならなかった。
そしてカルマの妄執にも似た祈りが、一人の奇跡を産み落とす。
この世界で唯一雨を降らす事ができる、目に見える神の子の存在を。
*****
今日も王都には雨が降る。
神子様から賜る、恵みの雨。王都の人々は日が陰ると同時に、屋内からぞろぞろと路面に現れる。そしてそわそわと落ち着き無く何度も空を見上げ、雨がその身に触れると同時に、両手で印を組んで感謝の祈りを捧げだした。老若男女、まだ年端もいかぬ幼子まで、一糸乱れることなくその祈念は空から降り注ぐ雨へ向けられている。
やがて民衆の一部の者達から、煙のようなものが立ち昇った。ちょうど祈りを捧げる両手と額の間の
色とりどりの
「おーっと」
そんな祈りを捧げる人々の隙間を縫うように歩く、不届き者の少年がいる。視界が塞がるほどの大きな買い物袋を両手に一つずつ抱え、衝突寸前でふらふらと歩く彼に、皆が薄目を上げて不敬な輩だと眉を寄せる。だが彼はそんな視線など荷物で見えていないとでもいうように意に介さず、居並ぶ店の中の一軒のこじんまりした食堂のドアを乱暴に蹴り上げ中へと入った。
「あーしんど。店長人使い荒すぎだっつーの。これホント」
ぶつくさと文句を言いながら、瓶詰の
「うーん、今日も無暗矢鱈に働いた――!!」
大きく伸びをする少年の左腕には引き攣れたような大きな傷がある――あの日砂漠で死に瀕していた錆色の髪の少年、レオは十七歳になっていた。
アリスが連れて行かれた日から八年。レオは今遠く離れた故郷を出て、この王都アクアリウムで暮らしていた。
神子を保護していた褒章として地下水の配分が大幅に増えた故郷の村は、あの後大きく発展を遂げた。余剰分の水で農場や工房を新しく作り、仕事を求める人々で人口も増加する。小さく貧しかった村は、今では近隣の村々を圧倒していた。
だがレオは、そのある事件をきっかけに、その村から出奔した。悔やんでも悔やみきれない、愚かな所業。罵倒され、軽蔑され、そして悔恨の裡に思い出したのはあの日失った友人の顔。
もう過去だと思い込んでいた――涙を流しながらレオに謝罪するアリスの表情と声は、驚くほど鮮やかにレオの心に焼き付いていた。それから事あるごとにその記憶が、鈍い痛みをもたらす。アリスの事ばかり考え、深まる思慕が生み落す沢山の感情は、恋にも呪いにも似た歪なものだった。
その想いを呑み込んで、レオは決意した。
アリスに会いに行こうと。
街から街へと転々とし五年間、今となっては思い出したくも無い苦難と努力の末、明日やっと王城へと入るチャンスを掴んだのだ。
「ってまぁ……料理人としてなんだけど」
レオとしては、どうせなら厳しい試験や試合の末の騎士見習いへの登用や、苦学の末の準気象予知師としての採用だとか、もっと格好のつく方法で城へと上がりたかったのだが、こればっかりはしょうがない。才が無いのだから。
これでも必死でそういう方面も延ばしてみたのだ。だがやっとの思いで祖字を書き出せるようになった時の、あの悪鬼羅刹を人間の形にしたような師匠の稀に見ぬ落胆ぷりは一生忘れることは無いだろう。その後に凄まじい罵詈雑言の嵐があったそうだが、レオが自己防衛のために記憶から完全抹消したので阿呆のようにそのことは忘れている。それでも、もう人前で祖字を出す気など一欠けらも起きないし、そのせいで毎日の感謝の祈りも捧げられずにいるのだ。カルマが雨に向かって祈る時、才能があるものは条件反射で祖字を書き出して天に捧げてしまうという習性がある。レオがあの場で皆に倣って祈ろうものなら、周りからどんな目で見られるかわかったものでは無い。
「まぁ、料理人だったらな、逆に神子にご飯持って行けーとか、お前が作ったんなら神子の前で毒見しろーとか、色々神子と顔突き合わすチャンスも多そうだしな」
これも計算の内、と自らを納得させるように呟くとレオは目を瞑った。明日は早いから、と思いつつも胸が高鳴って眠れる気がしない。まるで村祭り前夜の子供のようだ。
しょうがないのでレオは明日作る予定の料理をもう一度確認してみる。岩塩で
そうか、なら魚を岩塩で焼くのは、塩気が強すぎてアリスの口には合わないかもしれない。蒸し焼きにして最後に塩で軽く味をつけるくらいの方がいいんじゃないだろうか。
「……うーむ」
考えれば考えるほど最初にセットしたコースから全くの別物になってしまいそうで、結局レオはそれ以上考えることを止めた。
それにしても、レオはふと不思議に思うことがある。
どうして自分のような、大通りの大衆食堂で少し名を売っているだけの料理人が、あんな簡単な試験で採用されたのだろう?
「……まったく、神子殿の我が儘にもいい加減に頭が痛くなる」
王城の一室で、大きく溜息を吐く軍服を着た若い男がいる。執務用の机の上に広げられたているのは明日から登用される神子付きのコックの履歴書だ。
「どこの馬の骨ともしれない料理人を次から次へとこうも城に入れられては堪ったものではない」
履歴書の横にそっと湯気の立つカップが置かれる。砂漠の夜は凍える程に寒い。顔を上げると、若いメイドが一部の隙もない出で立ちで口の端だけを引き上げて微笑んでいる。
「まあまあ坊ちゃま」
「城でその呼び方はやめろと言っているだろう」
「――あら申し訳ございませんこと……ですがそう気を揉まれても、神子様を害する者はそうはおりませんわ。
「だがあの二年間でどれだけのカルマが死に、国が荒廃した?逆恨みをしている者がいてもおかしくは無い。しかもその混乱で行政のシステムも大半が麻痺していた――だから、こんな履歴書が罷り通るんだ」
軍服の男はこつこつとペン先で履歴書を叩く。最低限の事だけが適当に書かれた、空白ばかりの書面は今や珍しいものでは無い。
「その仰り方、ご自身にはね返ってまいりますよ」
「…………」
黙りこくってカップの紅茶を口に含む軍服の男に、メイドは小さく肩を竦めた。
「しようがありませんね。私がしっかりと明日見極めます。ですから親衛隊長様、そんな穴が開くほど無意味な検分ももうやめて、安心しておやすみくださいませ」
半分ほど残ったカップを引き上げて、メイドが部屋から出ていく。軍服の男はまた大きく溜息を吐いて椅子の背もたれを軋ませた。
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