きみをすくう物語 ―雨涙の神子と錆付きの王―

遠森 倖

序章

世界がすくわれた日

 これは、彼をすくう物語。

 そして、彼に掬われていた世界の物語でもあり、

 はたまた巣食われていた彼の物語でもあり、

 そんな彼を救いたかった――俺の物語でもある。






 ぽたり。             ぽたり。

 ぽたり―――――ぽたり。                  ぽたり。

 ぽたりぽたりぽたり。

 これは、ただの暴力だ。だってその一滴一滴が、こんなにもレオの網膜に焼き付いて離れない。

 表面張力によって膨張した滴が、臨界を超えて目尻からまたアリスの頰に一粒零れ落ちた。その軌跡はレオの視界に彗星のように光の尾を掃く。それ呼応して、星屑が降り注ぐかのように、光の乱舞が二人の周囲を包み込む。

 レオはまるで光に誘われる虫のように左腕を持ち上げてその軌跡の出所――アリスの顔へと手を伸ばし、その手が目的地に辿り着くことなくぱたりと地に堕ちた事にこくりと小首を傾げた。

「あれ――?」

 赤黒い血で汚れたレオの二の腕は、大きく切り裂かれ小刻みに痙攣している。

 そこで初めてレオは気付いた。奇跡のように軌跡を描く視界は――ただの出血多量で朦朧としている脳の機能不全でしかないということを。

 レオは最早役に立たない目を閉じる。そうすることで肌を打つ感覚を、やっと鈍く全身に感じることができた。

 肌を滑り落ち、熱を奪っていくこの感覚は光ではない。コップ一杯のそれさえも奪い合うこの時代に育ったレオの脳では到底最初理解できなかったが、それは全て、水だった。

 生まれて初めて体感する雨。

 枯れた二年ラストダンスを生き抜いた者にとって、それは魂を、生を救済する象徴だった。

 止め処なく血を流しながらレオは雨に打たれる幸福に心を蕩けさせる。実際は失血による意識の低下だったのかもしれないが、レオにとってそれは紛う事なき楽園との邂逅だった。


 周りは見渡す限り象牙色の砂と突き出た岩々しかない。

 そこに今、彼等はふたりぼっちだった。

 唐突に、腕の傷口を押さえつけられた痛みで、滞っていた思考が覚醒する。

 薄っすらと目を開けると、ぼろぼろと涙を零しながら砂狐サンドフォックスのように大きな目を怒っているかのように吊り上げて、レオを覗き込むアリスの顔があった。

 幼い女の子のように切り揃えられた長めの黒髪の隙間から、大きな硝子玉の瞳が覗いている。色素の限りなく薄い白金色プラチナの瞳からは、涙が流れ続けていた。

 血の流れ続けるレオの腕に自分の防砂用のマントを押し当てて、アリスは何とか少年の身体からこれ以上の命が失われないようにと躍起になっていた。それでも布地を染める血はじわじわとその面積を広げている。

 濁った赤。それは自分の髪色と良く似ていた。

「アリス……」

 アリスの顔を見た瞬間、レオの脳が直に揺らされているように大袈裟に痛む。

 体を叩く雨粒の齎す多幸感と、アリスの涙が齎す苦痛。その二つの感覚に精神を混濁させながら、レオは黒髪の少年に声を掛ける。

「アリス……」

 その声はみっともないほど小さく震え、今自分の感じている動揺がありのままに曝け出されていた。ふたつの感覚の狭間でレオの唯一残った冷静な部分が、その答えを叫んでいる。

 目の前で泣き濡れる自分と同い年の小さな少年が、その背にどれだけの光を背負っているのかを。

 そして同時に、際限のない疑問もレオの頭の中を駆け巡っていた。

 どうして?どうして、と尽きることなく。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

 アリスはさっきから同じ言葉しか発していない。高く澄んだ、透明度の高い声で繰り返される謝罪は言葉としての意味を失って、オルゴールのようにただ紡がれるだけの空虚な音階と成り下がっている。

 違う、謝ってほしいんじゃない。だがレオには声を荒げてアリスに詰め寄る力など残っていない。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

 何で謝る。レオは朦朧とする頭で考える。俺が自分でやらかした馬鹿なことに、アリスが責任を感じているからだろうか。それとも今彼が流している人ならざる者の証――涙に対してなのだろうか。それとも俺がお前の事をこれ以上ないくらい憎むだろうことを、先回りして詫びているのだろうか。

「ごめんなさい、レオ……」

 名を呼ばれ、一際レオの頭が激痛を訴えた。嗚咽も無く、鼻をすすることも無く、ただ涙を元々そうであったかのように流し続けているアリス。

 徐々に雨足は弱まり、立ち込めていた雲も晴れていく。雲間から光が差し込みアリスの涙に濡れた白いかんばせを照らした。それは異様であったが、同時に泣くことのできないレオにはただただ美しくその姿は心に刻み込まれた。

 多分、王都以外の場所で雨が降る事など、歴史上初めてではないだろうか。

「アリス……お前は……!」

 レオは自分の身体がもう意思通りに動かないことに気が付いた。血を流しすぎたのだ。

 アリスの支えが無いと体を起こしていることすらできない。

「レオ」

「何だ?」

 徐々にレオの意識は泥の中に沈むように薄れていく。アリスは少しでも失血を防ごうと、ぐっとさらに強く、マントをレオの腕の傷口に押し当てた。

「もう僕のことなんて嫌いになっちゃうと思うけど、もう僕のことなんて大嫌いになっちゃうと思うけど。だけどだけどだけど――――僕のことを忘れないで」

「何言ってるんだ?」

「この雨ですぐに人がここまで来るよ。そしてレオを助けてくれる」

 そこでアリスは顔をくしゃりと歪めた。

「そして僕を連れて行くの」

「そうなのか?」

「そう」

「そっか」

 もはやレオは闇へと落ちかけた意識の淵から、なんとか返事をするだけで精一杯だった。夢うつつに語りかけられる童話のように頼りなく、アリスの言葉はただレオの鼓膜を震わせるだけだ。

「レオ。僕のことを忘れないで。僕はアリス。アリスだって。覚えていて。いっそ殺したいくらい憎んで。僕の事を。そのかわり、僕を、消さないで――」

「あたりまえだろ……」

 それっきり、アリスが何を話しかけてもレオは返事をしなかった。

 それでもアリスはレオに話し続けた。

 謝り続けていた。


 五日後、レオが目を覚ましたときには、当然のように、もうアリスの姿は村から消えていた。それと同時に村人から、死を目前としていた悲壮感も消えていることが、何故かレオには滑稽だった。

 王都では二年を隔ててカルマを救うために降臨した神子の祝祭が、底を付きかけていたなけなしの物資を注ぎ込まれ盛大に行われ、それから少しずつこの国はかつてあった正常な姿に戻っていった。

 たった一人の少年に世界のすべてを押し付ける、とても自然なこの国の姿に。

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