三つ目 壁の向こう


この世界には、壁がある。それは見上げても果てが見えない壁だ。灰色の無機質な壁。材質は不明。でもなぜそれがあるのか、いつからあるのか、その向こうには何があるのか、誰も知らない。俺はずっとそれが気になっていた。

あの壁の向こうには、何があるのだろうか。誰に聞いても分からない。学者たちも、知恵を絞って色んな仮説を立てていた。

「あの向こうには魔族が住んでいるんだ」というファンタジーのような仮説から、

「かつての汚染された土地が向こうにあるんだ」という科学的な仮説まで。

誰も、その壁の意味を知らない。何故あるのかも、向こうに何があるのかも。誰が建てたのかも。

その壁に触れると、少し冷えていた。金属のようだが金属ではない。土でもなく、プラスチックでもない。どんな偉い科学者も、研究者も、その材質を解明できなかった。この地球には存在しない材質だと言っていた。毎日かわされる議論も、研究も、実験も、答えにはたどり着けなかった。


俺は、いわゆる神童というやつだった。天才と呼ばれた。他の人にも分からない事が分かったし、すぐに覚えることだってできた。科学も、数学も、生物学も、医学も、答えがあればどんな問題だって分かった。将来有望な天才少年。テレビや新聞は俺をそう讃えた。俺ならばあの壁の謎だって分かるだろうと言った。

ある日、俺は地面からなら壁の向こうに行けるのではないか、ということを考えた。そして少し工事会社に協力してもらって、地面を掘ってもらった。もちろん壁は広大だ。そこを少しずつ掘っていく。工事会社は何度か変わったが、同じように壁の周囲掘ってもらった。三年が経つ頃、壁は地面の下にもあったが、小さな、とても小さな、扉のような物を見つける事が出来た。その扉には10桁の数字を入れれば開くカギと、その数字のヒントらしき計算式が書かれていた。

俺はさっそくその計算式を解くことにした。今まで見たことのないほど難解な式を解くのには何日もかかり、マスコミは最初こそ俺を激励しに来ていたが、やがて邪魔をするのもいけないと思ったのか、遠巻きから眺めるだけになっていた。

糖分を摂取しながら、極限まで集中し、一か月で俺はその式を解くことに成功した。丁度夜中の事だ。俺が数字を入力すると、軽い音を立てて鍵は外れた。周囲を見回すと、誰もいない。これは俺だけ先に向こうを見る事が出来るのでは?

そう思って、行動に移すのは早かった。扉を押せば簡単に開く。ずっと不思議に思ってきた、誰も到達できなかった、壁の向こうが見えるのだ。


俺が扉を開くと、目の前は上に上がる階段だった。俺は恐る恐る足を踏み入れ、階段を上がる。そして見えた地上に、目を見開いた。

空を車のような、飛行機のようなものが飛んでいる。空に輝く月の光を複雑に反射する卵型のランプのような物は道を明るく照らしていて、そこかしこに居る人々は俺の見たことのない服を着ていた。散歩をしている犬や猫は何故か人の言葉を話し、明らかに国籍の違う人々が別の言葉を話しているのに会話が成立している。人々は若い人間ばかりで、誰もが笑顔だった。

「ん? どうしたんだい、少年」

ふと、俺に気が付いたのか、一人の少年が話しかけてきた。白衣を着たそいつは、少しくたびれた格好の俺を見て、思いついたように言う。

「あぁ、君は壁の向こうの人か。よく来れたね、壁の向こうの人間が」

「どうして……どうして、壁があるんだ?」

俺は、そう尋ねた。どうやら彼らは壁の向こうに人がいると分かっていたらしい。知らなかったのは俺たちだけ。尋ねると少年は首を傾げ、そして笑った。

「君、年上には敬語だ。私はこう見えて172だがね?」

「ひゃく…っ?!」

俺は驚いてそいつを見る。どう見たって小学生だ。白衣を着た、子供特有の柔らかい髪の。その反応が気に召したのか、彼は子供のように「あはははっ」と笑った。そして俺に言う。

「こちらでは若返りの薬が普通に売っているのだ。寿命だって三百年ほどある。君たちはまだ百年程度だろう?」

「な…んだって?」

「その反応を見る限り、やはり壁の向こうの科学技術など亀よりも鈍い進歩のようだね。若返りの薬が発売されたのは私が16の事だ。出産時の事故も既になく、人が死ぬ理由は老衰だけ。しかし食事にも困らない、貧困もなく、病気だって全て治療薬が完成している。土地がなくならないように空中に住居を作っている。交通手段も空中を飛べるから交通渋滞だってないし、どんな言葉だって言葉ならば通訳を介さずとも会話が出来る。……これが、私たちの普通だ」

彼はそう言ってから、意地悪な魔女のように笑った。

「さぁ少年、教えたまえ。壁の向こうが如何に愚鈍か。如何に無様に地を歩き、如何に不格好に物事を繰り返すのか。あの問題を解けたという事は壁の向こうの人間の中でも知恵のある方なのだろう? まぁ、あの程度の問題、こちらでは義務教育前の子供だって解ける代物だがね」

「な……なんなんだ、あんたらは。こんな技術が、技術の差が、何故……」

「なんだ、君らはまだそこにも達していないのか」

少年はつまらなそうに言った。混乱の中に居る俺を冷たい目で見下ろす。それから、さらさらと何かを書いて俺に見せて来た。それは全く解き方の分からない式だ。俺がそれをただ見つめているだけなのを見ると、呆れたように溜息を吐いてそれを自分のポケットに仕舞った。

一体、あの壁は何なんだ。何故壁がある。壁がなければこの素晴らしい技術が俺たちの世界にも存在しただろうに。科学技術の独占? 繁栄の独占? その主意は分からない。あぁ、分からないことばかりだ、こんなことは初めてだ。ただ見上げる事しか出来ない俺に、彼は面倒くさそうに口を開いた。

「我々は、かつて天才と呼ばれた。崇め奉られ、迫害され、結託して壁を築いた。そして我々を理解できる我々だけで住み良い世界を作った。それだけのことだ」

「てん、さい……」

「人は抜きんでたものを嫌う。妬み、恨み、醜い感情の矛先にする。普通でない物を嫌う。意地汚くすり寄り、媚びを売り、冷たくすればあいつは最低だと嘘を振りまき、優しく接すれば自分が特別だと錯覚し、思い上がる。何と生きにくい世の中か、何と醜い世間だろうか。……それ故に、我々は逃げた。それもまた立派な選択肢だ。そして我々が普通になれる場所を作った」

若い姿の老人は、肩を竦めた。そして愛しそうに周囲を見回す。近くを通る人はいるものの、こちらを見はしなかった。まるで汚い物を見ないふりをするかのように。気付けば大量の汗をかいていて、それでも体は凍り付いたように冷たかった。それよりなお冷たい声が上から降ってくる。

「我々の世界に、壁のこちら側に君たちのように才能のない者なんていない。だからこうして発展した。見たかね、この進化を。君たち凡人が邪魔をしたから手に入らなかったものだ。純粋な才能の結果、産物だ」

「……あ、あぁ、あ……」

俺たちは、凡人だった。天才神童ともてはやされた俺ですら、こいつらの足元にも及ばない。その現実が重い。彼はそんな俺の前に何かを落とす。それはさきほどの式だ。しかしそれにはもう答えが書かれていた。なぜこんな答えに? 解き方は? そのどちらも俺は分からなかった。「それは義務教育で習う計算式だよ」という声が上から降ってくる。あぁ、と思考が停止する。俺は凡人だった。何が天才だ、神童だ。草食獣の最強が胸を張ったところで、肉食獣の子供にすら勝てるはずがない。

「可哀想に。壁のこちらを見なければ、君はまだあの愚鈍な亀たちの世界で、足の速いうさぎでいられたのに」

彼は、そう言い残すと興味をなくしたように歩き去っていった。その白衣の背中を見送り、階段を降りて扉を開ける。後ろ手に閉めると、かちり、と鍵の閉まる音がした。すぐに、いつの間にかやって来ていたマスコミがやって来てカメラとマイクを向ける。

「博士、いったい壁の向こうには、何が……」

「凄い汗ですが、なにかいたのですか?!」

俺はその質問に、どうにかぎこちなくはあったものの、笑みを浮かべた。震える声をどうにか押さえながら、言う。

「壁の向こうには、恐ろしい怪物がいます。……だから、壁の向こうを見ちゃいけない」

その言葉に、マスコミたちはざわついた。どんな怪物が居たのか、どんな世界だったのか、そう問いかけてくるマイクたちを無視して計算式を書いた紙をポケットに突っ込んで家へと足早に向かう。早く、早くこれを燃やしてしまおう。もう誰も向こうに行かないように。 そして才能という現実に打ちのめされてしまう前に。


俺は家に帰ると、毎日欠かさず着けていた日記に、一行だけ書いた。

「俺は天才なんかじゃなかった。亀に勝って誇らしげなただのうさぎだった」

そしてそれを閉じて本棚にしまうと、物置から持ってきた縄を梁に結び付けた。

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短編衆 東条 @tojonemu

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