一つ目 天使は飛べないことを知らない

長い戦争が終わり、二人の兵士は故郷とも戦場とも遠く離れた知らない村へとやって来た。戦場から離れているためにそこまで被害は少ない村だが、他の場所と同じように食料や物品は不足していた。それでもその住民たちは二人の兵士を快く受け入れ、彼らに少ない食料を分け与えた。この国のために戦ってくれたから、と優しく笑う老婆に、二人がどれだけ救われただろう。

 そんな二人が村に来て数か月が経つ頃、二人は近所の住民の畑仕事を手伝っていた。そしてふと、片方は急にさした影に上を向く。先ほどまでは雲一つない晴天だったので、家に洗濯した服を干してしまっている。もし雲が出て来たならば取り込まなければならない……そう考えた兵士の思考は、自分の上に居たそれを見て停止した。一瞬、それが何なのか認識が遅れる。彼の上をゆっくりと通り過ぎたそれは少し先で地面に降りた。二人の近くで雑草を刈っていた男性は腰を摩りながら体を起こし、友好的な笑みで口を開く。

「お? お帰り、嬢ちゃん」

「えへへっ、ただいまー! 町の方でパンが売ってたから買って来たよ、あーげる!」

 それは、男性の挨拶に軽く手を振って答えた。そして持っていたバスケットから丸いパンを彼に手渡す。それからようやく、二人の兵士の方を見た。くるりと振り向くその動作で肩より少し長い金髪がさらりと揺れる。輝く青空よりも美しい碧眼が楽しそうに細められた。

「こんにちは、初めまして? うん、初めましてだ。あたし、ユリイカ。よろしくね!」

 ユリイカ、と名乗った彼女は向日葵のような笑みで言う。兵士はつられたように名前を口にするが、ずっと視線は一か所から動かさなかった。それは彼女のワンピースの背から生えた、一対の羽根だ。まるでハトのような白い羽根は、その視線に気が付くと少しだけ畳んだ。ユリイカはけらけらと笑う。

「えー、これ? 珍しいでしょ。あたし上からおっこって来たからさー」

「おっこってきた?」

「そうそ。雲の上から落ちてきたの。堕天使ってやつ?」

 あはは、と軽く彼女は笑う。二人の兵士は顔を見合わせた。男性は「その反応もしょうがない」と笑い、ユリイカの頭をわしゃわしゃと撫でる。

「ユリイカもアイネクライネも、普通じゃなかなか見ない格好だからな。珍しがるのもしょうがないな!」

「だよねー、知ってた!」

「アイネクライネっていうのは?」

「もうちょっと山の方でユリイカと一緒に住んでる鬼さ。角が二本生えててな、かなり力持ちだからたまに重い物を運ぶのとかで手伝ってくれる」

 男性の説明に、良い奴だよ、とユリイカは付け足した。そしてその羽根をばさりと動かし、地面から足を離して軽く手を振る。

「じゃ、あたし帰るわ。ばいばーい♪」

 そう言ってユリイカは空に舞い上がり、山の方へと飛んでいった。二人の兵士はそれをぼんやりと見送る。白いその姿が木々の向こうに消えてから、何でもなかったかのように畑仕事は再開された。


 ユリイカは頻繁に村の中に現れた。明るく気さくな彼女は村の誰とも仲がいいらしい。二人の兵士と仲良くなるのもかなり早かった。裏表がなく、ただ背中に羽根がある事を除けば、どこにでもいるただの少女だ。たまに彼女が連れてくる小柄な少年がアイネクライネと呼ばれる鬼であることを知るのもすぐだったが、ユリイカとは異なり彼は人と接するのを嫌がっているようだった。

「ユリイカ、ちょっと見て」

 ある日、いつものように村にやって来たユリイカと兵士は手招きした。なぁに、とやって来た彼女に鳥の本を見せる。開かれたページは翼の筋肉の図解だった。兵士はそれを指さしながら言う。

「これ、鳥の羽根なんだけどね。君の羽根とは違うよね」

「そうだねー。それがどうかしたの?」

「本来、君の羽根は力学的に飛べないはずなんだ。君の身長で飛ぶためにはもっと大きな羽と筋肉が必要だし、そんな羽ばたき方だとどんな動物でも落下する」

兵士はそう語った。元々勉強が好きな彼は、飛べるはずがないのに飛べている彼女が不思議で仕方がなかったのだ。ユリイカはその説明を聞き、その絵を見て、それから口を開いた。

「じゃあ、あたしが飛べてるのって謎なんだ」

「謎って言うか、飛べないはずなんだ。あらゆる法則を無視してる」

 ふぅん、とユリイカは言って、そしてとても小さな声で呟いた。

「知らなかった」

 そして彼女は立ち上がると、歩いて戻っていった。その背中を兵士は見送る。相方の兵士はアイネクライネと何か話していたようだったが、ユリイカがそちらに行くと彼女とも何かを話していた。それはごく普通の日常の風景だったが、彼女の羽根は動かなかった。


 その翌日から、ユリイカは飛ばなくなった。いや、飛ばなくなったのではない。飛べなくなった。彼女は自分が飛べないことを知り、飛べなくなったのだ。それを聞いた兵士は愕然とした。彼は空を飛ぶユリイカの姿が好きだったのだ。だからこそ不思議を解明したかった。彼女から飛べる羽根を奪ったのは自分だと、その事実が重く彼にのしかかる。

 しかし、そんな彼を救ったのは彼女の楽しそうな声だった。

「ねぇ、歩くのってめっちゃ楽しいね!」

 今までほとんどを飛んで移動していたの彼女は、新たな魅力を見つけたらしい。裸足で草の上を走り回り、楽しそうに笑う。そして彼女は自分の羽根をもいだ兵士の手を取って、言った。

「あんたのおかげで歩いたり走ったりするのがどんだけ楽しいか分かったよ、ありがとう!」

 その言葉は、彼を救済する言葉だった。兵士は狼狽えながら、躊躇いながら、彼女に言う。

「あのさ、もっとたくさんの事、教えようか」

 ユリイカはその青空より美しい目を輝かせ、そして笑う。

「それ、最高!」


 飛べない事を知らなかったから飛べた天使は、飛べないことを知り地上の楽しさを見つけた。知識は力である。失う事もあるが手に入れる事も出来る。ユリイカはそうだった。

 しかし、アイネクライネは違った。


 片方の兵士がユリイカと仲良くなるように、もう一人の兵士はアイネクライネと仲良くなっていた。力が強く、他者と関わるのを強く拒む彼と、かつてその強さから恐れられた兵士は似た部分があったのかもしれない。木陰に座り、ぽつぽつと会話を交わすのが二人の交流だった。

「アイネ、あのさ」

 ある日、兵士はアイネクライネに話しかけた。何かと問いたげに兵士を見る彼の額には二本の角がある。決して大きいわけではないので目立ちはしないそれが、彼の鬼の証拠だった。兵士はその角を見ながら言う。

「骨の異常でさ、人でも角みたいな突起が出来る事があるんだって」

「……つまり、何が言いたい?」

「お前は鬼じゃないかもしれないってこと」

 その言葉にアイネクライネは目を丸くした。兵士は言う。

「お前は人だよ、アイネクライネ。俺たちと同じ人間だ」

「……他の奴らより、力が強くても? 死にそうな怪我でも死なないのに?」

 それは、彼が自分を鬼だという理由だった。鬼だから力が強い。鬼だから死なない。そう言いながらも、彼が鬼であることを否定したがっているのを兵士は知っていた。この村に流れてくるまで、彼はその角が原因で迫害されていたらしい。それを教えてくれたのはユリイカだった。その姿に過去の自分を重ね、兵士はどうしても彼を救いたいと、助けたいと、ずっと調べていたのだ。慣れない笑みを浮かべ、兵士は頷く。

「お前は人だよ、アイネクライネ。力が強くて少ししぶといだけの、人間だ。町の病院に行けばもっとちゃんとしたことが分かるし、骨を削ってもらえば角もなくなる。迫害されることもない」

「本当に? ……ユリイカと歩いてても、石を投げられたりしない?」

「あぁ、もう大丈夫だ。普通に日向を歩ける」

 兵士の言葉はアイネクライネに向けられた言葉であり、そして自分にも向けた言葉だった。アイネクライネは嬉しそうに笑う。兵士もそれに笑みを返した。

「じゃあ、明日、病院に行きたい」

「あぁ、行こう」

 約束だ、と二人は指きりをして別れた。明日病院に行き、角がなくなればアイネクライネは普通に過ごせるようになるだろう。相方の兵士と、ユリイカと、四人でどこかに行けるかもしれない。それは彼が抱いた細やかな願いであり、欲しがり夢見た平和の日常だった。


 そしてその翌朝、兵士のもとにやって来たのはアイネクライネが死んだ、と言う知らせだった。山でオオカミに食われて死んだ、と。山にオオカミが居るのは誰もが知っていた。しかしアイネクライネはその強さからオオカミを退けていた。誰もが平気だと思っていた。それなのに突然、彼はオオカミに殺された。信じられない、と兵士の口から言葉が漏れる。

「どうして、あんなに強かったあいつが」

 そしてその言葉は同時に答えだった。昨日と今日の違い。それは一つしかない。……アイネクライネの強さは、鬼によるものだった。彼は鬼だと思っていたから強かった。それを否定したのは兵士だ。鬼ではないと教えてしまった。人だと言ってしまった。もしあの強さやしぶとさが、鬼であるという暗示のもとに成り立っていたとしたら。兵士の足から力が抜ける。

彼は思い出した。かつて呼ばれた自分の名を。

死神というその名を。



堕天使は飛べないことを知らないから飛べた。

鬼は人間であることを知らないから強かった。

飛べないことを知った堕天使は飛べなくなった。

人間であることを知った鬼は人間になった。

堕天使は飛べないからこそ見える世界を知った。

鬼は人間らしく死んだ。

そして死神は自分が死神であることを思い出した。


名は体を表す。

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