「もういいかい」

東条

ある夏の話。

「もういいかい」


いつも、夢で同じ人に会う。赤い着物に黒い帯を巻いた彼は俺の前を歩いていて、両手で大切そうに彼岸花を一輪、持っている。彼はごくたまに振り返り、目が合うとなんでもないように前を向いて歩いていく。その足は止まらず、いくら走っても距離が縮まることはない。

そして夢の最後、行き着くのは深い穴だった。何かを探すように周囲を見る彼はその穴を覗きこみ、落ちる。彼岸花は彼が立っていた場所に咲いていて、どこからか聞こえる夕焼け小焼けの音に揺れる。それで夢は終わりだ。目を開けると夜明けほどの時間で、大抵酷く汗をかいている。そして何かがぽっかりと空いたような空虚感に胸が苦しくて、悲しい。

いつも同じ人に会うのに、その顔を思い出せない。目が合うことだけは覚えていても、その目がどんな色でどんな感情を浮かべているのか、思い出せない。

ただ、その帯が揺れるのが、着物の裾が揺れるのが、ひどく印象に残っている。


幼馴染の一人である春香(はるか)から電話があったのは、平日の夕方の事だった。俺はちょうどリビングでニュースを見ていて、滅多に使わなくなってしまった固定電話の受話器を取りつつ、テレビの音量を下げる。

「もしもし?」

『もしもし、圭介さん? はるです』

「あぁ、春香。久しぶり」

春香はいつも遊んでいたうちの一人で、今は確か教授秘書か何かをしていたはずだ。俺はそう思いながら椅子に腰掛ける。風の音がするから、どうやら向こうは屋外にいるらしい。そして驚くほど上機嫌で、少し不思議な感じがした。俺の言葉に「お久しぶりです」と返した春香は上機嫌のまま話し始める。

『圭介(けいすけ)さん、兄さんの事、覚えてますか?』

その言葉に、動作を止める。春香の兄。俺は目を閉じて、低く唸るように「勿論」と返した。春香の兄は俺の同級生で特に仲が良かった。少しわがままで、頭が良くて、友人思いで、大好きだった。でも、と目を開く。

「あいつが、どうかしたの。もう、あいつは……」

『それがですね、帰ってきたんですよ、兄さん。私の家に』

「……え?」

春香は、恐ろしいほど上機嫌だった。ふふふ、と笑いながら、俺の疑問に答えてくれる。

『びっくりですよね。ずっと迷子だったんですよ、私の家に帰ってきたんです。方向音痴な圭介さんじゃあるまいし、こんなに迷子だなんて、おかしいですね』

「おい、春香? 何言ってるんだ、あいつは、もう、」

『うふふ、うふふふふふ、あっはははは! ほら、早くおいでよ、お兄ちゃん!』

ガタン、という物音と共に声が遠くなる、どうやらケータイを落としたらしい。遠くからは相変わらず笑う声が聞こえていて、そして、その音の中に、違う声を聴いた。

『……春香、みーつけた』

聞いたことのあるような、ないような、そんな声。それに春香は「見つかっちゃった」と呟いて、もうあとは何も聞こえなかった。通話が切れ、俺はどくどくと早い鼓動を刻む心臓を押さえる。今、この通話口の向こうで何があった?春香は兄さんが帰ってきたといった。でもあいつは死んでいるはずで、そして家に帰ってきたといっても春香は今上京して一人暮らしをしているはずだ。それなのに帰ってきたとは?そして、最後のあの声は?

分からないことが多すぎて、俺は考えながらその日一日を過ごした。

そして翌日の朝、春香が死んだという連絡が来た。


「春香は転落死だったらしい。大学の建物の屋上から飛び降りたって」

焼香を終えた後、そう説明してくれたのは幼馴染の一人で一つ年上の和人(かずと)だった。ビールを飲みながら、精進料理を食す。幼馴染はほとんど集まっていて、皆暗い表情だった。和人は寿司を一つ皿に取ってから、また話す。

「遺書の類はなかった。教授いわく最近何かを気にかけていたから、なにかに巻き込まれたのかもしれないって」

「そっか……なんかあったのかな、やっぱり」

裕紀(ひろき)がへこんだ顔で言う。その隣にいる幼馴染の一つ下の美玖(みく)も悲しそうにハンカチを握りしめていた。俺はあのことについて言おうか迷ってから、小さな声で切り出す。

「……あの、さ」

「ん?どうしたー、圭介」

「俺、多分春香が飛び降りる直前まで、電話してた」

「はぁっ?」

和人は思わず大きな声を出した。周囲からの視線に裕紀と美玖が謝って、それから「どういうこと?」と小さな声で聞いてくる。俺は少し頭の中を整理させてから、話し出した。

「春香からいきなり電話が来て、なんか様子がおかしかったから…」

「春香はなんて?」

「……兄さんの事を覚えているかって。それから、言ってた。兄さんが帰ってきたんだって」

その言葉に、全員が目を丸くして息をのんだ。当たり前だ、春香の兄は一人しかいなくて、そいつはもう死んでいる。まだ小さい時のことだけど、それが初めてのお通夜だった。よく覚えている。初めに口を開いたのは、和人だった。

「どういうこと? あいつ、もう死んでるだろ?」

「あぁ、もちろん。詳しいことは分からない。いきなり笑いだして、それで……そうだ、最後、通話が切れる前に声がしたんだ。聞き間違えかもしれないし、聞いたことがあるようなないような声だったけど『春香、みーつけた』、って」

俺たちの周りだけ、とても静かになった。美玖はとても動揺していて、でも頭を横に振って両手でハンカチを握りしめる。

「ありえません、そんなこと……」

「……とりあえず、俺は個人的にそれが関係あるんじゃないかと思ってるけど、分からない」

「……そう、ですか」

うつむいてしまった美玖を裕紀が慰める。そこからもう特に話すことはなくて、静かに解散して家に帰ってしまった。


その日、またいつもの夢を見た。いつもの道。いつもの人。でも彼岸花は二つに増えていて、穴の手前には膝をついて地面に落書きをしている少女が一人。いつもの彼は穴へと落ち、気付けば少女もいなくなっていた。そこで、目が覚めた。起きると枕もとのケータイに新着通知が来ていて、それを開いてから裕紀からのメールだと気付く。

【帰省しない?】

たった一文だけのメール。でもその意図はすぐに分かった。俺はすぐに返信を返して、それから会社に電話をかけて有休を申請する。すぐにそれは通って、俺は手早く荷造りを始めた。

目指すはあの場所。子供のころ住んでいた、あの町へ。


故郷の駅に着くと、改札を出てすぐの所に弟の透(とおる)が立っていた。俺を見つけると片手をあげて、「久しぶり」と笑う。アルビノのせいで日の光に弱いからか、少し暑い今日も長袖長ズボンに帽子をかぶっていた。薄い色のサングラスは少し見慣れない。

「透、来てたのか」

「うん、母さんが迎えに行ってって。車乗ってきたし、乗っていって」

「うん、助かる」

荷物を担ぎなおして、久しぶりに兄弟で歩く。弟は街に残って地元の店で働いているから、帰省するときしか会うことはない。子供の頃遊んでいたグループで唯一この街に残った奴だ。他は全員上京した。

「裕紀達は昨日到着して、兄さんが着いたら連絡してって。美玖は三日後くらい。……一日違うなら、一緒に来ればよかったのに」

「昨日は突然会議が入って駄目だったから。帰る日は一緒にする」

「うん、そうして」

駅前の駐車場に停められていた車に乗って、実家に向かう。カーラジオだけが流れていて、とても静かだった。少し走って信号で止まり、ふと透が話しかけてくる。

「兄さん、あいつらに聞いたけど、春香死んだんだって?」

「……あぁ、詳しくは聞いてる?」

俺の言葉に、聞いてる、と透は頷いた。青信号になったのでアクセルを踏み、景色が窓の外を流れていく。透は小さく息を吐いて、それから言った。

「俺、地方にいたからお通夜出れなかったんだけどさ、裕紀達から聞いたよ、春香、あの人がいるって言ったんだってな」

「……あぁ、らしい。本当にあいつだったのかは分からないけど」

「何言ってんだ、そんな訳ないだろ? あの人はもう死んだ。あんな場所で、たった一人で」

そう言う透の言葉の隅には怒りが込められていた。あいつと同い年だった俺らと同じくらい、こいつもあいつに懐いて一緒にいたのを思い出す。あの時だって、一緒にいた。

「俺、会いたいよ、あの人に。いつも俺は外に出られなかった。長くみんなと遊べなかった。一緒に遊んでくれたのは、ほとんどあの人だ。……迎えに来てくれないかなぁ」

「……もし、俺たち全員を連れていきたいなら、来るんじゃないか」

来てほしいなぁ、と透は楽しそうに言った。俺は背もたれに体重をかけて、深く息を吐く。サングラスの横から少しだけ見える目は輝いていて、もし自分より先に他の全員が死んだら、と考えると怖くなった。そこにある命が消える事は、何よりも恐ろしい。


そして家について、夕食を食べた後、呼びに来た和人と裕紀と居酒屋に行った。とはいっても酒を飲むのは和人だけで、俺と裕紀はウーロン茶だ。二人とも酒に弱いから、滅多に飲まない。

「明日辺り、墓参り行くか。最近全然行けてなかったし」

そう提案したのは和人だった。俺たちは別に用事もなかったし、二つ返事で了承する。それからはほとんど、春香の話をしていた。そして、死んだあいつのことを。

「どうする? もし、本当にあいつが俺たちを呼んでるんだとしたら」

「んー、会えるんだったら嬉しいけど複雑だわ」

裕紀は少し首を傾げながら言う。俺もとりあえず頷いておいた。正直言って、一緒に連れていてくれるなら一緒に行ってもいいと思っている。あいつはいつも一緒にいたから。一人がどれだけ寂しいか、よく知っているから。また名前を呼べるなら、名前を呼んでくれるなら、幸せだろう。そう考えて。


      ■■■


仕事を終えた美玖は、都会の道を一人で歩いて家まで向かっていた。空には星が輝いていて、しっとりとした空気を感じながら歩く。少し歩いていると、不意に歌声が聞こえてきた。昔聞いた童謡だ。それは道の脇、階段を上がった先から聞こえてくる。

「…?」

彼女は首を傾げた。どこかで聞いたことのあるような声。階段を一段ずつ登っていく。階段をあがりきると月明かりに照らされた広場が見渡せた。そしてその中心に、毬をつく小柄な人が一人。その人物は歌い終わると同時に毬を両手で持つと、美玖を見て微笑んだ。

「……美玖、みーつけた」

それを聞いた彼女は、全てを理解した。その人物の手から落ちた毬が転がってきて、それを拾い上げることなく微笑を返す。

「……見つかっちゃいましたね」

その人物は歩いてきて、そして美玖の肩をとん、と押した。階段のすぐ上に立っていた彼女の体は簡単に傾き、視界に空が映る。そこに北斗七星を見つけて手を伸ばすが、星に手が届く前にその体は階段の下へと落ちていった。


       ■■■


いつもの夢を見た。いつも通りの道の脇で、髪を二つに結った少女が花を摘んでいた。そして穴の近くで絵を書く少女は変わらない。いつもの彼が持つ彼岸花は三輪に増えている。そしてまた彼は穴に消えた。そして全員が消えて、揺れる彼岸花をぼんやりと見ていた。


美玖が死んだと連絡があったのは、春香が死んだという連絡を受けた時間と似ていた。階段から落ちた時に頭を打ったことが死因らしい。こちらで葬式と通夜を行うらしく、俺たちは和人の実家に集まった。俺と、透、裕紀、和人の四人。元々7人だったのに、もうこんなに減ってしまった。でも透は違う意味でショックを受けていて、ずっとクッションを抱きしめてふてくされていた。

「……どうして女子ばっかり連れていくの? 俺も呼んでほしいんだけど」

「不謹慎だぞー、透」

「和人は黙ってて」

和人は少し拗ねたように口をつぐむが、正直あいつに非はないので軽く透を小突いておいた。しかしそれで訂正するなら苦労はしない。少しの沈黙。それを破ったのは、珍しいことに裕紀だった。

「……俺さ、最近、夢見るんだよね。あいつがさ、俺たちを探してんの。暗い、日が落ちそうな森の中を、たった一人で」

それは、俺が見る夢とよく似ていた。とはいえ、俺の見る夢はただの道だけど。何も言わずにいると、和人が静かな表情で呟く。

「……それ、もしかしてあいつが死ぬ直前のあれなんじゃないの」

「あれ、って……」

「そうだろ、裕紀。あいつは死んだんだ。その時のことを、覚えてるだろ」

和人は静かな、真剣な表情で言う。そう、あの時のことを、俺はよく覚えている。


あの時、いつものように、全員が居た。俺も、春香も、美玖も、裕紀も、和人も、透も、そしてあいつも。たくさん遊んで、最後にかくれんぼをしようと言った。それを言いだしたのは、確か和人だ。じゃんけんで一人負けしたのはあいつで、悔しそうに木に顔をつけて目を隠したあいつに、今のうちに隠れようとそれぞれ隠れた。

俺は、確か神社の境内にあるプレハブ小屋の裏辺りの木陰だった。ずっとそこで待っていたけど誰も来なくて、夕焼け小焼けが鳴ったから木陰から出て、最初の広場に行った。いつも遊びはそのチャイムで終わりだったから。他の奴も全員居たのに、あいつだけが来なかった。

見つからないから怒って帰ってしまったんだろう、と俺たちは結論付けて、そしてそれぞれ家に帰った。その夜、春香が泣きながら家に来て、「お兄ちゃんが帰ってこない」と言うから慌てて、近所の住民全員であいつを探した。でも俺たちは子供だからと、何をしていたか聞かれた後は公民館で待つように言われて、探しに行くことは出来なかった。「どこにいるんだろうね」と話した気がする。

そして夜も更けて美玖と春香が寝てしまって、俺たちもそろそろ眠くなってきた辺りで、大人たちは帰ってきた。

でも、あいつは帰ってこなかった。

俺たちを抱きしめて、母さんたちは泣いた。俺たちは何が起きているのか理解できなくて、大人たちが話す言葉を呆然と聞いていた。

「今日はもう遅くて、消防隊の人たちも来られないから」

「明日朝一で出してあげようね」

そう言う母さんたちの言葉を理解したのは、翌日の事だった。訳も分からずそこで寝て、起きると父さんたちが知らない人たちと話していて、その会話を聞いて、ようやく理解した。

俺たちを探していたあいつが、古い井戸に落ちて死んでしまったと。


「あいつが死んだのは、俺たちのせいもあった。あの時かくれんぼをしようだなんて言わなければ、死ななかった」

静かな表情で、和人は言う。そう言いだすほど、あいつの死は俺たちにとって大きなことだった。いつまでも一緒だと思っていた。それなのに、急にいなくなってしまったから。

「あいつは、俺たち全員を連れてくつもりなのかな」

「そうかもよ? 春香と美玖は寂しがり屋で泣き虫だったから、先に連れてったのかもしれない」

「だとしたら、次は俺かな?」

逆にわくわくとした表情で透が言う。お前なぁ、と全員が呆れながら笑った。まだこいつが小さくて、自分がアルビノで他人と違うと認識する前から、こいつはあいつにべったりだったから。どこに行くのもついてきて、一緒に川に行くんだって泣いてたこともあった。お土産に持って行った川の綺麗な石を、とてもきらきらとした笑顔で喜んだり。兄である俺よりもはるかに兄弟らしかった。そういうのを思い出して、小さく溜息を吐く。

そこまで思い出せるのに、記憶の中のその顔はとても曖昧だった。まるで、思い出したくないかのように認識が出来ない。浮かべていた笑顔、強気な顔、そういう顔をする奴だったってのは覚えてるのに、どんな顔だったのかが思い出せない。それがとても悲しくて、空しかった。

「俺、全然怖くないや」

そう呟いたのは裕紀だった。見れば、とても柔らかな微笑を浮かべている。手を見下ろして、とても穏やかに言った。

「死ぬ、ってのは確かに怖いことだけどさ、でもあいつが連れてってくれるなら、皆また一緒なんだろ? それってすごい……なんていうの、良いことだと思うんだよね」

「まぁ、そうだなー。俺も普通に死ぬよりかは迎えが来てくれる方が嬉しいわぁ」

「俺は早くあの人に会いたい」

「お前本当に歪みないな!」

三人は楽しそうに笑う。それをじっと見ていた。確かに、俺も死ぬことは怖くない。迎えに来てくれてまた会えるならそれは嬉しいことだ。幽霊が出るとか、見つかったら死ぬとか、こんな出来事は夏の心霊番組で取り上げられるようなことだけど、怖くなんてない。もし俺たちはあいつを探していれば、或いは見つかるような場所にいれば、まだ今日も一緒にいられたはずなんだ。

日が沈んで暗くなっていく中、一人で皆を探すのはつらかっただろう、寂しかっただろう。あいつが死んだのが、俺たちが帰る前か後かは知らないけど、怖かったはずだ。真っ暗な古井戸に落ちるのも、怖かっただろう。痛かっただろう。冷たい、誰も知らない古井戸の中で迎えた最期は、どれほどの恐怖だったんだろう。

それに比べたら、こんなもの恐怖でも何でもない。むしろ俺たちも古井戸に落ちて死んだ方がましだというほどに、あいつのことが悲しくてならない。再会したとき、謝らないと。そんなことを思って、俺も笑った。

あいつが迎えに来てくれるのが、少し楽しみになってしまって。


それから、俺たちは墓参りに行ってからあの遊び場に向かった。あの古井戸はもう壊れされてしまっていて、その跡に花を手向けて線香を立てる。その場所はかなり奥の方で、電灯もない。こんな場所を一人でさまよっていたのかと思うと、少し眉間に皺が寄った。長い合掌の後、数珠を手首に通した和人が立ち上がって俺たちを振り返る。

「で、これからどうする?葬式までもうちょいあるけど」

「んー、もうちょいぶらぶらするかー。ここにくるのも久しぶりだし」

伸びをしながら歩き出した和人を追って、山道を歩き出す。セミの鳴く声がうるさいが、昔を思い出して不思議と苛立ちはしなかった。木漏れ日が眩しい。外が得意ではない透も楽しそうで、まだ大丈夫そうだと少し安堵した。

「四人でこうして歩くのも久しぶりだよなー」

「そうだね、なかなか会わなかったから」

「皆上京しちゃったし、俺も上京しようかと思ってた」

けらけらと笑い、皆で話す。昔に戻ったような、懐かしく楽しい時間だった。日が傾くまで山を散策していて、先頭を走る和人を裕紀が「危ないから!」と追いかけるのに少し笑った。そして透が大丈夫かと振り向いて、目を丸くする。ずっとあいつは俺の後ろにいたはずでつい先ほどまで会話していたのに、そこには誰もいなかった。

和人たちに伝えようと前を向いて口を開いたところで携帯がバイブして、画面を見る。新着メール受信の通知。文字化けしたメアドだったが、それは透の文面だった。

『兄さんへ』

『一人で彷徨うのは寂しいだろうから 先に行くね』

『透』

たった、それだけのメール。でもそれで十分意味は伝わった。返信はしないで携帯をしまう。どうせ返信したって届かないだろうし、あいつは見ない。二人に追いつくと、二人はじゃれるのをやめて首を傾げた。

「透は?」

「どうしたのあいつ。迷子?」

二人の言葉に、俺は笑みを浮かべて返した。

「大丈夫、先に行っただけだから」

俺の言葉に、二人も理解したらしい。それぞれ笑みを浮かべて、「そっか」と言ってまた歩き出した。そろそろ葬式の時間だ。暗くなる山道を街に向けて歩きながら、ふと木陰の方を見る。見覚えのある白髪が見えた気がして、そしてその後に小さな声が聞こえたような気がした。

「透、みーつけた」

その言葉に、幼い子供は顔をあげて、「見つかったー」と照れ臭そうに笑った。そして暗い闇の中に、溶けるように消えていく。幻覚だろうそれを見て、あいつ嬉しかっただろうな、と小さく呟いた。


その日の夢も、やはりいつもと一緒だった。いつもの道。彼岸花が一輪増えていて、二人の少女も絵を描いたり花を摘んだりしていた。あと一人、小さな少年がトンボを追いかけていた。いつもどおり彼は穴に消えて、彼らも消えて、彼岸花だけが残る。花の数も増えて少し寂しくはないかな、とうっすらとそう思った。


透は結局帰ってこなくて、家族や親族が捜索願がどうのと慌ただしく右往左往する中、俺は一人でまた山に来ていた。階段を上がって、広場になっている場所で足を止める。古びた神社はもう人も来なくなってしまったのか、御手洗の水も止まってしまっていた。苔の生えた狛犬に、長らく音を鳴らしていないであろう鈴とお賽銭箱。遠い記憶の中ではまだ綺麗だったのに、今目の前にある物は朽ちていた。

「……やっぱ、時間が経ったんだな」

色々と思い出すと忘れていることも多くて、街を歩いてみてもいくつか店が潰れていたり道路が増えていたり、同じ部分よりも変わってしまった部分が多かった。それだけ長い間、俺はこの街に帰っていなかったんだと実感する。つまりそれは、あいつが死んだのも相当昔だってことだ。そして俺は、その顔すらまともに覚えていない。俺に迎えが来たとき、きっと怒られてしまうだろう。「そんなことも覚えてねぇのかよ」と、小さく笑いながら。

でもきっと、謝れば許してくれる。あいつはそういう奴だった。どれだけ怒っても、謝れば許してくれる、優しい奴だった。転んで怪我をしたとき、怒られた時、いつも隣にいてくれた。そんな些細な事は、覚えているんだ。朽ちたベンチに座り、深く息を吐く。

(どうして俺は、あいつの顔を思い出せないんだろう)

親友の顔を覚えていない程冷血だったのか、と自分に嘆く。何かあった時、和人や裕紀や他の幼馴染たちと電話で話すと気持ちが楽になった。もしもあいつが生きていたなら、もっと幸せなんじゃないかと思ってしまう俺がいた。他の皆は覚えているだろうその顔を、思い出せない自分が嫌いだった。アルバムに残っていたはずのあいつの写真も一枚もなくて、母さんに昨晩尋ねると俺が自分で全て捨てたと教えられた。悲しくて、写真を見るのも辛くて全て捨ててしまったと。でもそれを俺は覚えていない。我ながら馬鹿な事をしたと思う。

また溜息。そこで不意にケータイが震えた。見ると裕紀からの着信で、それに出る。

「もしもし?」

『あ、出た。お前今どこ?』

裕紀は、どうやら外にいるらしかった。蝉の声が聞こえている。俺は周囲を見回しながら「神社」と答えた。

「神社にいるけど、なんで?」

『ん? いや、さっき和人行っちゃったからさ、俺最後だったらやだなーって』

小さく、裕紀は笑う。どうやらまた一人、あいつが迎えに来たらしい。どっちが最後かな、と問うと「どうだろ」と裕紀は答えを濁した。青い空を見上げて、息を吐く。

「和人は? 死んだの? 消えたの?」

『消えた。一緒に歩いてたんだけど、俺ブランコしてくるわって言っていきなり公園に入ってって、そっち見たらもう居なかった。でも聞こえたよ、あいつの声』

和人、みーつけた、って。

裕紀の言葉に、「そうか」とだけ答える。そこでふと、思った。和人と裕紀はすぐそこにいて、あいつも見つけられたはずなのに、なぜ和人だけが見つかったのか。透もそうだ。春香と美玖とは他に誰もいなかったらしいけど、あいつらは何故あいつらだけが見つかった?

駄菓子屋のおばちゃんにアイス奢ってもらった話をする裕紀の言葉を遮って、思いついたことを口に出す。

「おい、裕紀」

『はいはい?』

「お前、かくれんぼの時どこにいた?」

俺の唐突な問いかけに、裕紀は「へぁ?」と変な声を漏らした。でも俺が続けて何も言わないでいると、小さく唸りながら考え始めた。

『えーっと、最後のかくれんぼ? 確か……いや、違う、えっとぉ』

「早くしろ」

『頑張ってるから! あ、そうだ、思い出した、木の上だ』

「運動音痴の癖によくそんなとこ登れたな」

『登りやすい木だったんだっての! で? どうしてそんなこと聞いたのよ?』

裕紀は歩いているらしく、足音が小さく聞こえた。俺は空を見上げたまま、話し出す。

「憶測だけど」

『おー』

「多分、あいつはまだ俺たちを探してる。だから、俺たちもあの時と同じ行動をすればいいんじゃないか」

『つまり?』

「同じ場所に隠れればいい。隠れなくても、そこにいればいい。そうすれば、あいつは俺たちを見つけられる」

春香は屋上、美玖は神社、透は山道。それは全て、この街の、俺たちの遊び場だった場所に存在するものだった。場所は違っても、共通点があれば探し出せるんだろう。俺は立ち上がって、あの時隠れていた場所に歩き出す。神社の境内の、プレハブ小屋の裏の木陰。地味に広いから、そこに行くまで通話は切らない。

「迎えに来るって言い方してたけど、厳密に言うとあいつはまだかくれんぼしてるんだ。それで、俺たちを探してる。だから見つけたって言うんだ。きっとあいつに会った三人はそれを理解してる」

『なるほど……じゃあ、和人は公園に隠れてたんだ、あの時』

「そういうこと。それから、死ぬのと消えるのとの違いだけど、多分、美玖と春香は寂しがり屋だから、完全に消すのが可哀想だったんじゃないかな」

『どういうこと?』

「捜索願出されるよりも、死んで葬式あげてもらった方がいいだろ。女の子だから、ってのもあるかも」

『なるほどー』

通話口から、がさがさと言う音が聞こえる。それから、「あった」と呟く声。登っていた木を見つけたらしい。

「着いたか?」

『えぇ。もうちょっとここで待ってみますかねー』

どさり、と腰を下ろす音。「空がきれいだ」と呟く声。俺もあの隠れ場所にやって来て、朧げに残る記憶を頼りにそこに座った。

『あの時は、もう夕方だったっけね』

「そうだな。ってことは、多分夕方から夜にかけてくるんだろうな」

『じゃあもう少しお話ししてるか』

「えー」

『いいじゃん話してても!』

怒りながら笑う裕紀につられて少し笑って、二人で少し話をしていた。昔の話、最近の話。お互いの知らない話に驚いたり、懐かしい話に笑ったり、馬鹿な話に茶化したり。それはとても楽しくて、気付くと日は傾いていた。そろそろかぁ、と通話口の向こうで裕紀が呟く。

「どっちが最後だと思う?」

『んー、どうだろなぁ、どんな基準で選んでるんだろ?』

「さぁ?」

そこで、通話口の向こうで物音がした。裕紀が「あ」と呟く。そしてそれからけらけらと笑った。

『俺が先でしたぁ、残念賞~』

「その言い方うざいわー」

二人で笑う。裕紀はひとしきり笑って、それから言った。俺ではなく、恐らくあいつの前に立つそいつに。

『見つかっちゃったなー』

そこで、通話は切れる。でもその直前に、少しだけ聞こえた。みーつけた、という声。あの声。今日中にあいつは来てくれるのだろうか。ケータイを置いて空を見上げる。夕焼け小焼けが響くのをぼんやりと聞いた。あの時も聞いたこの音。本来ならばこのチャイムで遊びは終わりなんだけど、きっとあいつはそれを無視してるんだろう。このチャイムを無視することはたまにあったことだ。明るい夏の日は特に。

チャイムを無視して遊ぶのは、とても楽しかったなぁ。


数分経って、がさ、という物音に横を向く。その音は近づいてきて、そして少し先で止まった。懐かしい半ズボンと、タンクトップ。細い手足と少し大きめのスニーカー。柔らかそうな黒髪と、気の強そうな目。見てしまうと記憶は甦る物で、消えかけていた記憶が綺麗に治っていった。そう、この容姿だ、この顔だ。俺がずっと見たかった顔だ。俺と目が合うと、あいつは楽しそうに、嬉しそうに笑った。

「圭介、みーつけた」

少し高い声。懐かしい響き。俺は立ち上がって、その細くて小さな体の前で膝立ちになった。そうしてもまだ、あいつの方が小さい。あぁ、こんなにも変わってしまった。あの時はこいつの方が少しだけ大きかった。いつも背比べでどっちが勝つかと競っていた。でも、今は俺の方がずっと大きい。

当たり前だ、俺は大人で、こいつは子供なんだから。その体格差が、俺たちの間の時間をありありと見せていた。俺はその手を取って、笑みを浮かべる。

「やっと見つけた。……薫」

こいつが俺たちを探しているように、俺もこいつを探していた。記憶の海で、そのパーツに手を伸ばしていた。でも今は目の前の中にいる。それが嬉しくて俺は滲む視界も気にせずに笑みを浮かべながら、その探し人が目の前にいる事を実感するように、何度か手を握る力を強くした。大丈夫、この手の中には薫の手がある。昔のように暖かくは、ないけれど。

「ごめんな、ずっと一人にして。でも、もう大丈夫、俺らはもう一人にさせないから……ごめんな、寂しかったよな、暗い山は、怖かったよな」

いつも強気だったくせに、妙に寂しがり屋で、一人で何処かに行くことはしなかった。年下の奴らが怖がってるときはそれを慰めて励ましていたけど、怖い話も苦手で隣に座る俺の服を握ってきたりもした。

一人で何年も過ごすのは、寂しかっただろう。怖かっただろう。でももう大丈夫、俺はもうこいつから離れない。そんな気持ちを込めて言葉を紡ぐと、握っている手に力が込められた。少しうつむいた薫が、小さな声で言う。

「……ほんとに、もう置いてかない?」

「あぁ。……もう置いて行かない。ずっと、ずっと、一緒にいよう。また遊ぼう、七人で」

そう言うと、薫は力を込めて抱き付いてきた。泣いているようで、小さくしゃくり上げる声がする。小さな背中を撫でていると、薫が少し離れて俺の顔を見てきた。目が合って、とても綺麗に笑う。

「見つけてくれて、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」

もうそこはあの神社の裏ではなかった。明るい日差しと蝉の声。トンボが飛んでいてそれを透が追いかけていて、美玖が歌いながら花を摘んでいて、春香が地面に絵を描いていて、和人はそれに何か付け足して怒られていて、裕紀が美玖と一緒に歌っている。薫を見ると、その目線は一緒の高さだった。薫は楽しそうに笑って、俺の手を引く。道の先に見えた穴の場所には綺麗な彼岸花が七輪咲いていて、それ以外は特に何もなかった。早く、と急かすように手を引っ張る薫に、笑みを向ける。

「ごめんって、じゃあ、何して遊ぼうか?」

皆のそれぞれ違う答えに、俺と薫は顔を見合わせて笑った。

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「もういいかい」 東条 @tojonemu

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