母を刺す

チョロすけ

第1話

「母を刺そう」


そう思って悟志は歩いている。


道具は用意してある。100円ショップで買った出刃包丁だ。

人の命を奪う道具にしてはびっくりするほどの安物だが、

母を刺す道具としてはそのくらいがふさわしい。

何故なら、母は裏切り者だから。


だぶだぶの喪服の裾が、革靴のかかとに引っかかって歩きにくい。

叔父に借りた喪服は小柄な自分には合わないのだ。

Gパンに着替えてくればよかった、と思った。

こんな動きにくい服装は人を刺すのに向いていない気がする。

チッと小さく舌打ちすると、長めのズボンをぐいとへその上にずり上げた。


母は、悟志がまだ小さい時分に黙って家を出て行った。

ひどく夕焼けが赤かった、10月のある日のことだ。

いつものように母は、裸足にくたびれた赤いつっかけを履き、

玄関で悟志のほうをふり向きながらこう言った。

「サトちゃん、ママちょっとスーパー行ってくるからね」


「うん」と返事をしたかのかどうか、悟志はよく覚えていない。

ただ覚えているのは、夕焼けのオレンジ色の光が母の顔をまぶしく

照らしていたことだけ。

その夕焼けの輝くオレンジは、逆行となってその時の母の表情を

覆い隠してしまっていた。


母は果たして泣いていたのか、笑っていたのか、

あるいは無表情であったのか?

今でも悟志にはわからない。

もし泣いていてくれたのなら、まだ救いはある。

だが笑っていたとすれば......。

生きているのがしんどくなるくらい、やりきれなかったろう。


だから、あの時に母の表情を隠してくれた夕日には感謝している。


ともかく、母は近所にあるはずのスーパーから二度と

帰ってくることは無かった。

父と、5歳にも満たない自分を置いて。


以来、悟志は17になるまで父と二人で暮らしてきた。


その父も、今は居ない。

膀胱ガンなどという病気のあげく、17歳になったばかりの悟志を置いて

あっけなく逝ってしまったからだ。


父は、息子から見ても風采のあがらない男だった。


祖父から受け継いだ小さな靴屋の片隅で、革のエプロンをつけて毎日

とんとんと 靴底を叩いている。痩せて、無口な小男だった。


まだ40代なのにぼさぼさの白髪頭で、額に深い皺が走っていて、

楽しみといえば夕飯のビールとNHKの囲碁番組くらい。

そんな、今時珍しいくらいの地味な男だった。


母が出て行って間もない頃、悟志はよく父にこう尋ねたものだ。

「お母さんはいつ帰ってくるの?」

その問いを受けた父は、何か苦い薬でも飲んだ後のような

表情を浮かべると いつもこう答えた。


「お母さんは福島のおばあちゃんの家に行ってるんだよ。

おばあちゃんは体が悪いから、その世話をしてるだけだなんだ。

だから心配しなくていい。すぐ帰ってくるよ」

そう言いながら、決まって軽く悟志の頭を撫でた。


そんなのいやだ、と悟志がだだをこねて泣き始めると、

父は無言のままくるりと背を向けて店へ向かう。

靴の修理を修理をするために。


とんとん。とんとん。

靴底を小ぶりな金づちで打つたび、丸まった父の小さい背中が

揺れていた。 今思えば、あれは泣いていたのではなかったかと思う。


金づちを振り下ろすたび揺れる背中は、

同時に涙で震えていたのではないだろうか。


もう母が帰って来ないと知ったのは、悟志が中学二年生の時だ。

一度も会ったことがない叔母と称する中年女は、いきなり家に

やってくると 父に緑色の字が印刷された書類を押し付けた。

離婚届というやつだ。


「恵美はね」


久しぶりに聞く母の名をそう呼ぶ叔母は、

父とも悟志とも決して目を合わせて話そうとしなかった。


「恵美は、もう新しい家族がいるのよ。子供も二人いるの。

だからあなたとも悟志ちゃんとも、

会うことはできないの。悪いんだけど......本当に悪いんだけど

離婚届に判を押してもらえないかしら」


父は顔色ひとつ変えず、ただ黙って離婚届を見つめている。


「そんな勝手な話があるか!」

叔母の言いぐさに激しい怒りを感じて立ち上がったのは、

父ではなく悟志の方だった。

衝撃でがちゃんとテーブルの上に置かれたコーヒーが倒れ、

叔母のスカートを土色に汚す。

叔母はおびえたような眼で悟志を見上げた。


「おれも母さんの子だろ!おれが先に母さんの子だったんだぞ!

同じ子供なのに、 先なのになんで会わないんだ。なんで差別する。

なんで捨てる。なんで......」

自分の言葉にみじめさを募らせ涙をこぼす悟志の肩に父がそっと

手を置いた。


「解りました、判を押します。お幸せにとお伝えください」

父から出た言葉だ。

そのあまりにあっさりとした口調に呆然としている悟志を尻目に、

父は淡々と判子を取り出し、決別の朱印を紙に押し付けた。


父が死んだのはそれから僅か一年後の事だ。

離婚の為に父が癌になった訳ではないことは解っている。

「お母さんを恨むな。探すこともするな」と父が言い遺したことも

覚えている。

それでも、悟志は母に怒りをぶつけずにはいられない。


せめて離婚の話を叔母に任せず自分でしてくれたら、結果は変わっていたかもしれない。

しかし母は叔母を盾にして、父と息子を捨て去る冷酷な行為から目を背けてしまった。

あの夕焼けで染まった日と同じだ。すべて放り出したのだ。

許せない。その卑怯さのツケを払うべきだと思った。


だから父の告別式の後、その足で包丁を買った。

あとは母の体内へこの安物の包丁を納めるだけだ。


母の住所は判っている。

叔母はうかつにも母の現住所を記した状態のまま離婚届を父に

渡したのだ。父は母の住所欄に目をやることも無かったが、

悟志はメモしておいた。

その時はただ会いたいと思ってした行為だったのだが......。


母の家は悟志の住む場所から一時間ほどの場所にあった。

南欧風の白壁と薄茶色の煉瓦、花の模様をあしらった鋳物の

門扉で飾られたそれは 下町のすすけた悟志のマッチ箱のような

家とは比べようもなく、 母の豊かな暮らしぶりが想像できる。

その目に見える格差がさらに悟志の怒りを掻き立てた。


閑静な住宅街にひとり立つ喪服の男はいやが上にも人の目を引く。

道行く人々のいぶかしげな目線に耐えながら2時間ほどが過ぎた時、

家から一人の女が出て来た。

母だ、間違いない。自分の知っている姿よりもいくぶん老けて

しまってはいるが、 間違いなくその女は母だった。


父の通夜にも、告別式にもとうとう姿を現さなかった母。

一人になった息子に慰みの言葉も寄越さない母。

父の死をまだ知らないのかもしれないが、そうだとしても知らない事

そのものが 親として十分に怠慢だ。黒い怒りが悟志の胸に渦巻いた。


母は庭のホースを手にすると家を飾り立てているプランターへ

念入りに水をやる。

悟志には気付く様子もない。

花を選定するためか、悟志に背を向けてしゃがみながら地面を

いじっている。


今だ!

悟志は胸の内ポケットに手を入れると血が出るほど固く包丁の柄を

握りしめ、 母の後ろ姿へ向かって駆け寄る。


その時、誰かが足を強く引っ張った。


悟志はバランスを崩して無様に転倒し、アスファルトに顔をぶつけた。

鉄の味がする生暖かい血が口中に溢れ、白いワイシャツに赤い染みがみるみるうちに広がる。


思わず周りを見回した。誰もいない。

なんことはない。だぶだぶの喪服の裾が足に引っかかっただけなのだ。

自分の間抜けさにあきれながら、悟志は倒れこんだまま空を見た。

時刻はもう5時を回り空にはオレンジ色に染まったうろこ雲が群れをなしている。

ああ、また夕方が来たなと思った。


「あの」


倒れこんだままの悟志に声を掛けたのは母だった。

久しぶりに聞くその声は記憶していたものより幾分低い。

眉を八の字型にして心配そうに見つめている。どうやら悟志を自分の息子だとは判らないようだ。

「大丈夫....ですか?」

と言いながら濡れティッシュを差し出すと、血が出ていますよと白いタオルを悟志に握らせた。


刺すなら今だ。今なら簡単に刺せるずだ。そう頭で繰り返してみる。

だが悟志はもう、そんなことが出来ないことは解っている。


憎いはずだ。そうも頭の中で言ってもみる。

だが、濡れティッシュとタオルというほんの僅かな親切で、

もう母を憎めなくなってしまったことも、悟志は解っていた。


なんと自分の心は弱いのだろう。これだけのことで俺は怒りを

忘れてしまうのか。

訳のわからない口惜しさから悟志が固く目をとじると、

少しの水分がその端を濡らし、その涙を誤解した母は

「傷みますか?救急車を呼びますか」とまた声を掛けて来た。


「いや、痛くないです。大丈夫。お騒がせしました」

よろよろと立ち上がりながらタオルを返すと、悟志はじっと母を見つめてみた。


一瞬の沈黙。


やがてけげんそうに喪服の男を見ていた母の瞳は、

何かに気付いたかのように 激しく瞬きを始め、

口から僅かな息が漏れた。


その息は「もしかして......」と 言う声を含んでいたように

悟志には感じた。


だが、悟志はその声を確認することなく、その場から走り去った。


主を失った、下町の小さな靴屋。

悟志は喪服のまま、父の作業台に座る。


父は何故母を責めなかったのか。何故離婚届に易々と判を押したのか。

今になればその理由は解る。

お人よしだったのだ。母を愛するあまり、母が不幸になることより

自分と息子が不幸になることを選んでしまった愚かなお人よし

だったのだ。


そして自分も同類だ。

ほんのちょっとの優しさで無力になってしまう愚かなお人よしなのだ。

あの目で見つめられたら、自分は父と同じく復讐はできないだろう。


悟志は包丁を作業台の上に乗せると、父の使っていた金づちで

その刃を叩いた。

安物の刃はあっけなく二つに折れ、もはや役立たずの鉄くれと化す。


とんとん、かんかん。


刃が砕け、もはや破壊できる大きさを失っても悟志は刃を叩き続ける。

金づちを振り下ろす度、その丸まった背中が少し震えた。


(終)



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母を刺す チョロすけ @cyorosuke

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