渥地鐙沼膝迄浸之話



渥地鐙沼膝迄浸之話

あくちあぶみぬまにひざまでつかるのこと





- い -



びたびたと汗が飛び散り、胴の皮を湿らせる。

草臥れた落人が沢を川上へ逃げ延びているのである。


雑兵ゆえに身を守る皮革はごく軽く、少ない。

もう駄目だ、そうなってから、兎に角奔って奔って奔ってきた。

腕脚を林木にぼこぼこ打ちながら、倒けつ転びつ、

それでも怖れが勝って止まらなかった。

尖った岩に足をかけながら上ると、流れに濁りが溶け滲んできた。

直ぐに血だと分かる。においがする。

色は赤くはない、黒いから直ぐに分かる。


どろどろの解けた髷を掻きあげて見遣ると、

水の流れによろめき、足を引き摺る馬がいた。

刀傷か、深手を負っている。

手綱と胸繋がついているので、一目で軍馬だと判った。

落人はなんだか、その傷ついた馬がほしくなったのである。

もはや乗ることもできないだろうが、

落人は乱暴に手綱をふん掴んで無理やりに引っ張った。

ぐいぐいと体を斜めにして引っ張って、

馬のからだから血がびゅ、と跳んだ。

何度か頭を殴ったりした。馬はぶぅぶぅ唸って首をぐりぐり振る。


それを見ていた落人は急に動きを止めて、

一体何処を見ているのだか分らぬ顔になった。

そして、ひゅっ、と馬の頸を脇差で薙いだ。

何人も刺して、がたがたに毀れた、茶色く汚い刃物である。


沢の大岩からこれを見ていた河童は嘴をひん曲げ、

人間とは全く妙なモノである、と水搔きのある指をふにふにと動かした。










- ろ -



がきの時分にゃあ、よくおっかあに怒鳴れらたもんですわ。

タワケなことばッかりしくされば、座頭に獲って食われるぞ、と。

まぁ、そりゃあ、子どもには恐ろしいこたぁ違いありません。

今思えば都合のいい脅かしでさぁねぃ。

箕で遊んでぶちのめされたり、厩にいたずらしたり、

大雨で戸口がごとごと鳴ったって、

ほれ、来たぞ、お前を獲りに座頭さんが来たぞ、

ほれほれ、この糞がきを連れて行っておくれ、ほれほれ、ほれほれ、ってなぁ。

怖いのなんのって、え。小便を漏らしそうなぐれぇね。


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柳の葉がひゅう、蘆の茎がじゃあ、

柳の葉がひゅうひゅう、蘆の茎がじゃあじゃあ。


土砂降りが泥をびちびち叩く、水をばちゃばちゃ叩く。

そうすると、沼から座頭が出てくる。

のたうつみみずのように指を動かして、びちょ濡れの掛絡と緑の藻草に塗れて。

誰かの捨てた割竹の釣り竿をみみずが見つけて、

今度は泥にみみずの絵を描きながら、ふらふら這い出てくる。

坊主頭をぐらぐらさせて、耳を左へ右へ上へ。鼻をくうくうと吸って。


悪い子はござらぬか、要らぬ子はござらぬか。

その子供の寝息が聞こえたら、もう戸口を立っている。

泥まみれの指で戸をべっとりなぞっている。


きっと悪い子どもの筋を取って、琵琶にしてしまうのだろう。

きっと要らぬ子供を鍋で煮て、じゅるりと食ってしまうのだろう。








- は -



ぼぼお、ごろお、ぐろお、どごう。

かッと天が閃いて、雷が落ちてくるのです。

生温い風が辺り一面に充満します。


雲がこの世の凡ての埃で満ちたような、黄黒い、

いやに不気味な色になってしまいました。

夕刻のような薄暗さになってしまいました。


また、どこかで稲妻がありました。

空が光ると、

ああ、音がなる、来る来ると思って構える、

そうすると、なかなか音がやってこないものです。


まだか、まだか、今にくる今にくる、と思って身構えてもまだこない。

気づかぬうちに遠くでなったのか、先ほどの光は気のせいだったのか。

そう思って胸の力を少し緩めると。


ぼぼお、ごろお。

ぐろお、どごう。


早く済ませて終わなければ、帰りに酷いことになってしまいます。

きっと雨が降れば、このあたりの杜若の花はもう散るだろうなと思いました。

昨日仕掛けた場所はここで違いない。はたして獲物は入っているでしょうか。


筌をぐいを引き上げると、妙な手ごたえがあるのです。

はて、何が獲れたか、そう思って覘くと、何か見慣れぬものが動いておりました。

おかしいと思って土手に中身をざばぁと空けたのです。

すると、黒々とした髪の毛がひと抱えも転げ出てました。

毛がもぞもぞ動くと中から小さな人の顔が出てきて、此方を睨み、

小さな歯をぎらと獣のように見せつけて威かしている様子でした。


それは仰天いたしましたが、なんだか不思議な心地がして、

それをずっと眺めておりました。

ぽつぽつと雨が降ってきて、いよいよ、雷が近くなってまいりました。










- に -



水が張られるばかりの田に、裾を捲った百姓がちゃぷちゃぷと歩く。

水田の中に、草の小さな庵がぽつりとある。

水辺の長草で編まれたぼさぼさの塊のように見えた。

百姓はどうもその小屋が気になったようである。

そばまで来ると、丁度庵を挟んだ向こう側に人がいるようである。

すっかり小屋の高さからその身の丈はまるで見えず、

こちらからはその足が鳴らす水音と、息遣いが聞こえるばかりだった。



「おや。これは気づきませんで」

 「そうか」

「あはぁ、いやァ、どうもこの草の庵が気になったものですから」

 「そうかそうか」

「これを作られたお方で?」

 「いいや違う」

「そうですか、はぁ。ひとつお伺いしてもよろしいですかね」

 「なんだ」

「エエと、もしご存知なら、で結構ですがね、この中には何が入っているのかと」

 「それを聞いてどうする」

「いえ、どうするもこうするも、まぁ、そのォ、アレですよ。

 この酷い臭いですから、誰のものか分りませんができるものなら

 とっとと片づけてしまいたいなと、ね」

 「何か臭うか」

「え。そこにいらっしゃるのでしょう?わたくし今も鼻が曲がりそうでして。

 たぶんこりゃ牛馬か獣かのおっ死んだのが入れてあるような、

 そんな臭いですがね、分りませんか?」

 「さぁ、分らんな」

「あはァ、そりァ、はは。そうですか。

 ええと、あとそのぉ…なぜそちらに隠れていらっしゃるので?」

 「おれは隠れてなどおらん」

「え、はぁ、一向にお姿が見えませぬが。」

 「おまえの心得違いだろう、おれはここにいる」

「ううん?ええ、はァ」


このあたりで百姓は、立ち込める死臭の所為もあってか、

なんだかこの世のものと話している心地がしなくなってきた。


「まぁ、とかく一寸気になったものですから、えェ、では失礼いたします」

 「まて」

「え、はァ」

 「この小屋を開けて行け」

「ははぁ、う、その…何故でしょう?」

 「いいからあけろ」


そのあと水田を出るまで、後ろから開けろ、開けろと声がしたが、

その姿は一向に見えず、ただ腐った臭いがあたりに充ちているばかりでした。










- ほ -


深夜である、たった一人、少女がいて、

背より高い深い草むらの中にいて、

藪こぎをして、どこへ向かうのか。


蔓と蔦が顔にぴちぴちと当たって、シュッと長細い葉が肌に痕をつける。


月も星もない、明かりがない。

手触りだけで前に行く。

持ち物を幾らか落としても、それでも草の中を無茶に逃げる。


そうしてどれほど分け入ったのか。

小さなサンダルが指の皮を噛みついて剥いで捲って。


そこで、たぶん、ひとに逢った。


藪より頭ひとつ背が高い、黒い服なのか黒い肌なのか。

全く判別ができないほどに暗い。

ただ目玉の白が判別できるばかりで、それが少女のつむじを見下ろしている。


しばしの沈黙があって、

少女がひっ、と声を漏らして、

強い風が草むらに吹き付けました。










- へ -


河原でザリガニを釣ってた。

もう夕方だった。

すごい夕焼けで、川が全部オレンジジュースみたいになってた。

虫カゴはいっぱいだった。

町役場のスピーカーが僕の名前を呼んでた。

すぐに役場に来てくださいって。

役場にはおじさんがいるから、きっと呼んでるんだと思って、

自転車に乗った。またスピーカーが僕を呼んでた。

役場は近いからすぐ着いた。

入口のところでおじさんが待ってた。

それで、うちの子にならないかっていうから

僕はいやだ、って言った。

おじさんは足をじたばたさせて、手もぶんぶん振って

怒り出したから、怖かった。

ザリガニをあげるから許してって言って、

カゴをあげようとしたらザリガニが全部死んでた。

おじさんは今度は泣きだして、

ザリガニのカゴを持っていっちゃった。

怖かったから、そのあと家にすぐ帰った。

なんかザリガニが嫌いになった。



























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