江月




わたくしは、嗚呼、わたくしは。



の人のかおり、の人のにおい、

の人の手触り、の人の温もりが、



れが、忘れられないのです。

どうしても、どうしても忘れられないのです。


わたくしの手に、指に、身体に、舌に、

じっとりとの人の汗を思い出すのです。



の人は、ほんとうにわたくしを愛してくださいました。


の御心は、一切、何の所為せいでもなかったのです。

只々、のわたくしだけを、想うて下さったのです。



それでも。

こんな姿にっても尚、の人を、

れが判らないのです。



私は、ひたすらにの人のことをだけ、なのではないかと。

その記憶にすがっておるだけなのかと。


わたくしはちっともの人の事を、想ってなどれなかったのだと。


そうです、そうなのです。

そうですから、そうなのでしたから。

の人の腕の中でも、そう思っていたのです。



囁かれても、問いかけられても、

微笑まれても、口吸われても。

こんなにわたくしを愛してくれる御方を、

一体如何どうやって、の人を思っているのかが判らぬのです。



たまらなく怖ろしかったのです。

その愛を、の人を失う時より、もうそれを確かめることができなくなる、

の人の傍で、の人を何時いつを永遠に失ったことの方が。

怖ろしくて、怖ろしくて、悲しくて。


虚しかったのです。



わたくしは、泣きました。

憎かったのです。

この身に、の人への愛さえ知ることのできぬ己が、

れ程までに、の人を忘れぬことができぬのが憎かった、辛かった。





…忘れたかったから、それが答えに成るのでしょうか。





月明かりの下で、


ざやざやと蠢く枯草と露葉の向う、


黒々と濡れた土と石と砂と泥の向う、


ぶずぶずと崩れる朽木の蓋の向う、


ぐにゃりと這い出るあの凄まじい臭気の向う、



艶を失った毛髪。ひび割れた爪。

淀んだ黒い汁。弛んだ灰緑の肌。 

口元に乾いた涎。漏れ出た屎尿。



死出虫と百足と竈馬かまどうまと蛞蝓と蜚蠊ごきぶりと、

蛆と蛆と蛆と蛆と蛆と蠅と蠅と蠅と蠅と。



ただ

唯々ただただ忘れたい、の一心なのです。



手に、指に、身体に、舌に、

そのかおり、そのにおい、

その手触り、その温もりを。


全身に浴びたかったのです。



何度も吐きました。

何度も逃げ出したくなりました。

何度も恐くなりました。




でも、

の人の記憶と二人きりのほうが、

わたくしには怖ろしかったのです。


真暗なおけの中で、

誰とも知れぬぐずぐずに腐ったむくろと戯れているときだけが、

わたくしを、わたくしをさいなむ記憶から遠ざけてくれたのです。


わたくしは…、




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廃寺の庫裏くりに棲みついている老女が在った。

壁も天井も崩れ、荒れ果てた座敷の上に

土塊つちくれのようにうずくまる老婆が居たのだ。


その様は異様で、死人から剥ぎ取った体毛で編まれた

着物を纏い、大小の白骨がその周りに散らばっていた。


最早表情の判別も出来ぬ程に伸びきった垢塗れの白髪の隙間から

茶色い歯と鉤のように丸まった爪を見せて、この様に語ったのだ。


その女を愛した男が死に、幾年、幾十年、幾百年を経たのであろうか。


忘れる日まで、思い出す日まで、

化野あだしのを彷徨う姿が消えることは、屹度きっとないのだろう。




廃寺の庫裏くりに棲む、

かつて、愛された女が話した事である。


























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