くじら塚
まるで
半裸の男は
濃い髭と隆々とした骨肉、日に
貝の殻をぎうと踏み付ける。
ぞぞう、と
目指す沖は、凄まじい嵐が待っている。
男の舟には、一本の巨大な
この日のために
穂先まで含め六尺を超えるほどの長さ、
よく研がれた刃は重さ二貫、渡りは三尺に及ばんとし、
水面の薄ら明かりを吸って、ぎょろりと照る。
それと荒縄だけが底に転がっている。
銛も小包丁も灯りも、他にはなにも持ってこなかった。
男は、くじらを獲るのである。
くじらを獲るためには、大勢の漁師が要る。
晴れた日に山見からのろしでくじらを
大網で追い込み、劔で何度も突くのである。
溺れたくじらが網のほうへざぶうとよろめく。
血と油に塗れた海に
そうして船たちがやぁ、やぁ、と浜まで持ち帰る。
独りではくじらは獲れない。
だが、男は真暗な海へ小船を浮かべ、
浪が、うねりが、叫びを上げて木片を追い返さんとする。
白い黒い
ごうごう、どおどおと拒む海面を、
男は顔色を変えず漕ぐ。
雨が、
風が、男をぎょっと吹き付け体を突き倒す、
浪が、腕を伸ばして櫂をもぎ取らんとする。
いよいよ天地が不明瞭になる。
巨大なあくまが舟を握り締め、
風呂場で遊ぶ幼児の玩具のように潮に放り投げる。
てらてらと濡れた縁を太い指がぎぎ、と掴む。
男は立たねばならなかった。
男は、くじらを獲らなければならなかった。
男の連れ添った妻と、この間ようやっと歩き始めた幼い娘と、
もう一人前になろうとしている二人の立派な息子と、
子供の頃からずっと負けず嫌いで、それでも追いかけてきた弟と、
あの野太い声で笑う、皆から愛され、頼りにされた網元と、
獲れた日も獲れぬ日も、いつもひょうきんに踊る仲間たちと、
その大切な家族たちと、その住処をうばった、
あのくじらを殺すのだと、息の根を止めるのだと。
そして男は、腰に荒縄を巻き、舟に
狂う渦の中に肢体を放り投げた。
激しい泡沫と刻薄な寒さが突き刺さる。
黒々とした闇を男の赤い眼が睨む。
嵐の真中でくじらは男を待っていたのである。
見渡す限りの漆塗りのようなどす黒いの皮のなかに
冷たく小さな目の玉が
深遠の底がぐうと持ち上がる。
恐るべき影が吼える。
途方もなく大きな尾鰭が薙ぐと、潮水の巨壁が男を吹き飛ばした。
苦しみと泡の中から身を立て直し、劔を力の限り握り締めた。
男の血と汗が潮に解ける。
満身の力を込め、くじらに劔を放った。
穂先が皮にずぬと入る。
まだ足りない。
縄を引いてもう一度撃つ。
何度も何度も刃を入れる。
そしてぶびゅう、と血が噴出した。
くじらは よよお、うおよよ と吼えた。
それでもまだ足りない。
何回も何十回も何百回も、握り締めた柄を
くじらの体に突き立てた。
皮が裂けて、油がどろりと抜ける。
黒い水が赤く染まる。
はらわたが出る。
黄色いぬらぬらとした臓腑が飛び出る。
砕け散ったくじらの肉がそこ等じゅうに舞っている。
どぶどぶと赤黒い肝臓がはみ出した。
生白い膜が破れた。膨大な銀色の魚の破片が溶け出す。
くじらは、何千人もの人々が焼け死ぬような怖ろしい叫び声をあげた。
だが、男の手は止まない。
何度も何度もくじらを撃った。
何度も何度も撃ったのである。
男は勝ち誇った顔をしているようだった。
そうしていると、くじらの骨が見えた。
もうあたりは血で一杯になり、切り刻まれた真っ黒いくじらの皮が
べろべろと漂っていた。
だがそこで、くじらは、にやりと笑ったのである。
男は激昂したのであろうか。
おもむろに劔の穂先を折り取り、手に握り締めると
男がかつて羽指の頃にしていたように、くじらの顔に飛びついた。
怒り狂った腕は、何千回もくじらを抉り取った。
髄汁が溢れ出し、硬い鋼のような頭骨を一体何度殴っただろうか。
くじらの肉は剥げ落ち、血もすべて流れだした。
莫大な腸と心臓と肝臓と油液と、
黒いひもと赤いぬめりと白い塊が崩れ溶けた。
最後に白い骨だけになったくじらは、体を震わせてがらがらと大きく嗤った。
「おい、くやしいか、くやしいか」
「ああ、悔しい、これは御前に殺された仲間や家族の仇だ」
「おれをころしてなんとする、おまえはいきてなんとする」
「御前を殺す事だけが俺の生きがいだ、御前が死ねば後はどうでもよい」
「ははは、ではころすがよい、きがすむまで」
いよいよくじらの嗤い声は大きく、海を割るほどになった。
そうして日が昇る頃であろうか、
男と、男の船と、男の劔は海の底に沈んでいった。
誰もいない浜に大きな大きな、男の
誰もいない浜であったから、誰も弔うものは無かった。
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