四男、黒彦の話
「産声。
母の叫び声。
父の横顔。
イチコさんが、私の手を強く握りしめていて。
「お父様ですか」
そう看護師に尋ねられた壱彦さん。
紡子が産まれた日ははっきりと覚えています」
「紡子は笑顔のかわいい子でした。
物心ついた時から私のそばにはあの子がいて、触ると柔らかかったことを覚えています。
紡子はいつも笑っていて。
紡子が顔を汚した時、私が濡らしたハンカチで顔を拭いたらイチコさんは怒りました。
紡子の肌は弱いから、と言って、確かにハンカチより随分柔らかそうな布で、イチコさんは汚れた紡子の顔を優しく拭っていました。」
「彼女はいつも笑っていました。
私がキラコさんが片付け忘れていったぴかぴか光る折り紙で夢中になって遊んでいた時も。
それが、いつの間にかやってきた新彦さんの気に障って、彼が少し暴れた時も。小さい紡子は笑っていました」
「ぱんっ、と何かが弾ける音がして。
それから、パラパラと何かが降り注ぐ音。
新彦が、思いきり投げた消しゴムが電球に当たった音でした」
「いつの間にかテレビが消えていて、部屋はとても静かでした。
割れた電球の欠片は私、新彦、紡子に満遍なく降り注いで、
少し動いただけできちきちと周りで嫌な音を立てました。
私は、すぐに紡子を見ましたよ。
紡子は、相変わらず笑っていて。体に光る破片をまとわりつかせていて」
「私はとっさに思い出していました。庭でキラキラと光る綺麗なガラスの欠片を拾って、掌を切った時のこと。
ガラスは得体が知れない。知らない間に皮膚を切って、知らないうちに痛み出す。ガラスとは怖いものだと教えられたこと。
誰に?父だったような気もします。けれど、どうでもいい。
紡子のまつ毛が、きらきらと光っていて。そのことの方が、その時の私には重要でした。
紡子の顔に、あの怖い欠片が沢山、くっついている事が」
「壱彦さんが、慌てた様子で居間へ入ってきました。
私が大声を上げたから」
「壱彦さんは部屋を素早く見渡して、何が起こってしまったのかをすぐ理解した様でした。
彼は私達に動いてはいけないと言い渡した後、直ぐに掃除機を持ってきました。私も紡子も、新彦さんもじっと動かず、ただ壱彦さんが掃除機で破片を吸い込んで行く所を見ていました。
髪の毛ごと吸い込まれたり、皮膚にホースの口が吸い付いた時は痛かったです。新彦さんも痛かったんでしょう、嫌がって暴れようとして壱彦さんに押さえつけられていました」
「紡子はじっと大人しくしていました。顔周りの破片を吸い込む為に掃除機が近づいても、髪の毛が吸い込まれてもじっと耐えていました。
ただ、腕の破片を吸い込んだ時は別でした」
「ずぐぐぐぐと嫌な音を立てて、掃除機のホースが紡子の腕を飲み込みました」
「紡子の顔が歪みました。
私は、紡子を助けようとして。
助けようとして、紡子の体を力任せに思いっきり引っ張りました」
「壱彦さんが、掃除機のスイッチを切るのをどうして待てなかったのか。
紡子の肌は弱いから。
その時どうしてイチコさんの言葉を思い出せなかったか」
「私は、恐ろしく馬鹿で」
「…紡子の肩口から嫌な音がしました」
「私は、自分が何かとんでもない事をした、それだけは、分かりました。
それこそ、ガラスで切ってしまうより、もっとひどい事が紡子に起きたのだと。
紡子の」
「…目の前が真っ暗になりました。
揶揄じゃなく、壱彦さんが私の目を覆ったんです。
舌打ちの音と、掃除機がゆっくり力を無くしていく音。それから、壱彦さんがしきりに大丈夫と呟く声。それから新彦さんのいつものあの」
「「きらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきら」」
「…三日後、紡子は帰ってきました。壱彦さんに抱えられて 」
「壱彦さんは紡子の顔を覗き込んでいました、けれど私の視線に気付くといつも通り億劫そうに微笑んで。
「ほら黒彦、傷、ないだろう。安心して大丈夫だよ」
そう言って私に紡子を見せました。
あんなことがあって以来、紡子のことを考えると心臓が潰れそうなほど緊張していたのに、確かになんの痕もなく元気そうな彼女を見たら全身から力が抜けました。
あの子は、少し困ったような、控えめの笑顔を浮かべていて。
つぶらな目が私を静かにじっと見つめていました。
「ごめん。紡子」
紡子に頭を下げて謝ると、いつの間にか私の隣にいたキラコさんが笑い声を上げました。
「新彦が悪いのにねえ」」
「私が、10歳位のことです。
私はその頃、同級の友人たちに比べてひょろりと長く、貧相だったために貝割れ大根と呼ばれてよくからかわれていました。
「紡子は全然背が伸びないのに、」
呟いた私の言葉に、友人達のうち、二人はそうなんだ、と言って残りの一人は首を傾げていました。
「紡子?」
「妹の名前」
「ふうん」
やりとりはそれだけです」
「その、私の言った言葉を何処で聞きつけたのかは、分かりません。
ただその日私が帰宅すると、壱彦さんが玄関に壁にもたれて立っていました。
挨拶をする間もなく、靴を脱ぐ暇もなく、壱彦さんは私のシャツを掴んで客間まで引きずっていき、畳の上に放り投げました。引きずられている最中、襟が首に食い込んでとても苦しかったです」
「「なんてこと言うんだい黒彦」」
「その声はいつも通り、億劫そうで優しくざらざらしていました。
私はすぐさま正座をして壱彦さんを見上げました。
壱彦さんは私を見下ろしていて」
「「自分で分かっているよね黒彦。ああいうことは、よその人に言ってはダメだよ。分かってくれるよね」」
「そう言って。
私はすぐに俯いて、何度も何度も頷きました。
壱彦さんが私の頭を撫でて客間から出て行って、イチコさんが襖を少し開けて私をじっと見つめてそっと閉じた後もずっとずっと正座をして頷き続けました」
「私は、頭の悪い生き物なんです」
「その頃には既に、瑞彦さんは家にいませんでした。
私が覚えている限りでも瑞彦さんは度々食卓にいない事があったので不思議には思いませんでした。
けれど、家で瑞彦さんに会うことはもうありません」
「「眠いわ」
「ダメだよ」
「眠いの」
瑞彦さんが居なくなってしばらくすると、イチコさんはよく食卓で眠りこけるようになりました。
壱彦さん以外注意する人はいません。壱彦さんも二三止めるだけで、毎回寝てしまったイチコさんを負ぶって彼女の自室まで運んでいました。
その日も例外ではなく」
「壱彦さんとイチコさんと瑞彦さんが消えた食卓で、私たちは構わず食事を続けていました。
紡子を見ると、いつも通りじっとテーブルを眺めているだけでした。
「くーちゃん、にんじん嫌いなの?」
キラコさんが、私が無意識に避けていたニンジンのソテーにフォークを突き立てて。
「あたし食べてあげる」
そう言って。
その後すぐ彼女は悲鳴をあげました。
新彦さんがカップをキラコさんに向かって投げつけたから。
それだけで終わらず。
新彦さんとキラコさんは私越しにナイフやらフォークやら食べ物やらを投げつけあい始めました」
「私は、紡子に当たってしまうことを恐れてテーブルの下をくぐってあの子の椅子まで向かいました。
そうしたらすぐに、頭の後ろに痛みが走って」
「足元にがらんと落ちるナイフを見て、それが私の頭に当たったのだと知りました。ああやっぱり、このままでは紡子にも当たってしまう。
「くーちゃん!」
キラコさんが、叫びました。
さっきとは違う、世にも恐ろしいものを見たような、そんな悲痛な悲鳴でした。
私の方へ勢いよく走ってきて、そのキラコさんの髪の毛を新彦さんが掴んで、紡子の座っている椅子ごと四人で地面に倒れこみました」
「私は地面に転がった紡子を抱きしめました。
暴れる二人の腕や足があの子にぶつからないよう、強く強く抱きしめました」
「「新彦!キラコ!」」
「私の待っていた声が上がりました。
二階から降りてきた壱彦さんが、二人の間に入る音。
私は紡子を抱きしめてただじっと待ちました。
キラコさんの何かを訴える叫び声と、それから新彦さんの何かを打ち付ける音。
「ああもう、本当に」
壱彦さんが頭をがしがしと掻く音、それから」
「「違う、これはそうだ、最初の失敗がずっと尾を引いてただけで、大丈夫だ。黒彦は大丈夫かい?」
何かをぶつぶつ呟きながら、壱彦さんは私の二の腕を掴んで起こそうとしました。そうしたら」
「そうしたらだ」
「私の腕から落ちた、
…。
…本気で忘れたい出来事は脳が消し去るというのは本当でしょうか?
私にはどうしても信じられない。
何せ私は覚えています。
そうだ、幼い頃、布団を被ってずっと唱えた。忘れろと言った。何度も私は言ったのに絶対に忘れない。
これまでの事を忘れない。
一度目は腕、二度目は。
二度目、そうだ。紡子の。二度目は、」
「紡子の頭が落ちた」
「私は忘れない」
「ああ、」
「何も忘れません。
壱彦さんが転がった紡子の頭を拾って、困ったような顔をして、私が抱きしめた紡子を、引っ張り上げようとして。
私は、ああ、紡子の、中身を見た」
「「大丈夫?黒彦。血が出てる。何処を怪我したんだい」」
「「あたまだよお兄ちゃん、新彦がね、くーちゃんのあたまにナイフ投げたの!信じられる?ほんとうクズ、くーちゃんになんてことするのよ、あ痛い!痛い!バカ!痛いっ!死ね!あんたなんか死ね新彦嫌い!このクズ!」」
「「ダメだよキラコ、お姉ちゃんなんだから。新彦にそんなひどい事言ったらダメだよ。新彦も、お姉ちゃんに乱暴しちゃダメだよ。あ、あ、黒彦黒彦、」」
「白くてふかふかして柔らかく温かい紡子の中身が、ぐぐぐと膨らんで紡子の首から這い出してきました。
それはダメだ。出てきてはダメだ紡子。私は必死にはい出ようとするそれを詰め込みました。ぷちんと音がしたけれど、やめるわけにはいかない。だって紡子が、出て行ってしまうと思ったから」
「「黒彦黒彦、紡子の首が伸びちゃうから。大丈夫だよ。ちゃんと治るから。あ、ほら、紡子が、「くろひこおにいちゃん、つむこのからだかえして」って、ほらだから、ね?」」
「壱彦さんはそう言って私から紡子の体を取り上げようとして」
「「そんなこと紡子は言ってない!」」
「私は叫んだんです。
ああ、そうだ。紡子はそんな事言っていない。
ずっと、これまでずっと紡子は何も言わなかった。ただ笑っていただけで」
「−−次の日、紡子は戻ってきました」
「しっかり、首と胴体はくっついていました。
イチコさんが、ちょっと詰め過ぎちゃったわとぼやいて、いいよ、かわいいと思う、と壱彦さんが言っていました。
「そうね、どうせお母さんは気にしないわ」
そうイチコさんが、」
「ふかふかとして、ピカピカ光る小さな黒い目。にっこりと微笑んだ口。ふわふわした髪の毛」
「私の知る紡子は最初からそうでした」
「−−−−」
「瑞彦さん。
紡子は、もうとっくに居ないんです。
もう居ないんです。あれは紡子じゃない。私はそれを知っていたのに。
違う。知らなかった。あれが最初から私の、最初は。
最初は。
瑞彦さん、私は。私は。
私はなんて馬鹿な生き物なんだろう」
私の話に、電話の向こうにいる筈の次男は何一つ言葉を発する事はなかった。
黒彦の家族 すみを @sumiwow
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます