長男、壱彦の話


壱彦が帰宅した。


夜遅く、十一時過ぎくらいだった。私は居間のソファに座っていた。

電球一つ点いているぐらいでは、帰ってきた兄を迎えるには薄暗い。

しかし、玄関から真っ直ぐ居間に向かう足音がしても、ドアの開く音がしても、私は眠さと疲れとでソファから動く気にはなれなかった。


私は非常に疲れていた。

壱彦は食卓の自分の椅子に、荷物と脱いだ上着を置くと、私と私に凭れて眠る姉のイチコを交互に眺めた。


「何か飲みますか」


私の舌はそこで漸く動いた。


「いや、いいよ。ぼくが持ってくる」


そう言って壱彦は台所に入っていった。


私はイチコを起こさない様に、ほんの少し身を捩った。


この調子で、もう何時間もソファに座ったままだった。

眠気はある。しかし、どうしても目を閉じる事が出来ず、点いていないテレビの暗い画面を眺め続けていた。

持っていた本を開いても、内容が頭に入ってこないので読むのをやめた。


イチコの寝息はとても静かだった。

これほど間近に居ても、外から聴こえる車の音や、人の話し声で容易に掻き消されてしまう。

密着した肩の温かさが無ければ、イチコは死んでしまったのだと錯覚してしまうほどに、彼女は無音だった。


「イチコ、寝ているの」


兄が、麦茶の入ったコップを両手に一つずつ持って台所から出てきた。私は一つを兄から受け取り、一口含んだ。


「寝ています」


「どうかした、黒彦」


「どうして」


「酷い顔をしてる。病気じゃないの」


「大丈夫です」


「そう」


壱彦は一人掛けのソファに腰を下ろした。


数秒。壱彦は眠っているイチコを見つめていた。

私からは壱彦の顔の方が酷くやつれているように思えた。壱彦は掌で覆い隠すようにコップを両手にしっかりと握って額に当てたかと思うと、右手で短く刈られた髪をがしがしと掻いた。


「こんな感じだったよね」


「何がですか」


「こんな風に寝てた。いつも」


「そうですね」


「あの時も」


「何ですか?」


「まず最初にキラコが転んだ」


「何ですか?」


「瑞彦はそう言い張った。でも実際は違う」


「何の話ですか」


「覚えてるかな。紡子が生まれる前、お父さんがぼくらを車に乗せて廃墟に連れて言った時の事」


私は首を横に振った。


「黒彦は三歳ぐらいだったからなあ」


兄は特に気に留めた様子はなかった。



「元々ボーリング場だった処。周りには何もない、車もろくに通らない道路と、雑草が生い茂った空き地しかない様な処に、お父さんはぼくらを連れていった。


「遊びに行く」


それだけ言って。

キラコは喜んでいたな。新彦も幾らか機嫌が良かったよ。

はしゃぐキラコを叩かなかったから。

イチコは眠たそうにしてたな。実際、車に乗った途端眠っちゃったよ。今みたいに」


壱彦はイチコを見つめた。


「瑞彦は小さかった黒彦を車に乗せてやっていた。

後部座席には黒彦を挟んでキラコと新彦、真ん中の席の左にイチコ、右には瑞彦。ぼくは補助席に座った。

ひょっとしたらイチコと瑞彦は逆だったかもしれないけど、大体そんな感じだよ。

ぼくはちゃんとシートベルトを締めて、じっと外の景色を眺めていた。

たまにサイドミラーから後ろの席を見たりしながら。

キラコの声はよく聴こえたな。


「ねえくーちゃん。お手手遊びしよう。お手手見せて」


それからごつんって音。

多分新彦がキラコに何かしたんだ。

突き飛ばしたか、蹴っ飛ばしたか、取り敢えずキラコが窓に頭をぶつけた事は分かった。

それからキラコはきんきん声で、瑞彦だかイチコだか黒彦に何かを訴えていたな。

ぼくは振り返ろうかどうしようか迷ったけど、やめた。キラコが怪我していないのがサイドミラーで分かったから。怪我していないなら、大丈夫だと思ったんだ。


冷たい様だけど、ぼくには大事な仕事があったんだ。

なるべく窓の外から目を離したくなかった。

家からの道順をしっかり覚えないといけなかった。ちゃんと家に帰れるようにね。


つまりさ、その時ぼくはこう思ってたんだよ。

ーーさあとうとう捨てられるぞ。って。

ヘンゼルとグレーテルさ。輝く石もパンくずもなかったし、そもそもぼくらは六人もいたけどね。

長男で一番年上。

プレッシャーもあったさ。妹、弟達が野垂れ死でもしたらぼくのせいだから。ちゃんと無事に帰れるように道順をしっかり頭に入れたんだ。


二時間くらいかな。

その廃墟に着いてすぐに、父さんがぼくらに言った。


「写真を撮ってくる。お前達は適当に遊んでいろ」


それでエンジンを切ると、さっさと車から降りてロックも掛けずに行っちゃった。


父さんの次に車を降りたのは瑞彦だった。

ついて行くのかなって思ったら、ただ車から降りてドアの近くでうろうろしているだけだった。


ぼくは悩んでいたよ。

これはひょっとして罠なんじゃないかって。

父さんはぼくらを車から離して、頃合いを見計らって帰ってしまうんじゃないかってね。


父さんは試しているのかも。そう考え始めると、何故だか途端に自信が無くなっていくんだ。

家までの道をちゃんと覚えているか、とか。この兄弟達を導くことが出来るのか、とか。


ぼくはお兄ちゃんだった。

君らのお兄ちゃんで、ぼくにはお兄ちゃんもお姉ちゃんもいなかった。

してはいけないことは分かっても、しなくちゃいけないことは分からなかった。

本当に本当に、困ったよ。


そんなぼくを放って、キラコは黒彦を抱っこして車から降りた。それを追い掛けて新彦も降りた。

振り返ると、イチコはまだ眠っていた。


そうだな、黒彦ならどうする?」


突然、壱彦は顔を上げた。

私は手に持ったコップの淵を弄りながら、考えた。


「イチコさんが起きるまで、車の中にいると、思います」


無難な答え、のつもりだった。

壱彦は大声で笑い出した。

十一時の暗い部屋に、余りに不釣り合いな音が響いた。


「じゃあなんだってあの時そうしなかったんだよ。「イチコさんが寝ているから車の中に居よう」って、何で新彦とキラコと瑞彦に言わなかったんだよ!おかしいなあ!うふふ、黒彦はおかしいなあ」


壱彦は腹部を抱え込んで、くつくつと笑った。

顔は見えなかった。

背中が小刻みに痙攣し、伏せた顔から引きつったような音が聞こえなくなって漸く、その痙攣は治まった。


「そうだった。黒彦は三歳くらいだったよね」


外からのオートバイのエンジン音を除けば、部屋は再び静かになった。


「ぼくはお兄ちゃんだった」


顔を伏せたまま、壱彦は話を再開した。


「どうしようかと思って、悩んで、イチコのおでこにキスして車から降りたよ。

瑞彦は近くに居たけれど、キラコと新彦と黒彦は廃墟の中に入って行ってしまった。


「追い掛けよう」


ぼくは瑞彦に言った。

瑞彦は何にも言わないで、ぼくについてきた。

ぼくは、瑞彦にイチコと一緒に居てって言えなかった。

瑞彦にお姉ちゃんを見ててくれって、頼めなかったんだ。だって、瑞彦はイチコの弟なのに、弟にお姉ちゃんの面倒みてくれなんて、頼めるわけないよ。

ああ、そう。でも、そうだ。

イチコの面倒見れるのは、ぼくだけだった。ぼくだけだったのに。ぼくは、イチコを置いていったんだ。

イチコを放ったんだよ」


壱彦は指を頭の上で組み合わせて、身体を前後に揺らし始めた。


「廃墟に入ると、目の前には塗装が皮みたいにべろんって剥けた、カウンターがあった。

奥には崩れた虫の卵みたいな靴箱の山があって、その奥に、新彦とキラコと黒彦がいた。

傷だらけでゴミまみれの床や、天井から剥がれて垂れ下がった防音素材。割れたボールとか、ピン。

そう、ピンだよ。

新彦が持ってた。バットみたいに。

振り上げて、キラコをじっと見つめていた。

キラコはそんなことに気づいてないみたいで、黒彦と一緒に屈み込んで何かをじっと眺めていた。ぼくは大声を出したよ。


「新彦!」


叫んだら新彦と、キラコが振り返った。

キラコは新彦が振り上げたピンに気がついて、血相変えてぼくの方に走ってきた。


その時、後ろで何か大きな音がしたんだ。

びたん、とか、かしゃん、とか、そんな感じだった。

振り返ろうと思ったら、ぼくの目の前でキラコが転んだ。

こっちはびたんって音だった。

新彦は笑った。

ぼくはキラコに近寄って、起き上がらないキラコを抱き上げて立たせた。キラコは泣いていなかったけれど、泣きそうな顔で下唇を噛み締めていた。


「泣かないなんて偉いね。キラコはお姉ちゃんだもんね」


そう言ったら、新彦はもっと笑った。

キラコは振り返って新彦を見たよ。

顔は見えなかったけど、見たくなかったから良かった。

妹が弟をどんな表情で見ているのか、想像するだけで恐ろしかったから。


ぼくは笑う新彦を叱ろうかどうしようか迷った。迷って居たら、新彦はぴたっと笑うのをやめたよ。

黒彦が、」


壱彦は顔を上げた。


「黒彦が新彦の服の裾をつかんだんだ。掴んで、ぼくを見ていた。

何だろうと思ったら、後ろで何か音がし出した。そういえば、さっきもしていたなって思い出して、それで、」


壱彦はじっと私を見ている。


「振り返ったら、瑞彦がうつ伏せになって倒れていた。


そう、ぼくの記憶だと瑞彦の方が先に転んだんだ。


よだれみたいな粘っこそうな液体が、瑞彦の顔がある処からじわじわ広がっていた。液体は赤黒かった。血だって気づく前にぼくは瑞彦に駆け寄った。

床に落ちていた何かをを踏みつけて、滑って顔面を打ったみたいだった。

身体をひっくり返して仰向けにしたら、瑞彦の顔の下半分は真っ赤に濡れていた。

唇から顎まで、ざっくり切れていて、其処からどろどろ血が流れ出してきた。――まだ傷は残ってたかい?

――瑞彦はスイッチが入ったみたいに、大声で叫んだ。

ぼくは急いでシャツを脱いで瑞彦の顔に押し付けた。

勿論、血を止めるためさ。


それなのにあの時の、瑞彦の眼は忘れらんないよ。


ぼくを責める目。

極悪人でも見てるみたいだった。


瑞彦は暴れた。

シャツを押しつけるぼくの腕を必死で振り払おうとした。

瑞彦は、ぼくに殺されるって思い込んでいるみたいだった。

ぼくを睨みつけて手足を振り回していた。

そのせいで、瑞彦の両腕は地面に落ちたガラス片で傷だらけになった。

ぼくもちょっと切ったよ。痕がまだ残ってる。

白いシャツがじわじわ赤くなって温かくなって、それを見て新彦が、あの新彦が、泣き出した。


「にいさんがへんだ!にいさんたちがへんだ!」


きんきんした声はボーリング場に響き渡った。そのせいで、って言うつもりはないけど。その後すぐ、天井から下がっていた防音素材が落ちてきた。

元々剥がれかかっていて、べろべろしたやつだったけど、それでも体操マットみたいに厚みと重みがあった。

それが、天井から落ちてきたんだ。


ぼくは叫んだ。

でも間に合わなかった。

新彦と黒彦は塗装の下敷きになった。ばさあとか、ぱあんとか、どしゃあんとか、色んな音がしたな。

防音素材はなだらかな山になってた。

そのふくらみの下に新彦と黒彦が居る事は分かっていた。

ぼくは瑞彦の顔を押さえているシャツを手放すべきかどうか迷ったよ。何だかすごく静かだった。―――瑞彦はまだ暴れていたかもしれないし、新彦は下敷きになりながら泣いていたかもしれない。でも何だか静かだったよ。


そしたら妹が、キラコがぼくの肩を叩いた。


「ねえねえ、お兄ちゃん。にいひことくーちゃんがきえた」


「キラコ、待ってよ。今お兄ちゃん大変なんだ」


ぼくはそう言った。


「おにいちゃん。にいひことくーちゃんここにいるよ。このしたにいるよ」


「知ってるよ。分かってるから待って、キラコ」


「ねえねえねえねえ、お兄ちゃん、お兄ちゃん。みずひこお兄ちゃん何だか、なんだかね」


「うるさい!」


そう言ったと思う。

もっと酷い事を言ったかもしれない。


キラコは、静かになった。


それから、それから。泣きだしちゃった。

大声で泣きだした。

ああああああああああんって、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

キラコが泣いたのは、後にも先にもあれっきりだったなあ」


壱彦は其処で一度話をやめた。

その時の様子を反芻するかのように、大きくゆっくり、鼻から息を吸い込んでいた。


「シャツがぐしょぐしょしてきたあたりで、瑞彦がぐったり大人しくなった。

父さんに言わないと流石にまずいってことは分かった。

瑞彦を運ぶ位なら出来るけど、新彦と黒彦をどうしたらいいのか全く分からなかった。

だからぼくは、泣いているキラコに話しかけた。

いつもより優しい話し方しないとって、頭の何処かが冷静だった。


「キラコ、ごめんね。お兄ちゃんが悪かったよ。泣かないで」


実際はもっとわざとらしかったかもしれない。ぼくはその時、本当に必死だったから。


「ないてないよ。キラコはないてないよ」


キラコはそう言った。誰がどう見ても泣いていたけれど、そんなことはどうでも良かった。


「そうだね。泣いてないよね。キラコはお姉ちゃんだもんね。

ねえでもねキラコ、お姉ちゃんなんだから、新彦と黒彦を助けてあげないといけないんじゃないかな」


ぼくはそんなことを言った。

効果は抜群だった。

キラコはすぐに泣き止んだよ。それどころか、えらく上機嫌になってね、

「キラコはお姉ちゃん。キラコはお姉ちゃん。」ってへんてこな歌をうたって、ぼろぼろになった防音素材の端っこを掴んで、体操マットみたいにくるくる巻き始めた。


ぼくはそれを見て少し安心した。キラコはちゃんと自分の役目を果たしていたからね。

ぼくは新彦と黒彦をキラコに任せて、ぐったりした瑞彦の腕を肩に回した。シャツは真っ赤でぐちゃぐちゃで、それでもぼくはそれで瑞彦の顔を抑え続けた。


車に着くまでの辛抱だから、車についたら、後ろの席に乗せて、父さんを呼んで、病院に連れてって下さいって頼むんだ。

そうすれば大丈夫。ぼくは自分に言い聞かせたよ」


不意に、壱彦は笑い声を漏らした。

先程とは違う、軽蔑のこもった小さな嘲笑だった。


「おかしいよね。父さんを頼らずにみんなを守らなきゃって、少し前まで息巻いていた筈なのに、なのにぼく、もう父さんを頼ろうとした。

笑っちゃうよね。


ーーぼくは瑞彦を一生懸命引きずった。

ぼくはその時、車に対して絶大な信頼を寄せていたんだ。

車にさえ乗せれば大丈夫。

車にさえ乗せれば、まるで瑞彦の怪我が治ってしまうとでも思っているみたいに。


そんな信仰心もあってかね、何とか瑞彦を車のドアの前まで引きずることができたのさ。

ぼくはとっても、とっても達成感に満ちていた。

お兄ちゃんとして、なんて正しいことをしているんだろうって思っていたのさ。面白いよね。そう思わない?」


私は答えなかった。

壱彦も、私の返事など待っていなかった。


「瑞彦を地べたに寝かせて、ぼくは車のドアを開けた。


覚えているかい?

その日はとっても暑い日だった。

あ、そうだ。黒彦は三歳くらいだったよね。

暑い日だった。

本当に暑い日だった。


でも車の中は、もっともっと暑かった。

ドアを開けた瞬間、まるでオーブンみたいな熱気がむわっと顔を打ったよ。


イチコはまだ寝ていた。


顔が、真っ赤で。


丁度瑞彦の顔を抑えたシャツみたいに。

みたいにじゃない。全く同じだ。赤くて、黒かった。



「イチコ?」



ぼくは声を掛けたよ。


イチコはね、妹は寝ていてさ。

今みたいな感じで、でも全然違う。

あの日は本当に暑くて。

暑くて」



私は肩に凭れるイチコを見た。

眠っている。

死体の様に静かで、死体とは違って温かい。



「何度も呼んだ。何度も何度も。


「イチコ、弟が大変だよ。瑞彦が大怪我をしたんだ」


でも起きない。

揺すって起こそうとして、イチコの二の腕を掴んでぎょっとした。


焼きたてのコッペパンみたいだった。熱くて、かさかさしていて、柔らかくて。

イチコ、ってぼくは叫んだ。血でべとべとしている右手で服を引っ張ったり、ほっぺたを叩いたりした。


「やめてよ、汚い」


イチコが今にもそう言って起きるんじゃないかと思ったけど、でも。起きなかった。

どうしたらいいかぼくはいよいよ分からなくなった。

ひょっとしたら、もっと前に分からなくなっているべきだったのかもしれない。

そうしたらこんなことにはならなかったかもしれない。

でもみんな全部全て起こった。こんなことになった。


ぼくは、ぼくはね、黒彦。

泣いたよ。

泣き叫びながら廃墟に走って戻った。


入ってすぐ、防音素材をどかそうとしているキラコの横を走り抜けて、廃墟のもっともっと奥に入って、よく分からない落書きだらけの部屋を抜けてガラスが全部割れた窓をくぐって埃まみれの階段を駆け上がって、泣きながら、泣きながら叫んだんだ。


「とうさんごめんなさいぼくにはむりですだめですたすけてたすけて黒彦が死んじゃいます新彦が死んじゃいますキラコもきっと死んじゃいます瑞彦が死んじゃいますイチコが、イチコが死んじゃいますイチコがイチコがああああああああ。」」



壱彦は不意に立ち上がった。

私の隣りで眠っているイチコの顔を覗き込む様に、私の頭の横に手をついて壱彦は身を乗り出した。


「父さんはね、写真を撮っていたよ」


とてつもなく小さな声で、壱彦は呟いた。


「ぼくは泣いて、謝った。父さんに。沢山謝った。何に対して謝ってるのか分からないくらい謝った。父さんは、何も言わなかった。

何も言わないで、カメラと三脚を片付けた。

ぼくを一度も見ないで、電話で救急車を呼んで、キラコの居るところまで戻って、防音素材をどかして、そこから新彦と黒彦が出てきた。

そうそう、新彦は黒彦の頭を手で覆っていた。

立派なお兄ちゃんだったなぁ」





部屋は静かだった。


壱彦は、イチコの顔に耳を近づけて目を閉じていた。

私には聞こえない姉の寝息を懸命に聞き取ろうとしていた。


兄の話はそこで終わった。


終わったにも関わらず、私は、私はどうしても聞きたいことがあった。



「それから、」



私の声に、壱彦は瞼を開いた。


「それから、どうなったんですか。イチコさんは、瑞彦さんは。私達は」


私は壱彦の顔を見ることができなかった。


「こうなったよ。新彦とキラコはああで、瑞彦は居なくなって、紡子が生まれて、イチコはこうして寝てて、ぼくはこんなんで、黒彦はぼくの話を聞いている」


私の顔の横についた手を、壱彦はゆっくり下ろした。



「ぼくはお兄ちゃんだよ。この家の一番上のお兄ちゃんだよ。もうぼくは二度と失敗したりしない。紡子、黒彦、キラコ、新彦、瑞彦、イチコ、もうあんな目に合わせないよ。何だって言うこと聞いてあげるし何からだって守ってあげる。だってぼくは、お兄ちゃんだからね。そうだろうイチコ」



私は、思わず壱彦の顔を見た。


壱彦は私を見ていた。


時折、壱彦は私達兄弟をそんな目で見つめる。




極悪人を見る様な目。

私を、私たち兄弟を非難する目。





イチコが目を開けた。





「言ったでしょう?壱彦は一生わたしの面倒見てくれるのよ」




イチコはそう言って、ひひひと笑った。









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