長女、イチコの話
「夢を見たわ」
ソファで転寝をしていた姉の、呟きと言うには明瞭な声と言葉に、私は読んでいた本から顔を上げた。
私が何も言わないうちに、イチコは話を始めた。
「場面は、白くて二等辺三角形に近い形の、広い部屋。家具も何にも無い、のっぺりとした白い壁があるだけ。
そこにはわたしが居て、二人の赤ん坊がおむつもしていない状態で仰向けに床に寝そべっていたわ。
女の子と男の子だった。それだけじゃない。
その赤ん坊はお父さんとお母さんだったのよ。間違いなかった。
何故かって聴かれたら答えられないけれど、確かにお父さんとお母さんだったの。
二人は最初は大人しかったんだけど、暫くするとお母さんの方が泣きだしてしまったわ。わたし、とっても困ってしまったの。
取り敢えず抱き上げたけれど、わたし赤ん坊のあやし方なんて分からなかった。
あやしたことなんて一度も無かったもの」
「それは、」
それは嘘だ。長女のイチコは何度も何度も兄弟の世話を見てきたはずだ。
私も、よく彼女にあやされていたと以前キラコは言っていた。
「そうね、此処に居るわたしは赤ん坊をあやしたことがあるけれど、其処に居たわたしはあやしたことがなかったのよ。
だから、どうすればいいのか分からなかった。
どうしたら赤ん坊が喜ぶのか分からなかったの。
すごく困ったけれど、わたし頑張ったわ。
高い高いしたり、いないいないばあしたり、子守歌を歌ったりした。そんな事をしているうちに、気付くとお母さんは泣きやんでいたわ。
ほっとした。やっと眠ってくれたと思ったの。
けれど、そうじゃなかった。お母さんは死んでしまっていた。
首が据わっていなかったから、変な持ちあげ方をしたせいで呼吸が出来なくなってしまったのね。
お母さんが死んだと分かって、わたしは凄く焦った。お母さんが死んでしまったら、わたし達は生まれてこれなくなってしまう。
お父さんに知られたら酷い目に遭わされるわ。いやそれよりも、お父さんはどうするの。お母さんが死んでしまったなら、お父さんには一体何の意味があるの。
お父さんが存在している意味があるの?ずっと考えた。いいえ、そんなに考えてないかも。
わたしは死んで黒くなったお母さんに泣きついたわ。
『お願い、わたしを産んで頂戴!わたし達を産んで頂戴!最初は壱彦、次にわたし、その次は瑞彦。キラコと新彦は一緒に、黒彦は其の次!紡子は無理だったらいいわ。お願いお母さん。産んで頂戴!』
勘違いしないでね。わたし紡子の事嫌いじゃないのよ。
ただあの子を産むとき、一番お母さん苦しんだから、紡子は無理だったら良いって言えば、安心してわたし達を産んでくれるんじゃないかって思ったの。それに黒彦、あなたを産んだ時お母さんはとっても楽だったから、気が向いたら紡子を産んでくれるかもしれないでしょう?
でも、無駄だった。だってお母さんは死んでしまっていたんだもの。
お父さんだけが、身を捩りながらわたしの話を聴いていた。
終わりだわ。わたしお父さんに酷い目に遭わされる。その時の絶望ったら無かったわ。いっそ死んでしまいたかった。でも、無理だった。
その部屋には死ぬための道具も無かったし、舌を噛み切るだけの勇気もわたしには無かった。死んだ赤ん坊と生きている赤ん坊とわたししかその部屋にはなかったの」
「待って下さい」
私は彼女の話を遮った。
「お父さんが、イチコさんに酷い事をするって」
「だって、そうでしょう。喩えわざとじゃなかったとしてもわたし、お母さんを殺してしまったんだもの」
「お父さんは、」
言いかけて、私はその続きを口にするのを躊躇った。
「そうね、あの人、わたしに酷い事するどころか、ろくに怒ったことも無いわね」
姉は私の云わんとすることを汲み取って、答えた。
「でも、その時わたしはそう思ったわ。きっと酷い事をされる。お父さんに復讐される。まだはいはいも出来ない赤ん坊にわたしは怯えたの」
「どうして、そんな」
「だって夢なんだもの。あなた、無い?すごく仲がいいはずの友達と夢で喧嘩してしまったり、名前も覚えてない様な人と夢ではとても親しかったり」
私は何か言おうとした。しかし言葉が見つからず、結局口を閉じた。
私は何をむきになっているのだろう。これはイチコの夢の話だ。
「聴きたい事はそれだけ?じゃあ続きを話すわね。
お母さんは瞬く間に腐って干からびて小さい小さい木乃伊になってしまったの。わたしは途方に暮れたわ。壱彦が産まれなくなってしまう。
わたしが産まれなくなってしまう。
瑞彦もキラコも新彦も黒彦も紡子だって。そう思ったら泣きたくなった。そしたら、いつの間にか隣に黒彦が立っていた。
わたし謝ろうとしたわ。
ごめんなさい黒彦、お母さんが死んじゃった。
でも謝る前に、黒彦はわたしの頭を蹴っ飛ばした。―――そんな顔しないで。だって黒彦のせいじゃないもの。それは黒彦じゃなかったんだもの。
そうよ、成長して大きくなったお父さんだったわ。そして、やっぱりお父さんはわたしに怒っていた。
わたしをぶって、わたしの髪を引っ張って、わたしの首を絞めたりした。
わたしは暫く我慢して大人しくしたいようにさせていたけど、そのうち段々腹が立ってきたわ。どうしてわたしが怒られないといけないの?お母さんが死んでしまったのは事故なのに。わたしは泣いているお母さんを慰めてあげようとしただけなのに。
いつまで経っても泣きやまなかったお母さんが悪いのに。首が据わっていなかったお母さんが悪いのに。横で黙ってじっと見ていたお父さんが悪いのに。そうよ、お母さんを守らなかったお父さんが悪いんだわ。
だからわたしはお父さんに言った。泣きながら逃げながら叫んだわ。
『如何してお母さんを守ってあげなかったの?そんなに怒るなら、如何して黙って見てたのよ!無責任だわ、お母さんが死んじゃったらお父さんが居る意味が無いじゃない。お父さんが生きている意味なんか無いじゃない!だから、お父さんがお母さんを守るべきだったのよ!お母さんが死んでしまったら、お父さんに何の意味があるの?お母さんが死んでしまったら、あんたわたしのお父さんでも何でもないじゃない!あんたが死ねばよかったのよ、あんたが、あんたが!』
自分でも意味分からないこと言ってると思ってたわ。でもね、そしたらお父さん、わたしのことをぶつのを止めた。ねえ、それからお父さん、わたしになんて言ったと思う?
―――何も言わなかったの。呼吸の音でさえ聞こえなかった。それが凄く怖かったわ。
お互い黙ってじぃっと睨みあってた。いいえ、お父さんはわたしのことを見ていなかったわね。視線はぼおっとわたしの頭の上を通り過ぎていた。
次に何をされるか、全く想像できなくて、お父さんを睨みつけながらわたしは心の底から怯えたわ。それでね、ふとこう思ってしまったの。
ひょっとしたら、わたしがお母さんの代わりをさせられるかもしれない。
お母さんの代わりにみんなを苦しんで産まなければいけなくなるかもしれないって。
だってお母さんは死んでしまったんだもの。その部屋で、子供を産めるのはわたしだけでしょう?お母さんの代わりに、わたしが壱彦を産んで、わたしを産んで、瑞彦を産んで、キラコと新彦を出すためにお腹を裂かれて、」
「イチコさん止めて下さい」
「そしてその通りになったわ」
私はそれ以上聴きたくなかった。それなのに、私は耳を塞ぐことも、其処から立ち去る事も出来なかった。
彼女は話し続けた。
「産まれたばかりの壱彦を育てながらわたし、思ったの。わたし、自分を産まなくちゃいけないのかしら。それはいいわ。
わたしは産まれたいもの。
けれどそれからわたし、わたしを育てなくちゃいけないの?わたしにご飯を食べさせて、わたしをトイレに行かせて、でも、其処までならまだ良い。
この先ずっと、わたしを教育して、わたしの我儘を聴いて、幼いわたしのしたことに、わたしが責任を取らなくちゃいけないの?
そんな無茶苦茶な話ってある?耐えられない!
だからわたし、わたしのことは壱彦に育ててもらおうって思った。大丈夫、壱彦ならわたしを立派に育ててくれる。賢くて優しくて強いもの。
実際壱彦はよくやってくれたわ。わたしを教育してくれて、わたしの我儘を聴いてくれて、わたしの代わりに謝ってくれた。壱彦は一生わたしの面倒を見てくれるもの。これでわたしは安心だわ。
じゃあその次の瑞彦は?でもあの子、ちょっとしたら家を出て行ってしまうし、放っておいても大丈夫よね。キラコと新彦、あの子たちとっても仲が悪いから、どっちかが死んでしまった方がどっちかの幸せになるんじゃないかしら。でもじゃあどっちの幸せを取るの?キラコ?新彦?選べない。
だからわたしは黒彦を産むわ。そして二人に与えるの。同じものを分かち合えばきっと二人は仲良くなってくれるんじゃないかしら。でもそう上手くはいかないわよね。黒彦を取り合って、二人は益々仲が悪くなってしまった。でも黒彦は上手にやってくれたわ。二人を上手く遠ざけながら、二人と上手く接してくれた。わたしが思った以上にね。でもその時、ふと気が付いたの。
壱彦にはわたしがいる。
わたしには壱彦がいる。
瑞彦は居なくなってしまって、黒彦はキラコと新彦のもの。
お父さんには壱彦とわたしとキラコと新彦と黒彦がいる。
じゃあ、お母さんには?」
私は気づけば、左の二の腕を引っ掻いていた。
「そこでやっと気が付いたわ。わたしはお母さんだったの。最初から、その部屋に居たのはわたしじゃなくってお母さんだったのよ。
お父さんは相変わらずぼおっとして遠くを見るばっかりで、お母さんを見ていなかった。お母さんには、壱彦もわたしも瑞彦もキラコも新彦も黒彦もお父さんも無かったの。
お母さんはお父さんに泣いて縋ったわ。
『お願い、私に紡子を頂戴。私の紡子、私の子を私に頂戴!』
そこで夢が覚めた」
私は目の前にあったコップをテーブルから叩き落した。
コップは割れずに硬い音を立て、ごろごろと床を転がった。
中身の珈琲がイチコのスカートの裾を汚したが、気にする様子は微塵も見せなかった。
もう沢山だった。
「わたし、思ったの」
姉は構わず続けた。
「どうしてあんな苦しい思い何回もしてきて、お母さん、紡子を産む気になったのかしら。自分を殺そうとした赤ん坊を、どうしてあんなに可愛がれるのかしらって」
彼女はそう言ったきり、目を閉じてソファに深く凭れかかって寝息を立て始めた。
イチコはいつでもそうだった。
私はやっと席を立ち、壁に何度もぶつかりながら洗面台まで走った。
そこで、吐けるだけ胃液を吐いた。
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