三男、新彦の話






「きらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきら」


兄は相変わらずそう呟いていた。


「黒彦」


「はい」


「黒彦って呼んだんだ。父さんが」


兄の部屋は益々物が増えていた。

その殆どが音響にまつわる精密機器で、乱雑に積まれた箱から伸びた黒々としたコードが床の上で髪の毛の様に絡まっている。

私はそれらになるべく触れないように、部屋の隅に置かれた背もたれの無い椅子に座っていた。


「曲掛けても良い?」


兄が尋ねてきたので、私はいつも通り了解した。持っていたCDケースから中身を取り出し、慣れた手つきでプレイヤーにセットする。再生ボタンが押されると、普段彼の部屋で聴くものよりだいぶ静かな曲が流れ始めた。

ずっとしていたCDの棚の整理を終えたらしく、兄はパソコンデスクの椅子を私の側まで引っ張って来て、そこに腰かけて一息ついた。


「お前が母さんと帰ってきた時に、黒彦って呼んだ。母さんは何も言わなかった。だからこいつは黒彦って言うんだって思った」


彼は膝の上で手を組んで前屈みになると、話を続けた。


兄の顔を正面から見つめて、気が付いた。ピアスの数も増えている。

びっしりと金属を通した両の耳、ボディピアスに貫かれた瞼と鼻筋が酷く痛々しい。本人はいつも、痛くないと言うが、私にはとても信じられなかった。


「私の名前はもう付いていたんですか。」


私はなるべく気にしない振りをして、質問をした。


「うん。誰が付けたのか知らないけど。多分父さんじゃねえかな。だから、家に来たその日から黒彦は、黒彦黒彦ってオレらに呼ばれてたよ」


兄はそう言って、それから少し苛ついたように二三度爪先で床を叩くと、吐き捨てるように呟いた。


「姉さんが一度、黒彦をあやす時に『くーちゃん』って言ったのを、キラコはなんか知らないけど気に入って、それからあいつは黒彦をくーちゃんなんて呼ぶようになったけど」


「イチコさんが最初に言ったんですか」


「うん」


兄は短くため息をついた。


「オレはその呼び方が気に入らなくて、姉さんに言ったんだ。やめろって。そしたら姉さんは直ぐに止めたけど、キラコは何度言っても止めなかった。いくら叩いてもそう呼ぶのを止めなかった。だからオレ、キラコと黒彦が一緒に居るところには居たくなかった」


私は困惑した。


兄がそんな素振りを見せた事は、いくら思い出そうとしても一度も無かった。それとも、単に気付かなかっただけなのだろうか。


「だって黒彦は黒彦だろ。黒彦って言うんだろ。なのにくーちゃんとか何だよ。虫唾が走る。黒彦は、嫌じゃないの?」


「考えたこと、ありませんでした」


正直に答えた。


「ふうん、可哀そうだな」


兄はそう言いつつも、私がどう思っていようが興味はなさそうだった。


「黒彦といる時、キラコはいつもよりもっと鬱陶しい。姉さんはそうでもなかったけど、あいつは黒彦に女の事ばっか教えてた。おままごととか人形遊びとか。気持ち悪くて嫌で嫌で仕方なかった」


「知りませんでした」


姉のキラコと、おままごとや人形遊びをしたことは覚えていた。それでも、そのことに対して新彦に何か言われた覚えはない。


「うん、だって別に何も言わなかったし。兎に角その場に居るのが嫌だったから。よっぽどの事が無けりゃ、無視してた」


「よっぽどの事?」


私は思わず聴き返していた。


「覚えてる?お前が幼稚園に入りたてのころ、あいつ自分の服を黒彦に着せたんだ。黒彦の部屋に行ったら、キラコがいて、黒彦が女の子の服を着てた」


話をする兄の表情は、あくまで穏やかだった。それでも、前で組んだ手の指が、甲に強く食い込んでいることに私は気付いていた。


「ピンクのワンピース。小さくなってキラコが着られなくなった奴だと思う。前髪はぼんぼんの付いた髪ゴムで結ばれてた。まるで女の子だった。オレは気付いたらキラコを思いっきり蹴っ飛ばしてた。いや、最初は何か投げつけたのかも。兎に角、ひたすらキラコを殴りつけて蹴りつけた。あいつ泣かなかったけど、やめてって小さい声でずっと言ってたな。その最中、多分オレ黒彦に怒鳴ったと思う。

『着替えろ!』って。どうだったかな、キラコを殴るのに必死だったからあんまり覚えてないや。黒彦、覚えてる?」


「いや、」


声が裏返った。酷く眩暈がした。


「そっか、まあいいや。しばらくしたらあいつ、顔中真っ赤になってぐったりして動かなくなった。母さんが部屋に入って来て物凄い声で叫んでたな。

キラコは病院に連れていかれて、オレは良く分かんない場所に連れて行かれた。そこで知らない大人に、何でキラコを殴ったのかとか、好きな事とか嫌いな事とか聴かれたり、色んな図形見させられたりした。でっかい積み木で遊ばされたりもしたな。

家に帰された後も暫くキラコは家に帰って来なかったし、母さんも居ない事が多かった。その間、毎日学校から帰ったら黒彦と遊べた。

偶に、瑞彦兄さんも相手してくれたっけな。あの時まだ家に居たもんなあの人」


「キラコさんは、どうしたんですか」


「普通に帰ってきた。ギブスと絆創膏はつけてたけど、ちょっとしたら取れた。それから流石にキラコは、もう黒彦に自分の服を着せなくなったな」


そこで、兄は話を止めた。私は、何と言っていいか分からずに黙っていた。部屋に流れていた曲が、いつの間にか激しい曲調のものに変っていた。私は気分が優れなかった。


「どうして、」


口の中が渇いて、私の声は殆ど掠れていた。


「どうして、キラコさんを痛めつけたんですか」


「許せなかったから。オレの弟に勝手なことしたから。オレの弟なのに、あいつは自分の弟みたいに黒彦に勝手なことをしたから。

当然だろ、オレお兄ちゃんだから。弟を守るのはお兄ちゃんだったら当然だろ。

母さんも壱彦兄さんも瑞彦兄さんもそう言った。

だから瑞彦兄さんは、それが嫌で家を出てったんだ。色んなものからオレや黒彦を守るのが嫌になって、家を出て行った。

まあ別に良いんじゃないかな。弟が二人もいちゃそりゃ守るのも大変だろ。オレは黒彦だけだからいいけどさ」


兄はそう言って、組んだ手を解くと椅子の背もたれに深く凭れかかった。

私は黙っていた。曲が終わり、次の曲がかかるまでの数秒間、耐えがたい沈黙が流れた。

兄の座る椅子の軋む音が、切れ味の悪い刃物の様に鼓膜を打った。


「紡子のこと、好き?」


曲の始まりとほぼ同時に、兄は私に尋ねた。


「好きですよ」


私は答えた。


「ふうん」


兄は今度は頭の後ろで手を組み、ぎいぎいと椅子を鳴らした。


「紡子はオレ達の事、好きかな」


私は何と答えたらよいのか分からずに、口を噤んだ。


「でもきっと、母さんよりは嫌われてないんだろうな」


「どうしてですか」


私の声は震えていた。全身から、どっと汗が噴き出すのを感じた。


「母さん殺されかけたから。オレ達はそこまでされてない」


「紡子はお母さんを嫌ってなんかいない」


「でも母さんは死に掛けた」


「新彦さん、それは、」



一瞬何が起こったか理解できなかった。


左の頬骨辺りに強い衝撃が走り、私はコードが絡まった床の上に転がった。

顔を上げると、兄が椅子に座ったまま私を見降ろしていた。組んだ手は解かれている。


「その呼び方止めろって前にも言っただろっ!何だよ新彦さんって!他人みたいな呼び方すんなよ!」


「すみません、新彦兄さん」


「分かったんなら別にいいさ。それで、何?」


私は立ち上がって、倒れた椅子を直して座った。


「その事に関して、紡子に責任は無いでしょう」


「うん、責任は無いけどさ。でも嫌いなんじゃないか?黒彦だって病院に居たろ。知ってるだろ紡子が生まれた時の事」


病院。

革張りのソファ。

紡子の産声。

母の叫び声。

父の横顔。

姉のイチコが、私の手を強く握りしめている。

『お父様ですか』

そう看護師に尋ねられた兄、壱彦。


「胎児が殺意を持っているわけが無い」


私の声はほぼ囁きになっていた。


「どうかな、少なくともオレは、キラコを殺そうとしたよ」


「それは、」


「あいつ邪魔だったから。あいつのせいで母さんの腹の中は凄く狭かった。だから首を絞めた。オレ力無かったから、臍の緒をあいつの首に巻いたんだ」


「事故だ、ただの事故だ。新彦兄さんのそれは、単なる思い込みだ」


「なんで産まれてなかった黒彦に分かるんだよ。変な事言うなあ」


兄は可笑しそうに笑う。私は兄の顔を見る事が出来ずに俯いた。足の指で、床のコードを弄った。髪の毛から頬へ、汗が伝うのを感じた。


「キラコに何か言われたのか?オレに殺されかけたって。でもお姉ちゃんだから我慢した。あいつそう言った?馬鹿だなあいつ。たった数秒早かっただけで、自分の方がお姉さんだって思い込んでるんだろ。うけるよな。あいつ一人で対抗心燃やしてんの。

あと、あいつは知らないけど、先に産声を上げたのはオレなんだよ。だからどうってわけじゃないけど、でもそれ知ったらあいつ、悔しがるだろうな。頭かきむしって叫んで転げまわるだろうな。

それちょっと見たいよなあ。なあ黒彦」


眩暈は一層酷くなった。涙が滲んで視界がぼやけ、自分の足もよく見えなくなる。


限界だった。


「飲み物を持ってくる。新彦兄さんの分も」


「ああ、じゃあ麦茶持ってきて。ペットボトルごと。無かったら水で良いや」


私は頷いて、椅子からのろのろと立ち上がった。コードに躓かない様に部屋の扉までたどり着くのが、とても難しかった。


「新彦兄さん」


「何?」


私はどうしても気になっていた事を聴いてみた。


「新彦兄さんは、キラコさんをどう思っていますか」


「別に、普通」


「そうですか」


取っ手を握って扉を開くと、廊下の熱気がむっと皮膚を包んだ。



「嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い」


扉を閉めた後でも、部屋からは兄の呟きが聴こえ続けていた。








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