黒彦の家族

すみを

次女、キラコの話




「くーちゃんはとっても簡単に生まれたの」


午後三時半。


家の外壁から染み込んでくる真夏の暑さに耐えきれず、姉のキラコが空調に電源を入れてから数十分はたっていた。


「あたしも新彦も、お兄ちゃん達も、出てくる時お母さんを物凄く苦しめたんだけどね。くーちゃんは軽い陣痛から一時間足らずで、すっと出てきたんだって」


「出産経験の違いじゃないですか」


私は挟まないでもいい口を挟んで、キラコの言葉を遮った。

キラコは気を悪くするわけでもなく、私の言葉をすぐさま否定した。


「ううん、そんなことない。現に紡子の出産の時、くーちゃんも知ってるでしょう。お母さん死にそうになったじゃない」


「キラコさん、」


「なあに?あたし変なこと言った?」


私はすぐに口を挟んだ軽率を後悔した。

彼女は相変わらず気にした様子も無く、殆ど氷しか残っていないコップを煽った。

からからんと涼しい音を居間に響かせて、彼女は話を続けた。


「あたしね、お母さんのお腹の中で臍の緒が首に巻きついてたんだって。産まれる直前でその事が分かって、直ぐ帝王切開で取り出されたの。臍の緒切った時あたしの顔は真っ青で、産声もあげずにぐったりしていたって」


「キラコさん、珈琲の御代わり要りますか」


「ううん、要らない。これ以上飲むとトイレ行きたくなるから。ねえ、息してなかったあたしを、お医者さんは如何したと思う?」


姉は溶けて小さくなった氷をぼりぼりと噛み砕いた。

柔らかそうな白い頬が、別の生き物のように躍動しているのを何故か見ている事が出来ず、私はまだ半分以上残っているアイスコーヒーを見つめた。


「逆さにして叩いたんだって。羊水を吐き出させるためだったらしいけど、それでもあたし泣かなかった。偉いでしょ。誰も褒めてくれないけど」


キラコの話は、いつも冗談のようで本気なので、困る。

物心着いた頃から、この調子で私は兄弟達の話に流され続けて居る。


「うん、それでね、その後お医者さんはどうしたかっていうと、私の胸を押し始めたって。こう、ぐっぐっとね」

姉は両手の人差し指と中指をくっつけて、虚空を律動的に押す動作をした。

その時の様子を想像した。私の頭の中での姉は小さく、紫色をしてぐにゃぐにゃと歪んでいた。薄青色の手術着を着た男が、紫色の姉に心臓マッサージをする。

捩じれた口からごぽごぽと水を吐き出す。それをじっと見ている父。


「流石に痛かったんだろうね。我慢してたけど、あたしとうとう泣いちゃったらしいの」


「キラコさん。その話、誰から聞いたんですか」


「イチコ姉」


胎児の姉が、きちんとそれらしい形と色になっていく処を想像した。しかし、どうしても姉の産声は想像できなかった。

キラコの泣き声を、私は一度も聴いた覚えが無かった。


「イチコさんは、それを見ていたんですか」


「そうだね。分娩室に入ったのかな。見ていたって言ってたけど、本当はお父さんから聴いたことを話しただけかもしれない。ちっちゃい時に聴いたから、全部信じちゃったけど。そうそう、くーちゃんが産まれるちょっと前だから、今の紡子よりもっとちっちゃい時ね」


私は開きかけた口を途中で閉じた。


「あたしそんなに生まれるの嫌だったのかな。でも分かる。だって外に出て早々お医者さんに虐められたもんね。でもね、その時に気付いたの。産まれたからには生きなくちゃ。生きるためにはこのくらいでくじけちゃダメ。強くならなくちゃって」


「胎児の時に?」


「考えてなかった訳じゃないと思うよ。だってその後あたし、病気らしい病気したこと無いし、今のところ頑張って生きているし」


姉の口調はいつも本気なのか冗談なのか分からない。

しかし、確かにキラコが病気に掛かっている処など、まるで想像がつかなかった。

氷が解けて薄くなっていたアイスコーヒーを、私はマドラーでかき混ぜて一口啜った。


「そうそう、くーちゃんが生まれた時の話だったね。あの時、あたし病院のソファに座ってお父さんが出てくるのを待ってた。

看護婦さんが持ってきてくれた、あ、今は看護師さんって言わなきゃ駄目なんだよね。そう看護師さんが持ってきてくれた絵本を読んでたの。

兄さん達は学校で、あたしと新彦は幼稚園を休んでお父さんについて行った。

新彦は何処に居たっけな。隣でゲームしていたような、病院内を探検していた様な。とりあえず、分娩室から泣き声が聞こえてきた時には一緒に居た様な気がする。

あたし、最初何処かで赤ちゃんが泣いてるって思った。

『うまれた。』そう言って新彦があたしの腕をつねるまで、それが自分の新しい兄弟の声だって気付かなかったの。

分娩室の扉が開いたわ。

看護師さんじゃなくてお父さんがいた。あたし達を手招きして、すぐ分娩室に戻っていった。あたし絵本を置いてすぐ部屋に入ったよ」


「随分はっきり覚えていますね」


「はっきり覚えているよ。あの時ね、新彦分娩室に入んなかったの。あたしの腕をつねったくせに、ずっとソファに座ったままだった。酷いよね」


「怖かったのかもしれない」


私は自分でもよく分からない擁護をした。


「そう?あたしはすっごく楽しみだった。あたしに弟か妹が出来るんだって友達みんなに自慢したよ。

くーちゃんが生まれた後も自慢した。弟が出来たんだって。そのあともずっと自慢し続けたよ。弟がいるんだって。今だって自慢してるもん」


「それで、分娩室に入ったあとは」


「うん、そうそう。居たよ。くーちゃんがいた。

もう布にくるまれてて、あたしからは赤いぶよぶよした手しか見えなかった。お母さんは凄く元気そうで、変だなって思った。イチコ姉から聴いてた話と大分違ったから。

赤ちゃんを産んだ後、お母さんは疲れ切ってお話も出来ないって聴いてたから。でもくーちゃんは本当にすんなり産まれたみたいで、お父さんとお母さんは普通に会話してたよ。

あたしはお母さんの隣の台に寝かされた赤ちゃんが見たかった。でも見れなかった。絵本を持ってきてくれた看護師さんが言ったの。

『キラコちゃんに弟が出来たんだよ。』って。それから、『お母さんを休ませてあげてね』って、そう言った。あたしはお父さんと一緒に分娩室を出たよ。

新彦はまだソファでゲームをしてた。顔も上げないでこう言ったの。『どっち』」


「それは、」


私は思わず姉の言葉を遮った。


「弟か妹かってことですか」


「うん。教えてあげた。『おとうと』って。

そしたら新彦、持ってたゲーム機を廊下の向こう側まで投げ飛ばしたの。怒ってじゃないよ。嬉しくて投げたの。

誰も廊下に居なかったけれど、すごい音したなあ。あのゲーム機、多分壊れちゃったと思う。でも新彦は全然気にしてなかった。すっごく喜んでたから。

現金だよね。弟だって分かった途端そんなん。弟を欲しがっていたのは知っていたけどさ。あたしは生まれたのがもし妹でも、きっと喜んでたっていうのに。そんな新彦なんかに、あたしも馬鹿正直に答えなくてもよかったのにね。

その時は何だか、舞い上がってたのかな。早くみんなに言いふらしたくて仕方なかった。学校に行っていた兄さん達にも教えたくてたまらなかった」


そう言うと姉は残った氷を残らず口に放り込んだ。からからぼりぼりという音を聴くと、私の背筋に寒気が走った。


「結局、その日は赤ちゃんの腕しか見れなかった。帰りの車の中で、弟の事を考えながらうとうとしていたら、なんだか虫の鳴き声みたいな音がしているのに気付いたの。何だろうと思って、あたしは前の座席の間から顔を出して耳をすませた。

鳴き声は前の方から聴こえたの。


『きらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきら』


低い小さな音でずうっと鳴っていた。

何処から鳴っているのか探しまくってね、お父さんにばれないようにそっとシートベルトを外して座席の下を覗いたりもした。


『きらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきらきら』


ずっと探した。窓の隙間も肘掛の裏も灰皿も。途中から、もう何処から鳴っているのか分からなくなっちゃったの。」


「キラコさん、それは、」


「まあまあ聞いてよ。それでね、新彦に聴こうと思ったの。病院で投げ飛ばしたゲーム機持ってじっとしてたから、寝てるんじゃないかと思って、起こして聴いてみようと思ったの。そしたら」


「いいです。キラコさん。もういいです」



「『嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い』


新彦だった。新彦がずうっと呟いてたの。


『嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い』


ずうっとずうっと、助手席の背中を見つめながらずうっと呟いてた。吃驚したけど、それよりまずむかついたかな。


『ねえにいひこ、うるさい。なんなの。しずかにしてよ』


あたしは新彦をゆすって言ったの。でも新彦は聴いてくれなかった。

『嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い』


『うるさいってばにいひこ、うるさい、ねえおとうさんにいひこがうるさい。

しかってよ。ねえ、おとうさんってば。

にいひこあたしのいうこときいてくれないの。いっつもいっつもあたしのいうことぜんぶしらんぷりして。

ねえうるさいってばにいひこ!ぜんぜんきかないのよ。いっつもいっつも、あたしのことしらんぷりするくせにあたしがにいひこしらんぷりするとけってくるのよ、きのうなんかちょっとおもちゃかりただけだったのに、あたしのことなんどもなんどもぶったのよ。

あたしのほうがおねえさんなのに、臍の緒首に巻き付けてまであたしの方が早くお母さんの中から出てきてやったのに、ねえお父さん。

うるさいうるさい新彦!可愛くない弟。こんなやつあたしの弟じゃない。

あいつはあたしのことなんてどうでもいいと思ってるのよ。なんなら邪魔だって思ってるんだ。そうだよあたしの首を絞めたのこいつなのよお父さん。お母さんのお腹が狭いのはあたしのせいだって、あたしのことぶったりけっ飛ばしたり臍の緒で首を絞めてきたりしたのよ。でもあたし泣かなかった。我慢して我慢して、生まれてやったのよ新彦よりも早く。あたしの方がお姉さん、お姉さんなのに!可愛くない、ほんっとうに可愛くない、うるさいってば黙って!黙れよ新彦!ねえお父さん今度の弟は絶対可愛いよねえ、こんなのじゃない、こんなの弟じゃない、今度の弟はちゃんとした弟だよねえお父さん』」


「キラコさん」


「『煩い』


お父さんは運転席から顔を出してあたしを叱ったの。

こんなことってある?さっきまでずっと煩かったのは新彦の方なのに。あたし、ショックで何も言い返せなかった。

くやしくってくやしくって泣いちゃいそうだった。でも泣かなかった。お姉さんになるんだもん。今迄だって泣かなかった。これからだって泣かない。これからもっと強い子にならなくっちゃ」


「キラコさん。珈琲の御代わり要りますか」


「あ、そうだね。うん、喉渇いちゃった」


空になったコップを姉から受け取り、私はソファから腰を上げた。

私のアイスコーヒーはまだ半分残っている。


「ねえ、くーちゃん」


姉はにこにこと笑っている。


「ちゃんとくーちゃんの顔見れたのは、くーちゃんがお母さんと一緒に家に帰ってきた時だった。真っ黒なおめめがぱっちりしてて可愛くて可愛くて仕方なかったの」


私はソファから立ったまま、姉の言葉を聴いていた。コップから滴り落ちた水滴が足の甲を打つ感触が上ってくる。


「ベッドに寝てたくーちゃんにずっと話しかけたよ。


『あたしのおとうと。にいひこじゃないあたしのおとうと。にいひこなんかににないでね。あたしいっぱいかわいがるから、あたしにひどいことしないでね』


くーちゃん、ちゃんと聞いててくれてたんだね」



姉はにこにこと笑みを絶やさないまま、私を見た。

私は、姉の笑顔から目を逸らすことが出来なかった。








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