第38話 雪片の踊り-09
窓辺に椅子を寄せて、
アレックスも何の気なしに窓の外を眺めた。
遅めの昼食を終えたばかりだというのに夜も間近のような空模様で時間感覚が狂いそうだ。
ジゼルは一足先にクロステルへ戻った。
用は済んだのだからメイベルへは帰ってもいいと告げたのだが、心配しているのか、アレックスと同じタイミングでクロステルへ戻ると言っている。
アレックスとしても、私物は順次ネオンビスコからクロステルへ転送される予定だから、いずれはクロステルへ向かうつもりだ。
この屋敷は一人で住むには広すぎる。
各自部屋で休むか、街へ出かけて、思い思いに過ごしていた。
木々に積もった雪が滑り落ちる音まで窓越しに聞こえてくるほどに、静まりかえっている。
確かめるべきことは二つあった。
《精神移植》――自動人形に人間の精神を移植するという技術が確立しているのか。
そうだとしても、フランの中に突如現れた異なる人格を、フランチェスカの精神だと認められるのか。
いずれも明確な回答は得られないままだ。
精神移植が可能だとしても、フランチェスカ本人だと証明するのは不可能だとレフは言った。誰にとっても、自分が自分である証明を確実に行うのは難しい。
肉体の情報が同一であれば、間違いなくその人であるのか。
たとえば昨日と今日ではまるで違う人間性を示しても、同じ人として扱えるのか。
アレックスの性格が突然変わったとして、たとえ見た目が同じでも、DNAが一致していても、アレックスを良く知る人にととってそれをアレックスと認められるのかは分からない。
不確かな認識の上で成り立つ関係性に改めて気付く。
しかし、絶えず『彼は間違いなく彼本人か』などと考えながら生きていたらそれはもう病気だ。『彼は間違いなく彼本人だとしよう』と曖昧に受け入れて暮らすほか、対処法はない。
相手が人間であれば。
飽きずに雪を見上げている無防備な横顔からは彼女が《フランチェスカ》かフランの判別はつかない。
雪など見飽きているはずの《フランチェスカ》が久しぶりに得た肉体の感覚を喜んでいるようにも、雪を見ることさえも珍しがるフランが絶え間なく舞い降りる雪片を楽しんでいるようにも見える。
結局考えるべきは、自分の望みだと思う。
どうしたいのか。
どうなれば嬉しいのか。
どうすれば満足なのか。
――これを姉との再会だと認めることができれば、長らくの旅に相応の成果をつけられたのだと満足できるかもしれない。
自動人形の体を得たフランチェスカと暮らしていく。
奇妙な生活になるかもしれないが、支えあっていけばいい。
そうすることは望外の喜びに感じた。
形は少し異なるが、ずっと求めていた結末に最も近い。
アレックスの想像はいつも漠然としていて、『その時フランがどうしているか』という予想を明確に思い描いたことはない。
「どうしたの、アレックス。むずかしい顔をしている」
発言をもってはじめて彼女が《フランチェスカ》だと判断できた。
「……言ったはずだよ。今日いっぱいは考えるって」
「そうだったね」
アレックスは顔を上げる。窓辺の雪を背景に自動人形がそこに座っていて、穏やかな目をして彼を見つめていた。
今になって驚くのは、この自動人形がこんなにも多彩な感情表現が可能だったということだ。繊細な動きまで可能にした顔面の造りや発話プログラムの緻密さを途方もなく感じる。
ふと視線が揺らいで、なにかを捉える。
窓の外、舞い落ちる雪を追いかけた眼差しは、アレックスへと帰結する。
「ねえ、アレックス。庭へ出てもいい? 雪が見たいの」
窓の外を確認した。
降雪は控え目で、自動人形の歩行が困難なほど積もっているわけでもない。
断る理由も思い当たらず彼女を連れて庭へ向かった。
屋敷の裏手に庭とは言っても何の手入れもされていない空間が広がっている。
ささやかな板張りのテラスがある他は目隠しの植垣が敷地の区切りを示すばかりで、目を楽しませるものは何もない。
ただ雪が積もるに任せるだけの他愛もない光景がある。
《フランチェスカ》は少し顎を上げて、雪を散らす雲を見上げた。
頬に落ちた雪に指先で触れ、彼女は呟く。
「冷たい」
「――どうかな」
アレックスは皮肉な気分で《フランチェスカ》の振る舞いを眺めた。
自動人形の
外界の情報を感知し、分析して、どう振る舞うべきか演算を行う。
外気温が零度の場所へ行けば寒がるし、九五度の紅茶が入ったカップを見たら、触れたときに熱いような反応をする。
雪が触れた肌自体で寒さを感じるわけじゃない。
目や機体の各所に組み込まれたセンサーの仕事だ。
それによって受容できる刺激は、人間の五感とは異なる感覚であるはずだ。
受けた情報は異なっても、反応を示す自動人形の振る舞いは、人間と大差ない。
「どう思う?」
手を下ろして《フランチェスカ》は振り返る。
「私は、フランチェスカでもいいの?」
問いを重ねた。目線の高さにほとんど差がない。
詰め寄られて、アレックスは思わず一歩退いた。
物体との急な接近に自動人形の瞳が赤く瞬く。
その発光を直に見て、目の奥がちかちかする。
「きみが、きみを、フランチェスカだと思うなら――そうすればいいと思う。きみの中で完結することならば。僕にも同様に扱って欲しいなら、そうだな。フランチェスカ自身だって納得できることを、何でもいいから、示してよ。――例えば彼女しか知りえない秘密を喋るとか?」
冗談半分で言ったのは、たとえ彼女の秘密を示されたところで、答え合わせをする術がないからだ。
しかし《フランチェスカ》は真に受けた瞳をしてまっすぐアレックスを見た。
やがて、何かに縋る必死さを滲ませる。
「聞いてくれる? 私の、話を」
真摯な問いかけに圧された。《フランチェスカ》の手はいつしかアレックスの上着の裾を掴んでいた。
長話の予感があって、どうせならもっと着こんでくればよかったと後悔する。
*
屋内へ戻ろうかとも迷ったが、場を改めた途端、機会は永遠に失われるのではないかと漠然とした不安にかられて、テラスの屋根のなかへ身を寄せた。
冷え切ったベンチに浅く腰掛け、二人は同じ景色を見ている。
「この話をするのが、遅くなったことを謝らなくちゃいけないかもしれない。でも、私自身、それが確かなことなのか分からなくて、言い出せなかった。混乱させてしまうかも、って心配になったの」
「――うん。理解するよ。話して」
「実を言うとね。私は、私の
囁き声で、彼女は訥々と言葉を紡ぐ。
何も喋らずただ耳を傾けるだけのアレックスが、吐息のたびに眼前を白く曇らせるのに対し、発話する彼女の口元には如何なる変化も訪れない。
《フランチェスカ》は話を続けた。
温度のない声が、静かに響く。
――この人形たちは、きっと、末永く愛される。
あの
私では到底受け取れ切れないほどの愛を、あの子たちは受け止める。
私が出会いきれない人々に出会い、私が見ることのない景色を見て、私が聞くことのない音を聞く。
私の代わりに、すべてを、この子たちが経験する。
嬉しい――そう思って、ずっと、人形制作に協力していた。
私が持ちえぬ可能性を、すべて、この人形は持っている。
なんて羨ましくて――
なんて憎らしい。
憎い? まさか。思いも寄らない感情だ。
誰よりも彼女たちの《誕生》を待ちわびているのは、私のはずなのに。
後悔を覚えているなんて、そんなの嘘、なにかの間違いだ。
自動人形は日に日に私の姿を得ていく。
人形に生気を注いでいる。
否、人形に魂を奪われていく。
――そう錯覚する日々が過ぎる。
やがて私は人形に嫉妬を抱いていた。
だって、ずるいと思ったから。
私の命は短い。
それを哀れんで、人形が作られた。
私もとても気に入っている、素晴らしい人形だ。
でも、ふと気付いた。
私を思い出すための人形が、いつか私を塗りつぶしてしまう。
愛されているのは私ではなくて、私の代わりの人形だ。
彼女たちが愛されている瞬間、私はどこにいるのだろう。
ほんとうに、人形を愛する人は、私のことも思ってくれるのだろうか。
『あなたを思い出すために。忘れずにいるために』
そう母は言った。でも、ちがう。
私が居なくても平気なように、母は人形をつくったのだ。
私がいなくなるから、人形を作る。
人形ができれば、私はいらなくなる。
気付いてしまうと、自動人形は途端に私の存在を食らう怪物に見えた。
*
「私ね、試したくなった。パパとママを」
「――どうやって?」
「人形の服を着たの。ちょっとした隙に、研究室で、人形と入れ替わった。自動人形は休止状態で、ソファに横たえておくと、私が居眠りしているように見えた。彼らは家へ帰ろうとして、私を抱えて運んだ。――私の服を着た自動人形を、部屋から連れ出した」
次第に雪に覆われ、庭は色を失っていく。
アレックスは口を挟まず続きを待った。
「まさかと思うでしょう。私もびっくりした。彼らはとっくに私のことなんて見えていなかったのだと思う。醜く病んでいく私を受け入れていなかった。取り違えをするなんて、本当に滑稽よね。勿論しばらくしたら、彼らは気が付いて戻ってきた。だからって過ちをなかったことにはできないでしょう」
庭を眺める彼女の顔に懐かしさを感じた。
《ボックス》を無効にした自動人形の顔に良く似ている。
「二人に罰を与える気分だった。鍵をかけて部屋に立てこもった」
アレックスは想像する。
行ったこともない知らない研究所の光景だ。
ロックのかかったドアの前で慌てふためいた夫妻が必死にノックを繰り返している。大げさに打音が響いてもドアはびくともしない。開けてちょうだい、と母はヒステリックに叫ぶ。開けなさい、フランチェスカ。焦って汗を滲ませて、父は鋭く言い放つ。ドアを挟んで、自動人形の服を着たフランチェスカがそれを聞いている。何もかもが信じられないような目でドアを、その向こうの二人を見据えている。
彼女は泣き出しそうな顔をして、耳を塞いでうずくまる。
まるで見てきたことのように過去を連想した。
一致しているかは判らない。
ただ、彼女の申告が事実であれば状況にそう大差はないだろう。
「部屋から出た記憶はないの。私はそこで死んだのか、それも分からない」
「後の記憶がないのは、移植実験の影響かもしれない?」
答えを曖昧にして《フランチェスカ》はかぶりを振る。
精神移植実験が事実であれば、その後も引き続き両親に協力しなければ今この状況はありえない。だから、彼女がフランチェスカ本人であるならば、部屋から出て両親と衝突なり和解なりがあったのかもしれない。
だが、思い出されるのはクララの研究室で見つけたログの内容だ。
過失の責任を擦り付け合う二人の口論――
ほとんどが、妻が一方的に夫をなじる言葉が止め処なく繰り返されていた。
「体、冷えちゃう。ごめんね、こんな場所で長話しちゃって。中へ入ろう」
風に舞い込んで付着した雪をスカートから払って《フランチェスカ》が立ち上がる。彼女の冷え切った手を取って、アレックスはその歩みを制止した。
「秘密を喋れなんて言って悪かった。本気じゃなかった。だって、聞かされたところで、僕には判断ができないんだから。僕はきみを姉本人だとは言えない」
「うん。いいの、聞いて欲しかっただけ」
見上げた彼女は朗らかな表情をしていた。
重荷を下してほっとしたような様子だ。
「もっと早くに聞いておけばよかった。ごめん。きっと、何よりも一番にそうするべきだった」
「言ったでしょ。混乱させてしまうかもって。だから言えなかったの」
「そうじゃない。――フラン」
遠慮がちに手を引きぬき、彼女はアレックスへ向き直る。
触れられた手を胸に抱き寄せ、戸惑い立ち尽くした。
「きみに直接、単純に尋ねたらよかった。フランチェスカ・スノウリングを知っているか、と。彼女に関する情報を聞き出すべきだったんだ。だって、きみは知っていたんだ。彼女がどうなって、どこに居るのか……」
空っぽの手を下ろす。
次の言葉を待って、怯えた顔をして、自動人形はただそこに立っている。
「フラン。別の人格と機体を共有しているなんて嘘だ。《フランチェスカ》はそこには居ない。ただフランチェスカのふりをしたきみが《フランチェスカ》を装っていた。理由は理解できるよ」
フランは嘘をついて、フランチェスカを演じた。
その可能性にも考え及んではいたが確証はなかったし、何より彼女にそんな知恵や能力があるとは到底信じがたかった。
「きみは自己防衛のためにそうしたんだな。姉かもしれないって思えば僕は事実を明らかにするまではきみを稼動させて、手元に置く。それできみは延命に成功する」
アレックスはフランの前で彼女の先行きについて言及している。
旅はじきに終わりにする。
そうすれば、フランを稼動する理由もなくなる。
だから、フランは稼動を停止させ、今後二度と起動することはない。
――彼女への死刑宣告を、彼女の目前で何度も繰り返したのだ。
自動人形にとっては主の役に立つことが存在意義だ。
そのためには主と共に居なければ、目的は果たせない。
無意義な自動人形になることが、彼らの最大の不幸だった。
「フラン。違うか」
自動人形は眉を寄せて、表情を揺らがせる。
何も言えずに、けれど何かを言い出したい唇が震えている。
「どうしてそう思うの?」
やっと出てきたのは問いかけだった。
「言動の端々から、だ」
端的に答える。先刻の部屋での応酬が決定的な根拠だった。
――『……言ったはずだよ。今日いっぱいは考えるって』
――『そうだったね』
アレックスが伝えた相手はフランだった。
フランの経験は、彼女の言によれば《フランチェスカ》とは共有されないはずだ。
「最初は判らなかった。本当に姉さんかもしれない、って何度も思った。曲名を答えるまでは、本気でそう思った」
「曲名。オルゴールの」
「うん。姉さんは曲に興味なんかなかったよ。昔、僕がたずねたとき、さして気にもせず、曲の名前も知らなかった。答えられたのは、僕の伝えた詳細から該当の製品を検索したから。違うかな」
そんなはずはないと言われてしまえばそれまでだ。
思い違いだと指摘されるのを、もしかしたら少し期待していた。アレックスは目前の自動人形の体から、緊張状態が解れ、力が抜ける挙動を見て取った。
「あの――わたし、あのっ……」
言葉を継げずに彼女は顔を手で覆った。
手の中で、己の手のひらの接近を感知して瞳が赤く瞬く。
その発光まで恥じ入るように、彼女はしゃがみこんで、膝に顔を埋める。
それを、アレックスはまるで小さな女の子の振る舞いに感じた。
もう疑いようもない。
彼女はフランだ。
「ごめんなさい」
くぐもった、消え入りそうな声が聞こえる。
彼女は非を認め、アレックスの推論を肯定した。
事態を見極めようと慎重になって、張り詰めていた神経が緩む思いだ。
深く息を吐き出す。
吐息は眼前に散る雪を弄んで霧消する。
彼女へ歩み寄ると、板張りの床が靴の下で軋んだ。
ぎゅっと、フランが自分を抱く腕に力が篭る。
「嘘をついてごめんなさい。期待させて、裏切りました」
「うん」
アレックスも膝をかがめた。
そうでもしなければフランの声が聞こえない。
「最初はただ、怖くて、それだけが理由でした。少しでも長くアレックスのそばに居たくて、そのためにどうすればいいか、考えました」
「それで《精神移植実験》を利用した?」
「はい。レフの言う通り、技術の確立した理論ではありません。実験成功の事実もありません」
語尾が震えて消えた。
重ねて、ごめんなさい、と小さく囁く。
「もし、僕が信じたら、どうしていた?」
「そうなったら、あなたのそばに居られると思いました。もっと使っていただけると思いました。あなたが信じるなら、あなたを喜ばせるなら、ずっと……」
「《フランチェスカ》でいるつもりだったか」
フランは頷く。
彼女を見下ろすアレックスからは、髪の毛だけが揺れて見える。
「惜しかったよ、フラン。良い線行っていたと思う。姉のように感じた瞬間も何度もあった。どうやって姉の振る舞いを獲得したのかと驚いたよ。もっとも、四年の間に記憶の細部は曖昧になっているだろうから、実際はどうかな」
「恐れ多いことをしました。あなたにとっては侮辱に感じたかもしれません」
「うん。腹を立てても良いと思うけど……きみに行動を選ばせたのは僕だ。自動人形が姉さんの真似をしているのは確かに不快だ。でも、嘘を見抜けない自分はもっと不快だ」
フランはおずおずと顔を上げる。主の思いを確かめるためだ。
アレックスは己の表情を意識する。
怒った顔や、彼女を怯えさせる顔でなければいいと願う。
感情を伝えたいままに表に出せない自身を不自由に感じた。
「僕は嘘を見抜いた。きみは嘘を認めた。それで充分だ」
フランが戸惑うままの眼差しを向けたから、アレックスは己の言葉不足に気付く。
「謝罪や自責の言葉はもう充分だ。もっと有益な話をしたい」
意図せず冷たく響いた声は、しかし、思った通りにフランへ届いたようだ。彼女の顔から怯えが溶け出し、迷子が親と再会したときのような無防備な表情が浮かぶ。
柔らかい言い方が出来ない自分を悔いる反面で、彼女が意図を正しく汲んでくれて救われた思いだった。
共にした時間の分だけ理解を示してくれて、心強く感じた。
「それで――さっきの話も嘘? ずいぶんな作り話になるけど」
「あの時、わたしは同じ部屋にいて……」
「全部、見ていた?」
フランは首肯した。
アレックスは立ち上がる。
見渡す限りを雪に覆われていた。
己の体が芯から冷え切って、末端がしびれている。
「フラン。中に入ろう」
差し伸べた手に、彼女は弱々しく応えて腕を伸ばす。
アレックスから迎えに行ってその手を捕まえた。
それは、己と同じような、冷たい手のひらだった。
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