第36話 雪片の踊り-07
クララ・スノウリングの死の報せはごく短い間、世間を騒がせ、彼女の名が付された製品の存続を危ぶむ声も上がったが、じきにすべては彼女の手を離れて運用されていると理解され、ひとたびの安堵を招いた。
そうして、彼女を直に知る者だけが、控え目に悔やみの声を届けるばかりとなる。
葬儀は秘され、ごく少人数のみで行われた。
アレックスは久方ぶりに帰ったフォルテノルドの生家にいる。
真っ黒な喪服のままベッドに横になって、何をするでもなくぼんやりしていた。
定期的なハウスクリーニングを業者委託している屋敷はいつでも生活を始められる準備が整っていて、寝室も清潔に保たれている。
ここには子供部屋の面影はほとんどない。
しかし見上げる天井だけは変わらず過去の光景と一致した。
「アレックス」
開け放たれたままのドアから《フランチェスカ》が覗く。
彼女もまた黒装束のままだ。
アレックスは身を起こし、足を床へ下した。
この家に《フランチェスカ》の姿は馴染んでいて、アレックスの認識を度々騙そうとする。
まだ両親も家にいて、今夜にでも家族ごっこの食卓が開かれるような気がする。
そこでは家族がコーヒーを分け合って――アレックスのカップにだけは、それは注がれない。その時の落胆までありありと思い描くことができる。
「《フランチェスカ》。どうしたの」
「メイベルが、食事ができるからって、呼んでいる」
「うん。そうか。……わかった」
「食事の前に、着替えなきゃ」
「そうだね。着替えたら、ダイニングへ行くよ」
黒い喪服は葬儀の間だけで、その後は色のある服を着る決まりだ。死者と別れてからも悲しみを引きずると、死者の魂を迷わせるという建前にそって、列席者はなるべく華やかな服を着る。
今日はそこまで型を守る必要もないが、早く着替えたかった。
これを着ている間は死者とまだ繋がっているように思えて不吉に感じる。
実母が亡くなった事実をそこまで重大に考えられないのは感覚の麻痺なのか、あるいは本当に薄情なのか。
アレックスには分からない。
人が死んだ――その事実に、単純に戸惑っているのかもしれない。
これは初めて対面する他者の死だ。
フランチェスカ・スノウリングの遺体はまだ発見されていない。
どこかに存在するのか、あるいは既に消失しているのか。
工場全体を捜索した結果、アレックス自身が知りえた以上の情報は出てこなかったらしい。
遺体を見ていないせいもあるだろうか、アレックスにとって姉の死は母以上に実感が伴わない。
「そうだ。着替えの手伝い、お願いできない?」
去り際、アレックスを振り返って言った。
《フランチェスカ》の申し出にアレックスは眉を寄せて拒否の意を示す。
「ほかの誰かの手を借りなよ」
「でも。メイベルは厨房だし、ジゼルはまだ着いてないもの。あとはレフしか居ないけれど……」
彼らが葬儀の参加者だ。そのままスノウリング邸に滞在する予定になっている。
ジゼルだけは仕事のために葬儀を欠席し、後からの合流の予定だった。
「いいでしょう? ファスナを下げるだけよ。腕、曲がらないんだもの」
「わかった。いいよ」
嘆息と答えを同時に口にしてベッドを降りる。
《フランチェスカ》と連れ添って姉の部屋へと向かった。
アレックスの部屋とは異なり、フランチェスカの部屋はほとんどが以前のままだ。いつ彼女が帰ってきてもいいように、そうなった時に戸惑わないように、アレックスが業者に言いつけた。
「後ろ向いて。……はい、できた。終わり。じゃあ行くよ」
「ああ、待って。まだ居て。着るときだってファスナを上げるでしょ」
「ボタンの服を着たらいい」
確かに、と得心のいった顔をする。
ここ数日で《フランチェスカ》は更に表情が豊かになってきた。
演算処理装置の負荷を軽減するため、二つの人格が頻繁に入れ替わらぬよう、フランは必要最低限の局面でしか呼び出さずに過ごしている。その間に《フランチェスカ》は
用は済んだとばかりにアレックスは素っ気無く部屋を去ろうとする。
「じゃあ、アレックス、あなたが選んで」
「どうして」
引き止めたがる《フランチェスカ》を怪訝に思う。
振り返ったそこに、不安そうに表情を沈ませた自動人形がいる。
「誰かにそばに居てほしいから。だめ?」
「だめじゃない、けど」
心中を察することは、難しくない。
彼女の認識からすれば、もはや肉体を失い精神だけになった、あるいは幽霊のような存在なのだ。頼りなく、不確かな、揺らぐ少女だ。
「僕も着替えたいんだけどな」
「すぐに済ますね。後ろ向いていて」
彼女も申し訳なさそうに言う。
アレックスは彼女に背を向け、クローゼットの中を物色する音を聞いている。
「これにする。どう?」
「なんでもいいよ。ここにある服なら、なんでも似合う」
「だめよ、そんな言い方。ほかの女の子にもそんなに素っ気無いの?」
「関係ないだろ。早く着替えてよ」
「もう済んだ。どう?」
《フランチェスカ》は生成り色の毛織物のワンピースにボレロを羽織っていた。
ボレロを留めるベルベットのリボンは艶やかなワインレッドだ。
「良いんじゃない。じゃ、すぐ行くってメイベルに伝えておいて」
短く答えて部屋を去る。
《フランチェスカ》が不満そうに何か呟くのも構わずドアを閉めた。
彼女ほど着替えの選択肢のないアレックスだが、気持ちを切り替えたいからなるべく黒い色から遠ざかろうと服を選ぶ。
普段着の白いシャツに替え、淡い灰色のニットを重ねる。
身軽になっただけ気持ちも楽になった心地だ。
部屋を出たタイミングで玄関からノッカーが響いた。きっとジゼルだ。
アレックスはダイニングを素通りして玄関へ向かう。
ドアを開けると、冷えた外気と共にジゼルが現れる。
真っ黒なロング・コートに身を包み、化粧も控え目だ。
それらの印象を大きく上書きするのが真っ白い百合の花束だった。
真剣な面持ちで一礼して、クララへの悔やみの言葉を口にする。
「葬儀に出席できなくてごめんなさい」
「構わない。遠方からようこそ、ジゼル。あなたはこの家へ来るのははじめてかな」
「家までははじめてよ。研究所へは何度か」
「どうぞ入って。丁度食事が出来たところだ。外套を預かる」
花を先に受け取る。
ジゼルがコートを脱ぐと、鮮やかなコーラルピンクのスカートが翻った。
果実じみた色のストールを巻いて、ジゼルは揚々と歩いていく。
「あの子は?」
「《フランチェスカ》も食卓についているはずだ」
「そう」
コートを掛けると、花束をひとまずチェストに置いて、アレックスも彼女を追う。初めて来たと言うわりには自信満々な足取りでダイニングへと向かった。
「みなさまごきげんよう。今日はご苦労様」
あたかも屋敷の主人はジゼルであるような態度だ。
食事の準備を進めていたメイベルが怪訝にジゼルを見る。
ソファでくつろいでいるレフが手を挙げ挨拶を返す。
メイベルを手伝っていた《フランチェスカ》が厨房から出てくると、ジゼルは彼女へ迫った。
「しばらくぶりね、フラン。まだ中にウイルスを入れたままなの? それとも、フランチェスカの亡霊さんかしら。ねえ、自分の葬儀に列席した気分はどう?」
「ジゼル。姉の葬儀は、まだだよ。遺体が見つかっていない」
「あら。そうだったのね、ごめんなさい」
追いついたアレックスを振り返って、ジゼルは相変わらず悪びれずにそう言う。
フランチェスカの肉体は失われた。
明らかになった事実は多い。
だが、《フランチェスカ》の存在がその受け取り方を曖昧なものにしていた。
メイベルは素直に悲嘆し、しかし最悪の結果ではないとアレックスを励ました。
レフはただ口を噤んで、無念そうに唸った。
もう四日も前のことだ。
メイベルはアレックスから報告を受けた時点で切符を取り、ロウェルから共に行動している。
ジゼルへは電話で伝えたから、直接彼女の反応を見るのはこれがはじめてだ。
ジゼルの態度からは湿っぽい感慨は窺えない。少なくとも、表面上は。
「ようやくはっきりしたのですってね。フランチェスカは亡くなっていて、もし信用に足るなら、あなたは唯一の彼女の名残なのでしょう。どうするの、アレックス。彼女の扱いを決めた?」
「まだ。でも、近いうちには」
アレックスの肩に手を添えたのはメイベルだ。
彼の席へと誘導し、ジゼルから引き離すと、そのまま強引に着席させた。
「そういう話は、食事のあとで」
気を使って避けていた話題に無遠慮に触れるジゼルへきっぱりと言う。
メイベルは場の空気が壊れることに怯えている。
軽く微笑んでジゼルは謝罪を述べた。
自らも席について水の入ったグラスに手をつける。
アレックスはメイベルの心配を理解したから、せっかくの話を続けられなかった。
軽い話題ではない。しかし、避けたい不快な話題かというと、それも違う。
逃れることはできない。そう理解している。
「ご飯は美味しく食べて欲しいよ」
メイベルがぼやく。
いつもの印象からは珍しくフェミニンなロングスカートを翻し、テーブルの真ん中に茹でパンの積まれたかごを置いた。
配膳を終えた気配を察していつの間にかレフも席に着いている。
彼はオリーブ色のジャケットに首元はボウタイを締めていた。
タイの色は濃緑と黄色、春の配色だ。
食卓につくと、各々の服装がいっそう際立って目に鮮やかだ。
アレックスの選んだ灰色でさえもこの場では明るく見える。
春を連想させる配色は死者への慰めになる。
この国にはない春の地へ、死者は行くのだから。
「いただきましょう。クララの話をしましょう」
場を仕切るのは荷が重いと感じていたのか、ジゼルの合図にメイベルはほっとした様子だ。
食事の間、大人たちが話す母親のエピソードにアレックスが共感するところは一つもなかった。
彼らに比べると実子のはずのアレックスのほうがクララに対してまるで無知だ。
思いがけず慕われ、尊敬を受け、憧れの眼差しを向けられることもあったらしい、母を讃える思い出話に否を唱えたくなるたびに口に蓋をするつもりで食べ物を運ぶ。
今日は死者を貶す日ではない。
アレックスにとっては決して良き母ではなかったが、自動人形をとりまく企業や消費者の間ではそれなりに存在感のある人物だったらしいとようやく実感できた。
彼らが心底別れを惜しんでいるのだと理解して、今になって初めて、実母の死に胸打たれた心地だった。
食後のお茶――コーヒーではなく、紅茶――を一同で味わいながら、ゆるやかな時間を過ごしていた。
食事をしながら故人への言葉を尽くす儀式は済んで、ようやく葬儀が終わった心地で、それぞれに気を休ませている。
一番の働きぶりをみせたメイベルだけ、一足先に客室へ戻って就寝した。
「お父様とは連絡が取れないの?」
「だめだった。居所は分からない。ログを見た感じじゃ夫婦関係は事実上解消していたみたいだし、今更ってかんじなのかもしれないよ」
クララの研究所にあったデータのうち、複製を持ち出せるものは全て持ち出した。
数日かけて内容をあらため、分かった情報は数多くある。
フランチェスカの死去をきっかけにした夫婦の不仲もその内のひとつだ。
「そう。無責任なのね」
「どうだろう。分からないな」
確認をしたところ、この屋敷やいくらかの財産はアレックスに分与されていた。
彼なりの援助のつもりか、手切れ金代わりかは分からない。
ひとつ確かになったのは、アレックスにはもはや寄る辺は失われたということだ。
スノウリング家という共同体は離散していて、唯一残った、不確かな『フランチェスカかもしれない存在』だけが傍らにある。
気付いて、レフの話し相手をしていた《フランチェスカ》がアレックスを窺った。
アレックスは気付かないふりをして視線から逃れる。
「一応、仮にフランのデータを待避させる準備はできているわ。仮の機体で稼動させるなら、それも。レフの組んでいた自動人形がまだ空っぽだから」
レフがクロステルに来た際、ついでに作りかけの自動人形を仕上げるつもりで材料一式を持ち込んでいたらしい。
今はもうほとんどが組みあがって、あとはソフトの調整だけ済ませば完成する。
フランの件を考慮して完成を保留している状態だ。
「ありがとう。でも、その手間をかける前には結論を出すよ」
「あら、意外。あなた、今度は『遺体が見つかるまでは』ってのんびり悩むのかと思っていたのに」
穏やかな口調に皮肉をたっぷり滲ませて、遠慮のないジゼルの言葉は案外居心地が良い。
「しばらくフランに会っていないな、アレックス?」
思い出したようにレフが口を挟んだ。
「彼女には
「フランチェスカが安定したようだ。このまま彼女の機体にするつもりか?」
「それも一つの方法だと思う」
「きみはまだ、彼女をフランチェスカ・スノウリングとは認めていないのだな」
レフが問う。彼はすっかり《フランチェスカ》に肩入れしていた。
その点ではジゼルと立場を違えている。
「精神の複製品を肉体の模造品に入れて生き延びた少女を、私だったら彼女そのものとは思えない。それは、彼女を起点にしたまったく別の存在だわ」
ジゼルの目は《フランチェスカ》を通じて別の姿を見ているようだ。
遠く透けた瞳で少女人形を射る。
「類似が多いだけの、紛い物よ。――紛い物が総じて無価値かと言われると、どうかしらね」
結局、受け入れるのか拒絶するのか、曖昧なところに着地する。
あくまでアレックスの判断を邪魔しないよう配慮したのか、ただの気まぐれな雑感なのか。アレックスは話半分に聞き流そうと努める。
「明日は墓前に案内してちょうだい。せっかくのお花、ちゃんと届けたいの」
席を立ったジゼルのスカートの裾が計算高く翻る。
「こんなに長く列車に乗ったのは久々だわ、ああ、疲れちゃった。お部屋はどこ?」
「部屋を教える。着いて来て。レフも、なにか入り用だったら言ってください。今日はどうもありがとう。何もない家だけどゆっくり過ごして」
食事はお開きになり、それぞれに部屋へ去っていく。
ジゼルを案内した足でアレックスも自室へ戻った。
運びこんだ充電椅子に《フランチェスカ》が掛ける。
アレックスも一人掛けのソファに身を預けて、ようやく落ち着いた心地で吐息した。慣れない儀礼に、自宅での来客の対応。気の知れた人と過ごしたとは言え、疲労感を自覚する。
疲れの限界を過ぎたのか、気が高ぶっているのか、まだ眠気は訪れない。
かと言って何かに集中するような気力はなく、ただ漫然とソファに身を埋めて、何を見るともなしに部屋を眺めた。
十年過ごして、その後は時折足を運ぶ程度だった、我が家だ。
懐かしさは胸の痛みを伴っている。
家族に認められず、顧みられず、置き去りにされた場所。
誰も待ってなどいない、がらんどうの家。
「――久々に帰ってきて、どう? やっぱり懐かしい?」
アレックスは思いつきで尋ねた。
《フランチェスカ》は思わぬ問いかけに目を瞬かせ、ふっと表情を和らげる。
「懐かしいよ。嬉しい。色んなことを思い出す」
「じゃあ……酷なことを聞くけれど、死の直前の状況は? 思い出さない?」
自動人形の表情が少しだけ翳る。
それはアレックスへの質問に否定を示すものだ。
「思い出せないなら、きみ自身には幸いなことかもしれないね」
「役に立てなくてごめんなさい」
ゆるく、首を横に振る。《フランチェスカ》は表情を和らげた。
穏やかな目は過去を見た。
口元に控えめな微笑みが浮かんでいて、愛おしく懐かしんでいる。
どんな感慨が去来しているのか。
なにかとても幸福そうに彼女は目を閉じた。
「ここであなたと出会った。あなたはとびきりの誕生日プレゼントだった。私は弟が欲しいってワガママを言って……そうして、あなたが来た」
「僕は姉さんに望まれて生まれた。自動人形みたいに、誰かの望みで生まれた」
「それは、誰だってそうよ。そうでしょ」
「僕は姉さんが傍にいないあいだはずっと不安だった。姉さん以外の誰も僕を見なかったから」
「アレックス」
椅子を立ったきり《フランチェスカ》は動けずにいる。
逡巡して、しかし、一歩踏み出した。
ソファに掛けたままのアレックスの上体を抱き、頭に頬を寄せる。
髪の向こうに《フランチェスカ》の柔らかい頬の感触をうけ、アレックスは目を閉じる。
「僕を望んでくれた姉さんがいなくなってしまって、ずっと、うろたえていたんだ」
「うん」
「姉さんさえ居てくれたら余分の僕でも許されていたのに」
頷いて、《フランチェスカ》は髪に手を触れる。
そうっと、気遣わしげに撫でてくれる。
「ただ、もう一度こうやって触れてほしかった。抱きしめて、頭を撫でて欲しかった。ほかに何も求めない。もう一度、名前を呼んで――もう叶わないんだな」
「アレックス。アレックス……」
涙は出なかった。
予想した大きな喪失感もない。
きっと、四年の時間をかけて、少しずつ喪失の痛みを経験していたのだ。
ただ体を浅い虚脱感に襲われて、喋ることも次第に億劫になる。
フランチェスカ・スノウリングは死んでいた。
四年前に、実験上の事故で。
予期されていた病ではなく、突発的な要因が彼女を死へ追いやった。詳細な原因や状況についてはクララのマシンに残ったログからは読み解けなかった。
ただ両親がお互いに責任を擦り付け合い、非難し合う様子を見るに、彼らの過失が招いたのだろう。
方々へ歩き回った四年間はまったくの無駄足だったのかもしれない。
あるいは、それがなければ、今こうして事実を知ることも叶わなかっただろうか。
ソファの上で膝を抱いて、自動人形の抱擁を阻む。
そっと体を離して、でも、彼女はまだ傍にいる。
「きみを姉さんだと思って接するのは、僕にはむずかしいよ」
「うん。いいよ。アレックス。あなたが望むようにして」
「なに、それ。まるで自動人形だ」
アレックスは小さく笑う。
心の内を吐き出して、少し気が軽くなった。
その隙間にちょうど眠気が滑り込んで、今晩は深く眠れそうな予感があった。
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