第22話 透明な足跡-05


 幕間座の披露した物語を、アレックスはろくに追いかけていなかった。

 物語の端々に心当たりのある情景を見つけ、ふいの物思いに沈む――

 それは、まだ、鮮明に思い出せる。

 幼い頃の、と振り返るにはまだ早い。

 ほんの二年ほど前のこと。


 週に一度、埋め合わせをするように、両親は姉を連れて帰ってきて、いつもは留守にしている家で家族水入らずの食卓を囲む。

 週に一度は必ず四人で夕食をとること。

 これが、多忙な両親が設けたスノウリング家唯一の掟だった。

「ただいま、アレックス。良い子にしてた?」

 クララ・スノウリングは美しい母親だ。

 歳はもう四十を過ぎたのにあらゆる努力を払っていまだ娘のような肌をしている。

 忙しく不規則な生活をしているのに優秀なサプリメントで体を保って、お世辞では『まるでマチルダ・マカロワみたいだね』なんて言われているのを、いつだかアレックスも耳にした。子供たちに均等に受け継がれた少し冷たげな風貌は、クララから与えられたものだ。

 母親はすれ違いざまにアレックスの頭をなでる。

 アレックスの返事も聞かず、一週間分の着替えをハウスメイトへ託した。

 続いて父親、エルンスト・スノウリングは、痩躯の長身を猫背気味に歪めて、まず屋敷中の自動人形メイトの健康状態を診断してまわった。

 自動人形のどれもがエルンストより背が低い。

 だから彼は自然と猫背になってしまうのだ。

 すべての自動人形が来週も変わらず正常に機能することを確かめる。

 そうして、もののついでのようにアレックスをかえりみて「やあ、大きくなったね」と驚いてみせる。そうして歯をみせて笑って「当たり前か、自動人形じゃないんだもんな」と冗談を言う。

 彼はいつだってどこかおどけた雰囲気をまとっていて、真剣なのかふざけているのか分からない瞬間が多くあった。

 ……そりゃ、大きくもなる。

 だって僕は子供だから、毎日成長するのだ。休みなく、毎日。

 アレックスはいつだって両親の前では言葉を失った。

 彼らとコミュニケーションを図る術を元から持っていないかのように、言葉の接ぎ穂をなくし、ただ曖昧に頷くだけの、自動人形よりもよほどできの悪い反応しか取れなくなってしまう。

 だから、週に一度の食卓は、アレックスにとっては憂鬱な恒例行事だ。

 唯一の救いといえば隣に姉が座っていることだけ。

 食後に母親はコーヒーを淹れる。

 それまでの食事はすべて雇いの料理人に作らせたのに、そのコーヒーだけは手ずから淹れることで、手抜きのつじつまを合わせようとでもしているみたいで、アレックスは気に入らなかった。

 気に入らないことは、もうひとつ。

 そのコーヒーを飲むことはアレックスには許されていなかった。

「きみはまだ子供だからね、アレク、コーヒーは大人の飲み物だ」

「そうよ。あなたには必要ないわ」

 揃いのカップに揃いの飲み物を分け合って、夫妻は仲睦まじげに寄り添い子供たちを眺める。姉のカップの中にはコーヒーをミルクで割ったカフェ・オ・レが、アレックスのカップには真っ白なミルクが注がれていた。

 このカップの中身を飲み干せば、憂鬱な食事の時間は終わる。

 そうすれば、子供部屋へ戻って、両親には邪魔されずに姉との時間が過ごせる。

 その楽しみのためにあんまり浮き足立っていると姉に笑われてしまう。

 だからアレックスはつとめてお利口に大人しくしていた。

 生ぬるいミルクを少しずつ飲み下して、隣に座る姉をこっそり見上げる。

 長い髪を背中に流して、白いリボンを止めて後ろで纏めている。

 いつだって彼女は背筋が良い。

 今日は体調が良いの、と微笑んだとおりに今はいつもよりも肌に赤みがあった。

 いつもだったら、姉はすぐに弟の視線に気づいて微笑をくれた。

 今日はどこかぼうっとして、何か遠くを見ている。

 心配事でもあるのだろうか。

 せっかくの温かいカフェ・オ・レもいつしか冷めてしまった。

「フラン。おあがりなさいな」

 優しく、母親が促した。

「あら、わたしったら、いけない。ママ、いただくわ。温めてくれる?」

「もう。じきに卒業だからって気を抜いているんじゃないの?」

 母は温かく笑ってカップをトレイに戻す。

 厨房の使用人に言いつけて温めさせ、その間におかわりのコーヒーを夫のカップへ注いだ。

「フラン、どうも気がないね、どうしたんだい」

「そんなことないわ、パパ。ふしぎね、どうしてかしら」

「お姉ちゃん? ……」

 小さな呼びかけは届かなかったのか、彼女は何も答えなかった。

「フラン。気をつけてちょうだい」

 受け取ったカップを母はフランチェスカの手元へ寄越した。織物のコースターに載ったそれを彼女は不思議そうに見下ろしている――アレックスにはそう見えた。

 なぜだろう、空気が緊張している。

 父も母も、固唾を呑んで彼女の挙動を見守っている。

 張り詰めた空気のなかでフランチェスカはようやくカップを手にとって、口元に運んで、そして、白いブラウスが音もなくミルクブラウンに染まっていった。

 絨毯の上にカップが落ち、残りの内容物が全てこぼれてしまう。

「火傷しちゃうよ!」

 叫んで、アレックスは席を立つ。

 何か拭くものを求めて、ハウスメイトへ言いつけるためにドアへ走った。

 ドアを開ける寸前、不可解な空気感に気づいて振り返る。

 誰も動いていなかった。

 熱湯を浴びたはずの姉も声一つ上げず、姉を大切に思うはずの両親も、なにかの予兆のように静まり返っている。

 アレックスが何か問うより先に、母親が静かに泣き崩れた。

「なんてことなの!」

 すすり泣きは次第に神経質な叫びに変わっていく。

 蹲る妻の隣で、夫は俯いていた。

「フランチェスカはそんなにお行儀の悪い女の子じゃないのよ」

 嗚咽交じりにそう聞こえた。

「……フラン。今日はもう休みなさい」

 父親が静かに告げる。

 姉は頷いて、その場でぬれた服を脱ぎ始める。

「アレックス、何してるの。早く着替えを運んで」

 さっきまで泣いていたはずの母は厳しく言いつけた。

 口調はまるで使用人に対するものと代わらず、その響きに彼は少しだけ傷つく。

 今に始まったことではないので、言いつけどおりに働くことができた。

 姉が途中退場した食卓はいつにも増して気詰まりで、アレックスは言葉どころか呼吸さえも失いそうだ。

 気落ちする母を父が慰めている。

 そういうときは決まって姉の病状の話をしているのだ。

 悪化したのかもしれない。だけど確かめるのが怖くて、なるべく話し声から意識をそらして、ぼんやりしていた。

「アレク、きみももう寝なさい。シャワーを浴びて。新しい寝間着でね」

「はい」

 全ての支度を済ませて子供部屋へ戻る途中、姉の寝室を覗き込んだ。

 もう横になっている。穏やかに眠っている。

 いつもと代わらない綺麗な寝顔を、アレックスはちょっとだけ眺めてから戻ろうと決める。

「お姉ちゃん、あのね」

 起きていてくれたらいいのに。そう思って呼びかける。

 望みどおり、姉はすぐに瞼を開いた。

「どうしたの、アレックス。眠れない?」

「あの……大丈夫? 火傷しなかった?」

「大丈夫よ。すこし疲れちゃったの」

 失敗を恥じるように笑う。思っていたより元気そうだ。

 アレックスは安堵して、一度気持ちを落ち着けて、言わなきゃいけないことを伝えようとする。

「あのね……オルゴールのこと」

「オルゴール?」

「お姉ちゃんのオルゴール。あったでしょ」

「……」

 姉は答えない。忘れてしまったのだろうか。やはりまだ体調がすぐれないのか。

「今日はもう寝ましょう、アレックス」

 そう言われてしまうと、これ以上続けられなかった。

 アレックスは己の子供部屋へ戻り。

 そっと、壊してしまったオルゴールをベッドの下から取り出した。

 明日これを持って謝ろうと思う。木製の硬い箱を抱きしめて眠った。

 翌日、様子のおかしい姉を連れ、両親は研究所へ出かけた。

 アレックスは一度も立ち入ったことのないその場所こそが、彼らの本当の家のようでいつも心細く見送った。結局オルゴールのことは言い出せないままだ。

 次の週、恒例の食卓で、フランチェスカは先日の不調が嘘のように元気だったから安堵する。

 杞憂だったのだと安心して、その日、アレックスは存分に姉に甘えることができたのだ――



 拍手の音にふと我に返った。

《代理》は舞台からの一礼を寄越し、暗幕の向こうに消える。

 ベッドから起き上がったキャンディが老婆の扮装を解いて、華やかな髪を振り乱して観客に手を振った。

「……ニネット」

 群集のなかを見渡して、ニネットの姿を探す。

 通路を挟んだ隣の席にはいつの間にか親子連れが掛けていた。

 席を譲ったのだろうか。そうだとしたら、今はどこへ。

 迷子になってしまったのか。ニネットの名を呼びながら会場を歩む。

 同じように子を探す親が居て、傍目に彼らが再会する様子を見ながら、アレックスは更に焦りを募らせた。

「ニネット!」

 返事はない。

 そうしているうちに、次第に人が減って元通りの広場になっていく。

 とうとう簡易客席の片づけまで始まってしまった。迷子を捜しているはずなのにアレックスのほうこそ迷子のような心細さに捕らわれる。

 普段のショーをしている時とは違った事務的な動きでイワーノフがベンチを畳む姿が見える。演者に話しかけるのは躊躇われたが、他に有効な手段もない。

「恐れ入りますが、あの」

 アレックスは彼の姿を良く知っているが、イワーノフはアレックスのことなどまるで覚えてはいないだろう。観客のひとりひとりを覚えているはずがない。

 思ったとおり、イワーノフは怪訝に少年を見下ろした。

 やっぱり後を付けられていたなんて子供じみた思いすごしだったのだ。

「女の子を見かけませんでしたか。一緒に来たんですが、居なくなってしまって」

「おや、迷子かね。それはいけない。しかし申し訳ない、私は上演中は舞台に集中していてね、観客席の隅から隅まで把握するわけにはいかないんだよ。キャンディ、きみは何か知らないかい?」

「さあねえ、知らないわぁ。女の子って気まぐれだから、案外舞台に飽きて先におうちへ帰っちゃったのかもね。そうだとしたら、へたくそイワーノフのせいだわ!」

「これは厳しいね。――というわけだから、一度おうちに戻って大人の方と相談してみるといい」

 まだ舞台の続きを見ているような芝居じみたやりとりに辟易する。

 短く礼を言って踵を返した。簡易ベンチが折りたたまれる乾いた音が遠ざかる。

「またの再会を心待ちにしているよ、きみ。馴染みの顔があると心強い」

 去り行く背中に聞こえた声にアレックスは振り返る。

 そこにはもう劇場の名残はなく、旅支度のイワーノフだけが立って、アレックスへ深く一礼を寄越した。

 咄嗟に反応できずにいると、やがてイワーノフは駅へと歩んでいく。

「……」

 覚えていたのか。それとも適当な社交辞令だったのだろうか。

 今構っている時間はなかった。アレックスはホテルへ急ぐ。



 こういう時に走れないから、自動人形を連れ歩くことの不便さを実感する。

 これを便利だと言い訳して連れている人を捕まえて、納得いく説明を聞きたいくらいだ。あいにくこの町ではほかの自動人形の姿はまるで見かけない。

 だから、きっとフランだって厚着をさせれば自動人形だとは気づかれなかっただろう。余計な荷物になるから彼女の衣類は必要最低限のみの用意しかない。

 今後は下調べが必要だとアレックスはひとつ学んだ。

 ホテルの窓は曇りひとつなく、ほかの家に比べて寒々しい。

 今晩も冷え込みそうだ。暮れ行く空を見上げる。

 ニネットはきっと先に帰ったのだ。なにか事情があって。

 そうでなければ、なんと説明したら良いだろう。

 この家の母親、ニナと話をすることを考えて今から気が滅入った。

 なにが苦手なのかというと、ニナがいつだって気を張って、すべての仕草が『ほら、わたしは立派な母親でしょう』と他人の目を意識していることなのだ。

 わざとらしい母性をふりまいて、ちゃんと母親でいますよ、と誰へともなく弁明している。

「あら、戻ったのね、アレックス」

 アレックスの空想が呼び出したみたいに、ドアの向こうからニナが現れた。

「寒かったでしょう。お入りなさいな」

 部屋の中だというのに彼女は厚い皮のコートを着込んでいる。

 招かれるまま、アレックスは扉をくぐった。

 彼女はアレックスの挙動を見守り、後ろ手に戸に施錠する。

「上着を預かるわ」

 細くしなやかな、しかし疲れた指が肩に触れ、手馴れた所作で上着を脱がす。娘たちの上着をいつもそうして脱がせているのかもしれない。

「あの。ニネットは先に帰っていますか」

「ニネット? どこの子かしら、来てないわ」

 思わぬ返答に反応を返せない。

 彼女の張り付いたような微笑を見上げ、アレックスは理解した。

「ニネット、あなたの娘です。長女のエドリスを探しに出かけた。今朝の話だ」

「うちに娘はいないわ。あなたは今朝一人で出かけたんじゃなかった?」

 何を言っても無駄なのだと、アレックスはその仮面のような微笑に気圧される。

 正しい言葉がいくつも思い浮かぶのに唇は持ち上がらないままだった。

「ニネットはどこですか」

 それだけをようやく問う。

「もしかして、あの子のことを思い違いしたんじゃない」

「あの子?」

「その部屋に。あなた、好きなんでしょう。それで思い込んじゃったんだわ」

 階段下の扉の前へ、ニナに案内されるまま歩んだ。

 促されて扉を開ける。

 暗い部屋に廊下の明かりがさして、人のかたちが浮かび上がった。

 ニネット。

 違う。

 それは、女の子の姿をした自動人形だ。

「違う、これじゃないっ――!」

 振り返りざま蹴りこまれ、勢いよく扉を閉ざされる。

 閉じ行く扉の隙間から、子供を蹴りつけたエリックのばつの悪そうな顔が見えた。

 それから、何が起きたかもわからない顔で立っているフランの姿も。

 すぐに光は奪われ、アレックスは暗闇に閉じ込められた。

 がちゃん――と、冷たく硬い金属音が響く。

 扉に、外から鍵を掛けられたのだ。


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