第21話 透明な足跡-04

 その時、エドリスは十五歳になったばかりだった。

 ホテルで作る食事の材料や、パン屋さんへ注文していたバゲットを買い集めるのが、もうおとなになったエドリスのお仕事だ。

 ニネットは彼女の横について、荷物もちのお手伝いをする。

 エドリスについて歩けばニネットは何もかも安心だ。

 ニネットの夢はエドリスみたいな立派なお姉さんになることだった。

 今もその気持ちは変わらない。

 ただ一つ困ったことがある。

 エドリスはだれにでも優しくするので、いろんな子から『お姉ちゃん』と呼ばれて慕われてしまう。

 本当はニネットだけのお姉ちゃんなのに、他のみんなもエドリスのことを自分だけのお姉ちゃんだと思って接する。それにエドリスも快く応じるので、ニネットの心は嫉妬でちょっぴりくさくさしてしまうのだ。


「その時は、いつも通りの道順で買い物をしておうちに帰る途中だった。

 誰か来て、って声が聞こえたの。それがすっごく困った声だったから、エドリスは様子を見てくるって、走って行っちゃった。

 わたしはエドリスのぶんまで荷物を見てなきゃだから、動けなかったの……」

 言葉のたびにニネットの顔の前で吐息が白く舞った。

 繋いだ手は二人ともすっかり温まっていて、アレックスは自動人形メイトとは違うその感触に驚かされる。

 フランと手を繋いだって、こうしてぽかぽかすることはない。

 ただ体温を持たない自動人形の手がアレックスによって温められるだけだ。そこにあるのは一人分の体温で、こうして繋いだ手のなかには二人分の体温がある。

 驚くべき、しかし当然のことだ。

 ニネットも、いつか、あるいはいつも、こうしてエドリスと歩くのだろうか。

「もうちょっとでおうちに着くのに、エドリスが戻ってこない。

 わたしは一人で待ってて……でも、不安になって、エドリスを追いかけた」

「うん」

「それでね……」

 町の少し外れた場所に川が流れている。

 アーチ状の橋を渡って、中ほどでニネットは立ち止まった。

 ニネットよりも少しだけ背の低い欄干に手をかけて、彼女はつまさき立ちで川面を覗き込んだ。

 流水のためか凍りついてはいない。

 川の両端は舗装されレンガ壁になっている。

「エドリスは川に落ちたの。こどもを助けて、流されたんだって。あのね、この辺は寒いでしょ。だからいっぱい着込むでしょ。そしたらたくさん水を吸っちゃう。エドリスが助けた子はまだ小さくて軽かったから、すぐに上がれたんだって。でも、エドリスにはむずかしかったの」

「それで……」

「わたしがここへ来たとき、エドリスは川から助け出されて、ぐったりしてた。

 大人が集まって、エドリスのことを助けようとしてくれた。

 病院で、エドリスは何日も何日も眠って……

 次に目が覚めたとき、エドリスはいろんなことを忘れてた。

 言葉も、フォークの使い方も、歩くことも。

 ……まるで人形みたいにじっとして、黙っているの」

 爪先立ちに疲れたようにニネットがしゃがみ込んだ。

 着込んだ彼女がそうすると、衣類の玉ができたみたいだ。

 アレックスも膝を折って彼女となるべく身長を合わせる。

「今は、いろいろ、ちょっとずつ思い出してるよ。

 好きだったお菓子とか、簡単な言葉とか、歩くことも……」

 二人とも同じ方向を見ていた。水底の色が透き通る川面を。

 静かな水音に耳を傾けていた。遮るものもなく風が通り抜ける橋の上では、むき出しの顔に冷風が当たって痛いほどだ。

「ここは寒いよ。町へ戻ろう」

 アレックスの提案に少女は立ち上がって頷いた。

 その顔には今までになく心細さが浮かんでいる。

「あのね、これって、わたしの作り話かなあ? アレックスもそう思う?」

「え?」

 何故そんなことを言い出すのか分からない。

 話の真偽を確かめる術を持っていない。

 ニネットは思いつめたようにアレックスを見上げた。

 そんなことないよ、と言われるのを待っている顔だ。

 だから、アレックスはそうした。

「作り話だなんて、そんなこと思わないよ」

 今度こそニネットを安心させられる言葉が正直に出てきたことに安堵する。

「ニネットが僕に嘘をついて、何か良いことがある?」

 少女は肩から力を抜いてほっと息を吐いた。

 元気良く頭を横に振って「ない」と自信たっぷりに答える。

「でもね、ママはね、作り話だって言うの。エドリスなんて女の子は居ないよ、わたしがそう思い込んでるだけって。……昨日の昨日までは、ちゃんと居たのに。ごはんも一緒に食べたのに。おやすみって言ったのに」

 欄干にしがみつくように手をついて、ニネットは続けた。

「でもね、それは自動人形との人形遊びだったでしょって、ママが言うの。

 エドリスの部屋にね、見たこともない人形が置いてあった。

 でも、顔も背丈も、エドリスとは全然違うの」

 アレックスは想像する。

 覗き込んだ姉の部屋に、無口な人形が居座っている光景を。

 それを姉だと指し示す母親の微笑みを。

「エドリスは、あの時死んじゃったのかな。それで、わたし、ずっと幽霊を見てたのかな。ゆうべからずっとそんなこと考えちゃうの。もう会えないの? エドリスは帰って来ないの? パパもママも、エドリスのことを忘れちゃったの?」

 ――また妹ごっこなのよ、あの子。お姉ちゃんなんて居たことないのに。

 彼女の母親の声が甦る。

 エドリスは彼女の空想上の姉だと言う。

 けれど、アレックスにはニネットが姉を語る言葉が作りものとは思えなかった。

 彼女の抱く不安は覚えのある、それどころか非常に身近な感覚だ。

 ――フランチェスカは本当に居たのか?

 ――周囲のみんな、気を使って、真実を言わないだけかもしれない。

 あなたがお姉さんだと思い込んでいたのは人間じゃない。

 あなたが追いかけているのはただの幻だ。

 違う、そうではない――彼女の足跡をたどってようやく明らかになったのは、フランチェスカが確かに存在した人間だということにとどまる。

 それでも大きな飛躍だった。

 彼女の実在を確認することができたのだから。

「エドリスは、居るよ」

 アレックスは思う。

 自分だって、一番心許なかった時期に誰かに『フランチェスカは存在しなかった』と吹き込まれたら、その言葉を信じて揺れただろう。

 そうしていつしか納得してしまっただろう。

 最初から彼女は居なかったのだ、自分の思い込みに過ぎなかったのだ――と。

「うん」

「エドリスなんか居ないって、どうしてそんな嘘をつくのかな」

「分からない……」

「ホテルへ戻ろう」

「うん」

 いくつかの推測が去来して、アレックスはしかし言葉にすることは避けた。

 あやふやな言葉はなおさら彼女を惑わすだけだ。

 二人は来た道を戻る。

 その後ろを自動人形が付き従って歩んでいく。



「アレックスのお姉ちゃんのこと、聞いても良い?」

 ずっと聞きたかったみたいな、でも遠慮がちな問いかけにアレックスは応えた。

「うん? 良いよ。どんなこと」

 二人はまたいつからか手を繋いでいる。

 本当はニネットのほうこそアレックスの不安に気づいているのかもしれない。

「アレックスと似てた? 仲良しだったの?」

「実は……フランは姉さんにそっくりな姿をしているんだ。だから、見た目は大体フランと同じだと思っていいよ」

「本当! あのね、そうじゃないかなって、実はちょっとだけ思ってたの。だって、ふたり、似てるもの」

 ニネットが後ろを振り返る。

 ずっと黙って二人の後について来る自動人形を興味深く眺めた。

「仲は、良かったと思う……」

 表面的には。そう内心で付け加えた。

 アレックスは二人の関係について明確に言葉にする自信を持っていない。

「優しそうだもんね、お姉ちゃん」

 まだフランを見上げたまま危なっかしい足取りで歩いている。

「優しかったよ。普段は、彼女は寄宿舎で暮らしていたから、僕は時々しか会えなかったんだ。いつも会うのが楽しみだった。いつだって、その日が待ち遠しかった」

「別々に暮らしていたんだ。わたしもエドリスと離れて暮らすのはいやだな。ね、歳はいくつ離れてたの? 三歳くらい……?」

 アレックスとフランを見比べてニネットが問う。

「フランは、姉が十七歳のときの姿をしているんだ。そのとき僕は十歳だった。だから、七つ違いだね」

「七つ違い。じゃあ、わたしたちと同じだね」

 振り返った先、フランの姿を見て気づく。

 いつか受けた印象より彼女が小さく見えた。

 時々こういう認識の更新があって、アレックスはそのたびに焦燥感に駆られる。

 時が経って、体が勝手に成長していく。

 大事なものを置き去りにしたまま歩いているような不安感に捕らわれる。

「お姉ちゃんはどんな人だったの?」

「うん。優しくて、明るくて、几帳面かと思えばちょっとずぼらなところもあって……、僕にとっては頼もしい姉だった。姉さんが言えば、なんでも正しいように思えた。父さんや母さんに感じるよりもずっと、姉さんに安心を貰ってた」

 他人事みたいに振り返る。今と以前では随分認識が変わったと思う。

 姉の頼りなさを今は知っている。

「じゃあ、フランは、アレックスのお姉ちゃんに似てないね?」

「顔と声は似ているけど、あとは全然違う。こいつは危なっかしくて見てられない、僕に心配と苦労ばっかりかける」

「あはは」

 ニネットが笑って、喋りすぎたと己を恥じた。

 言葉にして初めて、ずっと心配していたのだと今更気付く。

 姉への手がかりだから――所有している理由のひとつは失ったばかりなのに、まだ扱いあぐねて、惰性のまま連れ歩いている現状に良い心地がしなかった。



 ようやく駅までたどり着く。

 駅にはそれほど人がおらず、まだ運行が復旧していないのだと察した。

 端末で習得している運行情報も更新されていない。

「もうしばらく帰れなそうだな」

「そうなの?」

 尋ねるニネットはちょっとだけ嬉しそうだ。

 だけど、本当は喜んじゃいけないんだという自制心で喜びを抑えている。

 その気遣いを嬉しく思って、アレックスも微笑んだ。

「あと二日くらいは、ニネットのうちに泊まってるかも」

「うん!」

 駅舎を通り抜け、駅前広場へ出る。そこに控え目な人だかりが出来ていた。

「あ……何だろ、あれ」

 人が集まっているならエドリスの情報収集に丁度良いかもしれない。

 近づくにつれ、彼らの注目する先に何があるかがわかった。アレックスには馴染みのあるものだ。

人形歌劇団≪幕間座≫インテルメディオ・ギニョル

 看板が立てられる。背の高い男が連れのちいさな自動人形となにやら話しながら上演の準備を進めていた。

「幕間座だ。ここにまで」

 まさかここまで行く先が同じだともう偶然とは思いがたい。

 クロステルでは今頃フリーク・フェアの本祭が催されているはずだから、わざわざ人の少ないロウェルへ移動する動機が理解できなかった。

「知ってるの?」

「うん。旅先で何度か見かける」

「へぇ……!」

 ニネットは興味津々に彼らを眺めた。

 見るからに作り物だと分かる自動人形・キャンディを見つけてニネットは歓声をあげる。

「わぁ。ちっちゃい自動人形、可愛いなあ」

「もっと近くで見てみる?」

「うんっ」

 言うなり駆け出して行く。

 集う人々はそれほど自動人形に抵抗感がないのか、それとも見て明らかに自動人形と分かるビスク・メイトならば拒否感を覚えないためか、物珍しげに舞台を眺めていた。

「お坊ちゃん方にお嬢ちゃん方、お集まり! 《幕間座》の特別興行をどうぞご笑覧あれ!」

 戸惑いがちな拍手も次第に数を増し、盛大な歓迎を彼らへ示す。

 ニネットもつられて手をたたきながら、「何? 何が始まるの?」と期待に唇を綻ばせた。

「人形劇だよ。見たことある?」

「ううん! ない! ねえ、見てもいいの? お金は?」

「お金はタダみたいなものだよ。十五分くらいだし、休憩がてらに、丁度良いよ」

 ニネットの様子から、今更引き戻すのは難しそうだ。

 気分転換に、足休めに、区切りのある公演はむしろ都合が良いように思う。空席を探すが盛況で、仕方なく通路を挟んで二手に分かれ、それぞれにベンチに腰掛けた。

 人垣にまぎれたニネットを注意深く視界に入れて、アレックスは簡易づくりの劇場を眺める。向こうには、ふいにできた人だかりを訝って遠巻きに見る人もいる。

 視界の端でニネットは明るい顔で、先ほどまでの沈んだ様子は微塵も窺えないからアレックスは少しだけ安堵した。

「席は譲り合って、背の高い方は後ろで立ち見を。ご協力お願い申し上げます」

「ちびっこたちが優先よん! なにせ子供たちのための《幕間座》なのだから」

 キャンディがイワーノフの肩をすべり降りながら言う。

 彼女を手のひらで受け止めて、イワーノフは言葉を継いだ。

「プリマはそう仰いますが、お客を選びはしませんよ。ささ、どうぞお集まり!」

 観客たちの動きがやがて収束して、簡易の劇場に劇場らしい期待の空気が降りる。

 開幕を告げる手回しオルガンをキャンディが奏で始めると、陽気でどこか切ないメロディが広場を包み込んだ。

「今日の演目は滑稽な泥男の物語! 泥の男とはね、なんとも奇妙な響きだね、キャンディ?」

「泥んこの汚い男の人かしら?」

「いやいや、違う、そうじゃない。彼は泥のように怠け者だったのさ」

「怠け者って泥みたいなの? 泥って怠け者みたいなの? あたしには分からないわ」

「失礼。お客様の中に泥はいらっしゃいますか? いらっしゃらないようですね。では、『怠け者とはなんだ』と腹を立てることもありますまい。さあ、お話のはじまりはじまり。それは一人の怠け者の、世にも不思議な物語――」

 小さな劇場の幕が上がる。

 そこには白衣の人形が、床に身を投げ出して寝転がっていた。

『面倒臭い面倒くさい、ああ、何もかもが面倒だ』

「彼は高名にして聡明な科学者。

 数多の研究を成し、大いに世間に貢献し、いまやその名を知らぬ者はない。

 完璧に思える彼にはひとつ欠点があって――」

『ああ、息をするのも面倒だ。

 食事をするのも面倒だ。

 誰か代わりにやってくれ。

 眠ることすら面倒だ』

「このように、人一倍の怠け者だったのです」

『ああ、君たち。僕の代わりにトイレへ行ってくれるかい?』

 不意に観客席へ呼びかける人形の仕草に子供たちははしゃいで手を叩く。

 良い反応に調子を良くし、イワーノフの劇は続いた。

「この怠け者の科学者、ここまで働けたのは彼の才能と実力を知った仲間たちが今まで必死に尻を叩いたから」

『来週までに論文を書いてくださいね。

 できるまで見張っていますから。

 どこへも行かせませんよ』

『はやく実験結果を検証してください。

 終わるまで外には出しませんよ。

 怠けるのはその後で存分にどうぞ』

『博士、学会へ行きましょう。

 面倒臭い? 馬鹿言わないで。

 みんなあなたを待ってるんです。

 首輪をつけてでも連れて行きますからね』

 舞台に現れた沢山の影が口々に博士を呼ぶ。

 博士、博士、博士。

 博士! 博士! 博士!

 こっちで研究あっちで実験、そこで論文むこうで講義。

 週に八日も働くような生活に、とうとう彼は嫌気が差した。

『ああ面倒だ面倒だ。僕は何もしたくない。

 呼吸をするのも面倒だ。考え事も面倒臭い。

 何故僕が働く。なぜ皆僕に仕事を命じる。

 わが頭脳が恨めしい。こんな脳みそくれてやる。

 誰か、代わりにやってくれ――』

『ああ、でも、博士。

 あなたがやらなきゃ、誰がやります?

 そんな大それたこと、あなたじゃないとできないんです。

 あなたの代わりは居ないんですよ。

 だからどうか、立ち上がって』

 キャンディ扮する女性が博士に近づいた。

 大人しいメイクと衣装、清純そうな女性の役だ。

 親しみを込めて博士に寄り添う姿から、じきに恋人だと判明する。

『きみが言うならそうしよう。

 あと十分だけがんばろう。

 そしたら三十分休憩して、また十分だけがんばろう』

『ええ、そうですわ。がんばって。

 それでこそ博士、みんなに頼られる立派なあなたですよ。さあ』

「怠け者の博士はこんな具合で働いた。

 しかし誰かが手綱を放した途端、彼は怠け者の本領を発揮するのだ。

 それで手遅れになることもあった。

 彼はこってり絞られ、たくさんの人に叱られた。

 お説教は面倒臭い――そう理解して、じきに誰にも文句を言わせない結果を出す。

 それが彼の行動様式だ。

 しかしある日、限界が来た。

 怠けずにはいられない。彼は自由気ままに怠けた。

 怠けて怠けて、ふとひらめいた」

『そうか。

 誰かに任せればと思っていた。

 代わりは誰も引き受けてはくれない。

 なら、僕をもう一人作ればいい』

「たいへんな頭脳を持つ博士はこれを成し遂げ、自分にそっくりな《代理》を作り出した」

 博士の背後からもうひとつ、博士そっくりな人形が手品のように登場する。

『代理。お前をこれから僕の代理にする。

 心得ろ。バレてはまずい。

 バレないように、はじめは少しずつ入れ替わろう』

『ええ、主よ。仰せのままに』

『一日のうち三時間僕が働き、もう三時間はお前が働く。

 その後の三時間も僕が、またその後の三時間をお前が』

『交互に入れ替わることで、我々の違いを見抜けぬようにするのですね。

 さすが博士だ』

『わっはっは。自分と同じ顔に褒められるのは、なんと不思議な気分だろうか。

 うまくやるんだ、代理よ』

『私はあなたのそっくり人形。見抜ける者はおりますまい』

 二人は不敵な笑いを浮かべ、その日から交互に《博士》をするようになった。

 博士のたくらみは見事成功し、誰も二人を《二人》とは見抜けない。

 次第に博士はより多くのことを『代理』に任せるようになり、とうとう仕事をせずに済む日々を手に入れる。

 博士は賢い人だったので、代理が仕事をしている間に映画館へ出かけたりなどしなかった。

 同じ時間に別々の場所に居たなんて、誰かにバレてはご破算だ。

 だから博士は影に徹して、代理が表に居る間は、地下の部屋に篭って過ごした。

 元々怠け者のこと、ひとところでじっとするのは苦ではない。

「はじめは二人の経験を共有するため、お互いの行動をモニターで確認しあっていた。が、怠け者の彼のこと、次第にそれも止めてしまった。心配せずとも《代理》はうまくやっている。天才博士の産物なのだ。誰も仕掛けに気付かずに、《代理》を博士と思っている」

 地下と地上の日々が描き出される。

 地上であくせく働く《代理》の姿。

 その下で、まるで死人のように動かない《博士》の姿。

「呆れたことに、博士は己の結婚式まで《代理》に務めさせたのだ――」

 怠け者の博士に驚き呆れ、笑う声。

 二人が《二人》であることに、気付いているのは観客だけだ。

 舞台に居るものたちは、彼らの仕掛けに気づかない。

『ああ、楽ちんだ、天国だ。何もしなくて良いなんて。

 これが僕の本望だ。全ては《代理》がこなしてくれる』

 博士は怠け生活を謳歌する。

 家族も、恋人も、上司も、同僚も、部下も――

 全ての関係者を騙したまま《代理》に役目を押し付ける。

 もしここで全ての種明かしをしても、皆は信じないだろう。

 みんな、一体いつから、彼本人に会ってないのか、あとから思い返したって分からなかっただろう。

 公私の全てを代理に任せた博士は、いつしか怠けることしかしなくなった。

「怠け者の科学者で、怠け者の趣味人で、怠け者の恋人だった男。

 彼はいつしか科学者でも趣味人でも恋人でもなくなって、ただの怠け者に――

 いや、怠けるはずのすべてから解放された《無印の男》になってしまいました」

 何の不自由もない地下室で、時折代理に命じて必要なものを運ばせる。

 もはや男の全ては《代理》が担っているから、地下室にいる男が生きようが死のうが世間には何の影響も及ばない。

 いいや、怠け続けて体形の崩れた怠け者の博士と、怠けることを知らない《代理》では、どちらが信用を得るかは明白だった。

《代理》は博士に命じられ、博士の存在を匿い続けた。

『ねえ、あなた、地下室に何を運んでいるの?』

 恋人から妻へと立場の変わった彼女が不安げに問いかける。

『いいかい、きみ。地下室に何があるかは知ろうとしないでくれ。

 僕は良く働いているだろう?

 たまに怠けるために、地下室へ行ってもいいはずだよ』

『ええ、それは、勿論です。

 あなたは見違えました。

 もう誰もあなたを怠け者だなんて陰口を言わないでしょう。

 みんなあなたを尊敬しています。

 良く働く、まるで疲れを知らない、機械みたいなあなた。

 でも、ときどき心配になるんですよ。

 なんだか、以前とは人が違ってしまったみたい』

『ふむ。人が違ったのかもしれないよ?』

『ええ、当然そうでしょう。

 あなたはもう怠け者博士ではなく、働き者博士なんですから』

「まさか入れ替わりが起きているなんて想像もしない。

 彼女は朗らかに笑い、博士のために作った食事を《代理》と共に摂るのだ。

 薄情だと思いますか? でも、無理もありません。

 《代理》は博士そっくりだ。

 対する博士は、かつての自身とも似つかぬ巨漢になってしまったのですから。

 ――そして、それを見ていた神様は、男に罰を与えることにしました」

「神様は男の才能を恐れていたので、いつも男のことを見ていました。

 隠しておいた世界の秘密や仕組みを次々に男に暴かれることが、神様には恐ろしかったのです。同時に期待し、楽しみにもしていました。

 ですが、男の怠けぶりが段々とひどくなるさまを見て、神様は深く落胆しました。

 だから、神様は、彼を泥に変えてしまいました」

 舞台の暗転が明ける。

 地下室にはボロ布が重なってできた《泥》が登場している。

 泥は戸惑うように蠢き、次第に動きを止めた。

「泥のように怠ける男は、本当に泥になってしまったのです」

『ああ、そうか。僕は泥になったのか。

 では、これからはもう呼吸も睡眠も排泄もせずに済む。

 ああ、嬉しい。もう生きなくていいんだな。

 ああ、疲れた。

 はぁ……――』

「吐息をひとつ。

 それ以降、泥が動くことはありませんでした。

 泥はそのうちに乾き、干からびて、消えてしまいました。

 残された代理は、変わらずに博士としての人生を続け、とうとう、知り合いの全員が死ぬまで、代理を貫き通しました」

『やあ、困った。まさか、博士が消えてしまうとは。

 代理として生まれた私は、いつまで代理を続ければいいのだろう』

 独白する《代理》の前にはベッドがひとつ。

 年老いた妻がそこに横になっている。

『ああ、あなた。あなた……、わたしは幸せだったわ。

 あなたと、子供たちと、この年まで生きて、あなたに見取られるなんて……

 幸せな、人生の幕引きね』

 微笑む妻を前に《代理》はうろたえていた。

 真実を打ち明けずに見送っていいのだろうか?

 しかし、打ち明けたところで何になるのだろう。

 騙されていることを知らぬまま逝ったほうが幸せだ。

 いいや、そもそも、もはや博士本人よりも代理のほうが、彼女と過ごした時間は長くなっていた。

 とすれば、一体何を持って、騙していたと判断すればいいだろう。

 今となってみれば、代理こそが博士本人だと言っても過言ではない。

 代理は悩み、悩んで、結局――

 博士として、彼女の夫として、彼女の眠りを見届けた。

「代理は、真実を打ち明けることで誰かを傷つけたくなかった。

 生涯、真実は飲み込んで、博士として生き続けた。

 もっとも、本当に博士と代理が入れ替わったのか、その事実を示す証拠はどこにもない。博士は泥になって、消えてしまったのだから――」

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